ベッドの中から獄寺は、カーテンの裾に火が燃え移るのを見た。
黒い獣が蹄を打ち鳴らすと、そのたびに火の粉が舞い飛んだ。嗅ぎ慣れた火薬の臭いに、獄寺の眉間に深い皺が寄る。
するりとベッドから起き出すと、獄寺は窓際へと駆け寄った。ここは、綱吉の部屋だ。ここで火事を起こすわけにはいかないと必死の思いだったからだろうか、今度は思うように体が動いてくれた。慌てて火のついたカーテンに飛びついた。着ていたパジャマを脱ぐと火の粉を叩いて払うものの、火はなかなか消えない。
ジリジリと炎が広がり始めたカーテンを獄寺は、両手で叩いたりぐっと握ったりして火を消そうとした。皮膚と肉の焦げるにおいがしたが、構っていられない。とにかくカーテンについた火を消さなければならない。この部屋は自分が守らなければというその思いだけで、獄寺は火を一つひとつ、確実に消していく。
「てめぇの好きにはさせねえ」
食いしばった歯の間から呻くような声を洩らして、獄寺は言った。
黒い獣は挑発するかのように獄寺のすぐ側に佇み、鼻白んでいる。
焦げた化繊のにおいに顔をしかめながら、獄寺は炎を消していく。立ち上る黒い煙とカーテンの焼け焦げたにおいとで、喉も鼻も目も痛かった。もう少しですべての火が消えると思ったところで、黒い獣が激しく飛び跳ね、蹄を鳴らした。パッと舞い上がった火の粉が、焦げ跡の残るカーテンに飛び散る。
「ああっ!」
見る見るうちに、カーテンに炎が広がっていく。
「やめろ……お願いだから、やめてくれ!」
叫びながら獄寺は、パジャマをカーテンに叩きつける。カーテンを叩くと火の粉があたりに舞い散り、獄寺の白い肌にハラハラと降りかかる。
綱吉が部屋に戻ってくる前に何とかしなければ。そう思って獄寺は、自分のことなど考えもせずに必死になってパジャマを振り回し続けた。
綱吉が部屋に戻ってきた時には、獄寺は焦げ跡の残るカーテンを必死になって床に叩きつけているところだった。
「獄寺君……?」
恐る恐る綱吉が声をかけるのに、獄寺は弾かれたように顔を上げた。
「あ……」
とうとう見つかってしまった。獄寺は、決まり悪そうにカーテンから手を離した。こんなみっともない姿を綱吉に見られたくはなかった。こんなふうに取り乱して、自分はいったい今まで何をしていたのだろうか。
ドアを後ろ手に閉めると綱吉は、ゆっくりと獄寺のほうへと近付いてくる。獄寺はぎゅと目を閉じ、綱吉の視線から逃れるかのように身を竦めた。
「もう、大丈夫だよ」
そっと手を差し伸べ、綱吉は獄寺の頬に触れる。
「……汚れてる」
そう言うと綱吉は親指の腹で、獄寺の頬についた煤を拭った。綱吉の指が触れたところに、獄寺は微かな熱を感じた。
「すみません、十代目」
カラカラに渇いた喉では、思うように声が出なかった。掠れた獄寺の声に、綱吉はわかっているとでも言うかのように頷く。
「もう、大丈夫だから。心配しなくてもいいから」
もう大丈夫だからと何度も耳元に囁きかけるその声に、獄寺はふと違和感を覚えた。
違う。目の前にいる人は、自分が敬愛してやまない綱吉ではない、と。
抱き締めてくる腕も、においも、穏やかな声や表情もあの人のものと寸分かわらないが、目の前にいるのは、あの人とは違う。別人だ。
「お前……」
言いかけたところで、目の前の人の腕の力が弱まり、姿が微かに揺らいだ。
獄寺の目の前にいたはずの綱吉の姿は、ひときわ大きく揺らいだかと思うと、サラサラと砂の城が崩れるように消えていく。後に残ったのは、真っ黒で醜悪な形をした獣の姿だけだった。
綱吉ではない生き物が真っ直ぐに獄寺を見つめている。
「あ……──」
目の前にいるのは、黒い獣だった。
焼け焦げ、引き千切られたカーテンは床に投げ出され、脱ぎ捨てたパジャマの上衣もところどころ煤けている。
床の上にペタンと座り込んだ獄寺は、呆然としていた。
全身の力が抜けて、体が動かない。
現実なのか、夢なのか、それすらもわからなくなってしまったのだろうか、自分は。
のろのろと、握りしめていた手を開いた。指が震えてなかなか思うように動かなかったが、硬くなった指の一本いっぽんを剥がし、開いた。手を開くだけでとんでもなく時間がかかってしまったように思える。
目の前の手は、煤けていた。
この手の汚れは、いつからだろう。カーテンに火がついた時には自分の手は、きれいだっただろうか?
獄寺は小さく体を震わせた。
恐くて恐くて、たまらない。
自分はいったい、何をしていたのだろうか。手がこんなに汚れているということは、もしかして自分が、綱吉の部屋に火をつけようとしたのではないだろうか。
病院にいる時からずっと考えていた。いいや、自分の手の汚れに気付く以前、施設での火事の折に、火薬のにおいが鼻先に漂ってきた時からずっと考えていた。
もしかしたらこの火事は、自分が無意識のうちに起こしているのではないだろうかと、獄寺はずっと悩んでいた。
自分が、この火事の原因となっているのではないだろうか。
噛み締めた唇の間から、呻き声のような嗚咽が洩れた。
開いた両手をじっと見つめながら獄寺は、体を震わせている。
自分は、綱吉の信頼を裏切ってしまったのだ。守護者であり、右腕でもある自分が、綱吉を裏切っていた。無意識のうちとは言え、ボスを裏切るような真似をしてしまったのだ。自分はもう、ここにはいられない。
開いたままの煤けた手で、顔を覆った。
涙に濡れた顔を何度も拭った。
いちど手についた汚れは、落ちないだろう。何をしても、どんなことをしても、自分がやらかしたことは決して許されることではない。この汚れのように、いくら拭っても黒い染みが滲み出てきて、獄寺の経歴を汚すだろう。それだけではない。いつかどこかで、綱吉の評判を貶めることに繋がるかもしれない。
何よりも、綱吉に合わせる顔がない。
煤と涙で汚れきった顔のまま、獄寺はのそりと立ち上がった。
綱吉の部屋にいることが居たたまれない。
しかし獄寺が自室に戻ることはできなかった。
火事で、獄寺の部屋は燃えてしまった。残っている私物を取りに行きたかったが、熱でクラクラとする体では無理なことがわかりきっていた。
綱吉の部屋についているバスルームで少しぬるめのお湯を頭からかぶり、煤けた汚れを落とした。体のあちこちに火傷の痕が残っていた。赤く腫れている部分は獄寺が思っていた以上に多かった。 バスルームから出ると、真っ先に獄寺は煤と焦げ跡の残るパジャマの上衣をごみ箱に投げ込んだ。かわりに綱吉のパジャマを探し出して拝借することにした。腰にバスタオル一枚を巻いただけの姿でクロゼットのそこここを探し回っているうちに、綱吉が部屋に戻ってきた。ドアの開く微かな音に、獄寺は体の動きを止めた。
「獄寺君……?」
何やってるのと、穏やかな声が尋ねかけてくる。
ビクン、と肩を震わせた獄寺は、のろのろと綱吉のほうへと向き直った。
「あ、の……」
どのように話せばいいだろうかと、獄寺は思う。
正直に告げなければならないということはわかっていたが、言葉が出てこない。
「パジャマの替えはこっちだよ」
そう言うと綱吉は、引き出しの中からさっとパジャマを取り出した。
「どうぞ」
獄寺のことを詮索するでもなく、綱吉はパジャマを差し出す。
「あ……」
口を開けたものの、獄寺の舌は顎にへばりついてしまったかのように固まり、動いてくれない。開けて、閉じてを何度か繰り返してから獄寺は、最後に諦めたように口を閉じた。綱吉の手からパジャマを受け取る。指先が触れ合い、その瞬間、獄寺はドキッとした。
「熱は下がった?」
すばやく綱吉の手が伸びてきて、獄寺の額に触れた。ひんやりとした手の感触に、獄寺は目を伏せる。
何を言われるのだろうかと、内心、獄寺はビクビクしていた。恐くて恐くてたまらない。 どうしたらいいのだろう。
この人のために、自分は、何をすればいいのだろうか。
パジャマを手にしたままじっと立ちつくしていると、綱吉はいちど手渡したパジャマを取り上げて、獄寺の背中をそっと押した。
「着せてあげるから、ここに座って」
と、ベッドの隅に連れて行かれた。
綱吉に言われるがまま、獄寺はベッドに腰をおろす。窓際の惨状が視界に飛び込んできて、獄寺は顔を逸らした。
パジャマの上衣を肩に羽織らせておいてから、綱吉は獄寺の腕をそっと取った。
「チビたちの世話をしていたおかげで、こういうのだけはウマくできるようになったけど……」
小さく苦笑しながらも綱吉は、手慣れた様子で獄寺にパジャマを着せていく。右腕、左腕と腕を取られ、獄寺は袖を通した。ボタンもかけてもらった。上から一つひとつ、綱吉はボタンをかけていく。
伏し目がちな綱吉の顔がすぐ目の前にあった。不意に恥ずかしさがこみ上げてきて、獄寺は目のやり場に困ってしまった。
視線を逸らそうと思うものの、どうしても綱吉の顔を見るのをやめることができない。穏やかな笑みを浮かべた口元が言葉を形作るのをもっと見ていたい。もっと、声を聞いていたい。
「そんなに見つめられたら照れるんだけど」
ふと顔を上げて、綱吉が言った。そう言われて、改めて獄寺は自分が綱吉をじっと見つめていたことに気付いた。
「あ…す、すみません」
慌てて謝罪の言葉を口にすると、謝らなくてもいいと素気なく返された。
うつむき、獄寺は握り締めた自分の拳をじっと見つめる。
「ねえ。まだ、話せない?」
うつむいた獄寺の顔を覗きこむようにして、綱吉が尋ねかけた。薄茶色の瞳は真摯に、獄寺を見据えている。
獄寺は躊躇した。
ここで何もかも一切合切を話してしまえば、自分としては楽になることができるだろう。しかし本当にそうすることが正しいことなのかどうかは、獄寺にはわからない。
どうしたらいいだろう。
話してしまえばいいのだろうか。今ここで、綱吉に……?
いつまでも躊躇っていると、焦れたように綱吉が、獄寺の手を掴んできた。
「じゃあ、言い方をかえようか?」
薄茶の瞳が悪戯っぽく獄寺を見つめている。
「は?」
獄寺は首を傾げた。
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