ベッドの中から部屋を見回すと、見慣れた自分の部屋だった。
  そうだ、退院してボンゴレの屋敷に戻ってきたのだと、獄寺は熱で朦朧とした頭でそんなことをぼんやりと考えた。
  退院した翌日には、精神的なものからか、獄寺は熱を出した。
  どおりで体が熱いはずだった。一晩中、獄寺は綱吉に抱かれ、そのまわりを黒い獣が駈け巡る夢を見ていた。体が怠いのは熱のせいだ。
  それにしても、あの、夢。
  とんでもない夢を見てしまった。
  自分はこんなにも淫乱なのだ、綱吉に心配してもらう資格などないのだと、獄寺はベッドの中で唇を噛み締める。
  体を起こそうとすると、力が入らずベッドの上でへたり込んでしまった。
  頭がクラクラとして目が回る。いや、部屋が回っているのか。それともそのどちらともなのか、獄寺には判断がつかない。
  のんびり怪我を治すことに専念してほしいと告げた綱吉の言葉が、今更ながらに獄寺の耳に蘇ってくる。獄寺がまだまだ本調子にはほど遠いことを綱吉は理解していた。このまま任務に戻ったとしても、役に立つどころか山本や他の警備員の足を引っ張ることになる。それを見越しての言葉だったのだろう。
  不甲斐ない。あまりにも情けなくて、悔しくて、獄寺は宙を睨み付けた。
  熱と、苛立ちと焦りの入り交じった感覚の中で、一日を過ごした。
  部屋を出入りするのは相変わらずビアンキ一人だった。綱吉は来てはくれない。
  自分はやはり要らない人間なのだと、失意の中で獄寺は思った。



  ベッドの中でうつらうつらしていると、どこからか煙のにおいが漂ってきた。
  獄寺はうっすらと目を開けた。
  白い……濃く深い霧のように白い煙が、部屋を取り巻いている。
  ぎょっとして獄寺は、ベッドの上に起きあがった。
  夢ではなかった。まさしく白煙が、部屋の四方を覆っている。火事だ。そう思ったものの、体が言うことをきいてくれない。のろのろとベッドからおりようとするが、熱のせいか、はたまた煙のせいか、思うように体が動かない。
  こんなになるまで自分はこれっぽっちも気付かなかったのかと、獄寺は自分自身を罵った。
  何故、気付かなかったのだろう。いくら体が本調子でないとは言え、もっと早い時点で部屋の異変に気付いてもよかったはずだ。
  パジャマの袖で口元を覆い、上体を屈めて獄寺はドアへと向かった。
  なかなか足が進まないのは熱のせいだろうか。歩いても歩いても、ドアに辿り着くことができない。
  よろける体を支えようと口に当てた手を離した途端、煙が喉に入り込んできた。咳き込んでいるうちに足下がよろけ、床の上にペタンと座り込んでしまう。
  ヒリヒリとする喉が落ち着くのを待って、獄寺は四つん這いになってドアのほうへと這い進んだ。体を低くしていても煙は獄寺を取り巻くようにして迫ってくる。チロチロと壁を舐める赤い炎が、白煙の向こうでユラユラと踊っている。
  ドアまでは、まだ少し距離がある。
  咳き込みながらも獄寺は、前進する。ノロノロとした進み方ではあったが、少しでもドアに近付かなければ。その一心で、手足を動かした。
  ふと、恐いもの見たさ半分、好奇心半分で後ろを振り返ってしまった。煙だらけの部屋がどんな様子をしているのかと思ってのことだった。
  窓際のカーテンが、壁が、炎で真っ赤に染まっていた。その炎の中では、黒い獣が狂ったように飛び跳ねていた。獄寺を嘲笑する獣は、勝ち鬨の声を高らかに上げている。
  床に尻をつけたまま、獄寺は後ろ手に体を支えた。
  腰が抜けたようになって、身動きすることすら忘れてしまったかのようだ。
  だらしなく口を半開きにしてじっと炎と戯れる黒い獣の姿に見入っていると、ドアが乱暴に開け放たれた。
「獄寺君?」
  咳き込みながらドアのほうへと顔を向けると、綱吉が部屋に飛び込んでくるところだった。



  ドアの向こうから吹き込んできた新鮮な空気に、獄寺は激しく咳き込んだ。
「なにやってんの、獄寺君!」
  普段は温厚な綱吉が、獄寺を怒鳴りつけている。
  ぼんやりとした頭で獄寺は、綱吉を見上げた。煙の向こうの人は、恐ろしいぐらいに真剣な眼差しで獄寺を睨み付けている。
「十代、目……?」
  何故、綱吉がここにいるのだろうと獄寺は思った。
  来てくれないのではないかと思っていた人が、目の前にいる。獄寺は口元に淡い笑みを浮かべた。
「ほら、しっかりして」
  ぐい、と腕を取られ、一度は立ち上がりかけたものの獄寺は、炎の勢いに気押されてしまったのか、ヘナヘナと座り込んでしまう。
  腰を抱えられ、綱吉の腕に縋り付くようにしてどうにか立ち上がると、そのまま横抱きに抱き上げられた。
「まったく、部屋の中がこんなになってるってのに、なにやってたんだか」
  ブツブツと文句を言いながらも綱吉は、獄寺を気遣うように歩いていく。入れ替わりにやってきた警備員たちが、遅まきながら消火活動を始めた。
「十代目、あの……」
  口を開きかけた獄寺を、綱吉はギロリと睨み付ける。
「黙って」
  冷たくそう言うと、綱吉は大股に廊下を歩いていく。
  医務室に連れて行かれるだろうことはなんとなく気付いていた。喉はまだヒリヒリしているし、それに頭は熱のせいでフラフラしている。きっと、綱吉は呆れていることだろう。獄寺がこんなにも役に立たない守護者だったとは、綱吉自身、思いもしなかったのではないだろうか。
  おずおずと手を伸ばした獄寺は、綱吉のスーツの襟元をぎっと握りしめた。布地が皺になるほど力いっぱい握りしめ、唇を噛み締める。
「ご迷惑をおかけして……」
  言いかけた獄寺に、綱吉は溜息をついた。
「黙って、獄寺君。それ以上なにか言ったら怒るよ」
  鋭く告げられて、獄寺は口を閉ざした。
  綱吉の顔を見たかった。表情を確かめたいと思ったが、恐くて実際にはちらとも見ることができなかった。



  医務室で軽く手当を受けた獄寺は、そのまま綱吉の部屋へと連れていかれた。
  何故、自分が綱吉の部屋に連れて行かれたのかはわからない。
  自分の部屋が燃えてしまったのなら、どこか空いている部屋を与えられるはずだと思いながらも、綱吉の部屋に連れて来られたことを喜んでいる自分がいた。
  部屋が火事で燃えたというのに、自分はなんと現金な人間なのだろう。
  ベッドにそっと下ろされた獄寺は、しばらくの間、じっとしていた。
  これから綱吉になにを言われるのだろうかと思うと、それだけで体が強張って、動くことなどできやしない。綱吉の部屋に入れてもらえたのは嬉しいが、その一方で、これから何を言われるのだろうかと思うと恐くて恐くてたまらない。
「ほら、ベッドの中に入って。まだ熱があるんだから、寝てなきゃ駄目だろ」
  そう言って綱吉は、獄寺の銀髪に指を差し込む。
  髪を撫でつける手は優しく、何度も触れられているうちに、獄寺はうっとりと目を閉じた。少しひんやりとした感触が、気持ちよかった。綱吉の手は、獄寺が気持ちよくなるように何度もなんども触れてきているのではないだろうか。
  じっとその手の感触に身を委ねていると、こめかみに柔らかなものが押し当てられた。
「……ん、なっ?」
  ぱっと目を開けると、決まり悪そうに綱吉が半分笑ったような何とも言えない複雑な表情で獄寺を見つめている。
「十代目、今のは……」
  言いかけた獄寺の唇を、綱吉の指がやんわりと押さえた。
「言わなくていいから、さっさとベッドに入って休むこと」
  照れているのか、目元がほんのりと赤い。それとも怒っているのだろうか。   ノロノロと獄寺は、ベッドの中に潜り込んだ。
  すぐに綱吉の手がケットを引き上げ、獄寺の肩口を覆うようにかけ直す。
「ゆっくり休んで早いとこ治してもらわないと困るよ、獄寺君」
  綱吉の言葉に、獄寺は小さく頷いた。
  自分の不甲斐なさを綱吉が責めないことが、余計に悲しかった。
  自分はそんなにも頼りなく見えるのだろうか。弱くて、役に立たない人間に見えるのだろうか、綱吉には──?



  医務室で手当を受けた時に処方された薬は、解熱の薬だった。
  獄寺の熱が高いのは、疲れのせいだろうとシャマルは言っていた。本当にそうなのだろうか? 半信半疑で獄寺は薬を飲んでいる。すぐ間近で、仕事を抜け出してきた綱吉が見張っていて、獄寺が薬を飲むところを実際に見届けるまでは執務室に戻らないと言い張るから、仕方なしに飲んだのだ。しかし単なる熱なら、放っておいても一日、二日で下がるはずだ。大げさすぎるのだと、獄寺はこっそりと苦笑する。
  小さな白い錠剤を飲み下した獄寺は、サイドテーブルにコップを置いた。コトンと小さな音がして、コップの中に残った水が大きく揺れた。
「飲みましたよ、十代目」
  獄寺が言うのに、綱吉は神妙な顔をして頷いた。
「じゃあ、俺は残りの仕事を片付けてくるから」
  そう言うと綱吉は、獄寺を置いて執務室へと戻っていった。
  途端に、部屋の中が味気ない空気にかわる。
  ベッドの中で獄寺は、綱吉のにおいを感じていた。部屋の空気も、ベッドも、枕も、何もかも綱吉のにおいでいっぱいだ。
  綱吉に触れられた髪の一本一本まで、電流が走り抜けたような感じがする。こめかみと唇は、今にも火を噴きそうなほど熱い。
  獄寺は親指の爪を噛むと、じっと部屋の隅を睨み付けた。
  熱のせいだろうか、黒い獣が自分の中から飛び出して火事を起こしてしまったが、今度は勝手な真似はさせない。綱吉の部屋で黒い獣が暴れるようなことは、決してさせてはならない。
  カシ、と爪を噛むと獄寺は、窓際のカーテンの陰へとギロリと視線を向ける。
  黒い獣が、ニタニタと笑っていた。
「出てくるな」
  呟いた獄寺の声は掠れ、震えていた。
  黒い獣は笑いながら、それは無理だと獄寺に返した。お前が呼ぶから自分は外へと出てきたのだと、黒い獣は告げる。
「俺は……お前なんざ、呼んでねえ」
  弱々しく呟くと、黒い獣は蹄を床に打ち付けて、喜んだ。
  獄寺の困る姿を見るのが楽しくて仕方がないのだと、黒い獣は言った。獄寺を追いつめて、困らせて、持っている何もかもすべてを奪い取ってしまうのが楽しみなのだ、とも。
  そして最終的には、守護者の座や綱吉までもを失った獄寺を見たいと黒い獣は言う。
「冗談……だろ……」
  獄寺は、その言葉を口の中に飲み込んだ。
  黒い獣は部屋の隅で高笑いを上げている。
  ひときわ大きく嘶くと、黒い獣は蹄を打ち鳴らした。
  ひらりと火の粉が舞って、カーテンの裾に飛び散った。



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(2009.10.18)


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