精密検査のため、病院には三日ほど滞在することになった。
  その間、姉のビアンキがちょくちょく顔を出して何かと世話を焼いてくれた。また来ると言った綱吉はしかし、一度として病院へは顔を出さなかった。
  退院する獄寺には、運転手つきの車が寄越されただけだった。
  自分は、そんなにも価値のない人間なのだろうか。役に立たない獄寺のために、ボスが時間を割く必要はないと判断したのだろうか。
  不安に思いながら獄寺は後部の座席に乗り込んだ。
  車はすぐに発進し、ボンゴレの屋敷へと向かって走り出す。
  恐かった。このまま屋敷に戻っても、綱吉はもしかしたら自分を見てくれないかもしれない。そう思うと、不安な気持ちでいっぱいになり、獄寺の指先は自然と震えてくる。
  帰りたくないわけではない。しかし、今さらどの面を下げて綱吉と顔を合わせろというのだろうか。
  震える手を気取られたくなくて、ぎゅと拳を握った。
  仏頂面のまま窓の外を眺めていると、ハンドルを捌きながら部下が声をかけてきた。
「お加減がよろしくないのでは?」
  言われて、獄寺は相手をぎっと睨みつけた。
「大丈夫だ」
  本当は、そう返すのが精一杯だった。
  鼻の奥がつんとして、目がヒリヒリとしている。獄寺はこっそりと溜息をついた。
  最初の日に病室を訪れた綱吉は、また来ると言って帰っていった。あの時、獄寺の肩先に触れた唇の意味を、獄寺は知りたいと思っていた。次に病院に綱吉が来たら、その時には尋ねようと思っていた。しかし綱吉は来なかった。肩先に唇が触れた感触は、獄寺の体にしっかりと残っている。今でも正体不明のあのわけのわからない熱が、唇が触れた肩に感じられる。あれはいったい、どういう意味だったのだろうか。
  シートに背をもたせかけると獄寺は、屋敷に着くまで目を閉じて眠ったふりをした。



  綱吉の執務室を尋ねると、部屋には山本がいた。
「よ、獄寺。怪我の具合はどうだ?」
  あっけらかんとして笑いかけた山本をひと睨みすると獄寺は、正面の机で書類を眺める綱吉に向き直った。
「おかえり、獄寺君。精密検査はすべて問題なかったけれど、しばらくは自宅療養をするようにと病院から連絡をもらったよ」
  書類に目を通しながら綱吉は、そう告げた。
「自宅療養……ですか?」
  信じられないと、獄寺は思った。自分はたった今、病院から戻ってきたところだ。離れていた間の分を取り返すべく、これからすぐに任務に戻ろうと思っていたというのに、そんなことを綱吉から言われるとは思ってもいなかった。
「そう。一週間の自宅療養だよ」
  そう言って綱吉は顔を上げた。
  真っ直ぐに獄寺の目を覗き込んでくるうす茶色の瞳が、何故かしら怒っているように見える。
「任務は……」
  弱々しく呟いた獄寺の言葉を遮って、綱吉は言った。
「山本にはこのまま任務を継続してもらうけれど、獄寺君には任務から外れてもらおうと思うんだ。獄寺君のかわりに雲雀さんに……」
「大丈夫です!」
  獄寺は机越しに身を乗り出す。
「すぐにでも任務に戻れますから、このまま…──」
  言いかけた獄寺の鼻先をピン、と指で弾いて綱吉は溜息をついた。
「落ち着いて、獄寺君」
  鼻先を押さえた獄寺に、綱吉は柔らかな笑みを向ける。
「君は、この任務から外す。もう決めたことなんだ」
  その言葉を獄寺は、もしかしたら胸の奥底で予感していたのかもしれない。しかし耳にした瞬間、頭の中がカッとなった。高ぶった気持ちのまま、両手で机を力任せに叩いていた。



「なんで……」
  言いかけた獄寺の隣で、山本が動いた。
「じゃあ、俺はこれで」
  決まり悪そうにそう告げると、これから任務に戻るのだろう、山本は足早に執務室を出ていく。
  パタンと音を立ててドアが閉まった。
  二人きりになった途端、獄寺はさらに執拗に綱吉に食い下がった。
「なんで俺じゃ駄目なんスか」
  眉間に皺を寄せて獄寺が尋ねると、綱吉は困ったように溜息をつく。
「だって獄寺君、療養中だし」
  何となく歯切れの悪い綱吉の優しげな顔に、獄寺は自分の顔をぐい、と近づけ、覗き込む。
「大丈夫です。今からすぐにでも……」
  握り拳を振り回して獄寺が言うのに、綱吉は顔をしかめた。
  気乗りしない様子で椅子から立ち上がると、ぐるりと机を回って獄寺のほうへと近付いていく。
「とにかく、駄目なものは駄目だ。一週間の休暇を取って、のんびり怪我を治すことに専念してほしいんだ」
  怪我を治すことに専念してほしいと言われた瞬間、獄寺の胸の奥の黒い獣が、いやらしく忍び笑いを洩らした。お前は捨てられるのだ、と。役に立たない部下など必要はない。ましてやお前はボスの右腕だと言いながら、任務途中に怪我をした。任務ひとつまともにこなすことのできない右腕など、お払い箱も同然だ、と。
「お願いです、十代目。このまま任務に戻らせてください」
  言いかけた獄寺は、綱吉の肩をガッと鷲掴みにした。
「お願いです!」
  何度も肩を揺さぶるが、綱吉は小難しい顔をしてじっと獄寺を見つめ返すばかりだ。
「戻らないと……」
  必死になって獄寺が言いかけたところで、綱吉の腕がぐい、と掴んでいた手を振り払った。
「もっ……」
  尚も言い募る獄寺の腰をぐい、と引き寄せた綱吉は、目の前の唇を噛みつかんばかりの勢いで塞いだ。
「ん、ぅ……」
  獄寺の頭の中が、真っ白になった。



  自分は今、綱吉とキスしている。
  唇と唇が合わさって、うっすらと開いた唇の隙間から、悪戯な舌が潜り込んでくるのを獄寺は感じていた。
「んっ……」
  逃げようとすると、綱吉の体はさらに獄寺に密着してきた。
  割って入った舌が前歯の裏をベロリとねぶりあげ、その勢いのまま唾液ごと獄寺の舌を吸い上げる。ジュッ、と音がして、綱吉が唾液を啜る音が獄寺の耳の中に響いた。
「ん…やっ……」
  逃げようとしたが、背後の執務机が邪魔になって思うように逃げることができない。
  背筋がゾクゾクとして、獄寺の中の熱が下腹部へと集まりだす。
  机に尻を預けるような格好で体を支えた獄寺は、躊躇いながらも綱吉にしがみついた。綱吉のスーツの袖をぎゅっと握りしめ、鼻にかかった声を何度も洩らす。
  不意に、綱吉の体が獄寺から離れていった。
「ぁ……」
  ブルッと体を震わせて、獄寺は唇を押さえた。
  綱吉は困ったような顔をして獄寺を見つめている。
「十代目……?」
  怪訝そうに獄寺が尋ねると、綱吉は「ごめん」と呟いた。その弱々しい呟きが、獄寺の中の不信感をいっそう煽り立てた。
  自分はやはり、捨てられるのだ。右腕として失格なのだと思わずにはいられない。
「ごめん、獄寺君」
  そう言うと綱吉は、獄寺を置いたまま執務室を出ていった。
  静かにドアが閉まり、綱吉の足音が遠ざかっていく。逃げるような綱吉の足音に、獄寺は唇を噛み締めた。
  ゆっくりと息を吐き出すと、力が抜けてしまったのか、体が傾いだ。そのままズルズルと床の上に座り込んでしまう。
  鼻の奥がつんとしている。
  押さえた唇が熱い。触れられた手も、肩も、体中どこもかしこも熱かった。
「じゅ…代、目……」
  声は、掠れていた。
  悲しいと思うと同時に、体は熱く、高ぶっていた。
  胸の奥底では黒い獣が笑っていた。
  お前の心はこんなにも浅ましい。だから綱吉は、お前を捨てることにしたのだ、と。右腕としては役に立たず、こんなふうに愛欲に溺れてしまった守護者など、ボンゴレには必要ないのだと、黒い獣が胸の奥で嘲笑っていた。
  そんなことはないと、否定することができなかった。
  しばらくそうやってじっとしていた獄寺だったが、のろのろと立ち上がると執務室を後にした。足取りは重く、体にこもった熱が辛かった。
  なんとか自室に辿り着くと獄寺は、着替えもせずにベッドにゴロリとうつ伏せになった。
  何も考えずに眠ってしまいたかった。



  夢の中の綱吉は、獄寺を抱いてくれる。
  躊躇うことなく真っ直ぐに手が伸びてきて、獄寺の頬を優しく包み込む。
  頬が熱い。抱き寄せられた肩も、触れ合った唇も、体も、どこもかしこも熱くてたまらない。
「──…き……好きです、十代目……」
  そう言って獄寺は、綱吉の背中に手を回す。
  全身に、あますとこなく綱吉の唇が触れた。
  心地よい快楽の中で獄寺は、流される。ただしがみついて、声をあげていればそれだけでいい。夢の中の綱吉は、獄寺が望むことならなんでもしてくれた。
  このまま、夢の中の住人になってしまいたいと獄寺が思うほど、綱吉は優しかった。
  だが、なにかが足りない。
  優しい言葉も、激しい愛撫も、何もかも与えてくれるというのに、獄寺は胸の中にぽかりとあいた空洞のようなものを感じている。
  この人は……夢の中のこの人は、自分が求めている綱吉ではないと、獄寺は思った。
  望めば甘いキスをしてくれる目の前の人は、やはりどう考えても夢の中の人でしかない。
  自分が追い求めているのは、優しいだけの人ではない。迷い、悩みながらも前進する、人間くさいながらももっと心の強い人だ。時には、獄寺の意に添わない言葉を口にすることもある。しかしそれが彼なのだ。獄寺のことを想う気持ちが、その言葉には滲み出ていなかっただろうか。
  夢の中でなら体を重ねることすらしてくれる綱吉だが、実際には獄寺の気持ちに気付いているのかどうかも怪しいところだ。
  このまま、自分の気持ちを押し隠すことはできるだろうか。
  執務室でキスされた時に、獄寺の体が反応していたことに綱吉は気付いただろうか?
  夢の中で獄寺は、自分に対して何度も問いかけた。
  彼は、自分のことをどう思っているだろう。守護者として、また右腕として、今も必要としてくれているだろうか──と。
  そんなことを考えながらも獄寺は、夢の中で綱吉に抱かれ続けた。
  胸の奥底に潜んだ黒い獣が、裸で抱き合う二人の周囲を駈け巡っている。耳障りな笑い声は、相変わらず獄寺を嘲笑っている。
  このままでは頭がおかしくなってしまうと思った瞬間、生々しく突き上げる痛みと体に走る衝撃に獄寺は声をあげていた。



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(2009.10.18)


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