「待ってください、十代目」
ぐい、と綱吉の体を押し返すと、無理強いをする気はないのか、すぐに抱きしめる腕が離れていく。
「ああ、もう。せっかくいいところだったのに」
残念そうに綱吉は溜息を吐き出した。
そう言われて獄寺は、素直にすみませんと謝った。
「謝らなくてもいいって」
少しばかり顔をしかめると綱吉は、獄寺の額に唇を押し当てた。一瞬触れただけの唇の感触が心地よくて、獄寺はそのまま綱吉にもたれかかりそうになってしまった。このまま体を預けてしまうことができたら、どんなに楽だろう。何も考えずに自分の気持ちだけを押しつけてしまうことができたなら……。
「それより、その格好どうにかしたほうがいいよ、獄寺君」
そう言うと綱吉は、獄寺の腰に巻かれたバスタオルの合わせ目をちらりと持ち上げてみせる。
「こんな刺激的な格好されたら、困る」
悪戯っぽく笑う綱吉に、獄寺は赤面した。
「あ……あああ、あの、その、これは……」
慌ててバスタオルの合わせ目をぐっと引っ張った獄寺は、ちらりと見えた太股を綱吉の目から隠した。
「隠さなくてもいいよ、獄寺君」
もっと見ていたいと綱吉が言うのに、獄寺は口の中の唾をゴクリと飲み込んだ。
パジャマのボタンはいつの間にかすっかり外されていた。今さら太股を隠したところで何の足しになるというのだろう。
「十代目……」
掠れた声で囁いた獄寺の唇に、綱吉はちょん、とキスを落とした。
「とりあえず。君はちゃんとパジャマを着て、ベッドに入っていること」
何か考えがあってのことだろうか。
綱吉は、焦げ痕の残る部屋を出ようとはしなかった。床の上に放置された窓際のカーテンを手に取ると、大雑把にではあるが畳んで置き直した。それから内線電話で何人かの守護者や部下に指示を出し──その間、獄寺はベッドの中から綱吉のしていることをじっと眺めていた──、最後に部屋の反対側から椅子を持ってきたかと思うと、ベッドの脇に置いてドシンと腰をおろした。
「寝てていいよ、獄寺君は」
どことなく楽しそうに綱吉が告げた。
「しかし……」
言いかけた獄寺の唇に、綱吉はやんわりと口付ける。
「獄寺君の言う黒い獣とやらが出てくるのを、見ててあげる」
そのために先ほど電話でクローム宛に伝言を頼んだのだと綱吉は言う。いつになるかわからないが、しかるべき時期になったらクロームがやってくるらしい。
「そんなんでうまくいくかどうかわからないけど、やらないよりいいだろ?」
クロームを呼んだり綱吉が見張りをするようになったからといって、都合よく黒い獣が出てくるわけがないと、獄寺は思った。そもそもあの黒い獣は、どうやって現れるのだろうか。
胸の奥のドロドロとした感情は、そんなに簡単に獄寺の中から出てきて実体化するようなものではない。きっと、綱吉がこれからしようとしてくれていることは骨折り損に終わってしまうだろう。 「出てこなかったらどうするんですか?」
恐る恐る獄寺が尋ねると、綱吉はうーん、と呻いた。
「その時は、クロームも交えて三人で相談でもするかな」
気を持たせた割にさらりと返され、獄寺は押し黙った。
綱吉が思っているようにそんなに簡単にことが進むわけがない。黒い獣はいつも、獄寺の気持ちが弱くなったところを見計らって飛び出してくるのだから。
「そんなにうまくいくものなんでしょうか、十代目」
いつもなら綱吉の言葉に諸手を挙げて賛同する獄寺だったが、今回ばかりはそんな気にはなれなかった。黒い獣は獄寺の気持ちに左右される。あの続けざまに起きた施設での火事の時に気付いたのだが、黒い獣は獄寺が後ろ向きで否定的な気分の時に胸の奥底から這い上がってきては、表へ飛び出すのだ。
今の獄寺の状態からすると、黒い獣が現れるような隙はどこにもないように思われた。
「さあ、どうだろ」
とりあえずやってみないことにはわからないと言われ、獄寺は綱吉に従うしか他はなかった。
焦げ痕の残る部屋で獄寺と綱吉が一時的な同居生活を始めて七日目に、黒い獣は現れた。 明け方、まだ早い時間に目が覚めた獄寺が寝不足の頭を巡らせて部屋の中を見ると、窓際にいた黒い獣と目が合った。
獄寺が獣の気配を感じたと思ったら、そいつはいつの間に移動したのか、もう目の前にいた。物音ひとつ聞こえなかった。
最初の数日間は獄寺に遠慮してか、綱吉は椅子に腰かけたまま眠っていた。それを獄寺が、綱吉がベッドで眠らないのなら自分も床で寝ると言いだしたことで、気付いたら二人でベッドを共有するようになっていた。
嫌ではないが、好きな人と同じひとつのベッドで眠ることが獄寺にはひどく恥ずかしく感じられた。緊張もするし、無意識のうちに体が反応しそうになって、一晩のうちに何度も困ることになった。しかしこの日はたまたま綱吉は、椅子に腰かけたままケットもかぶらずに眠っていたのだ。
黒い獣は綱吉に鼻先を寄せていった。しばらくにおいを嗅いでから、フン、フンとしきりと鼻を鳴らしている。
「あ……」
咄嗟のことで、獄寺の頭の中が一瞬、真っ白になった。
どうしたらいいのだろうか。力無く手を動かすと、ベッドの端に置かれていた綱吉の手に指先が触れた。
「十代目……」
喉の奥から必死に声を絞り出した。
よく眠っているのだろう、綱吉は目を覚ましてくれない。掠れた小さな声で呼んだぐらいでは綱吉は起きてはくれそうにない。日中はこの部屋で通常の執務を行い、夜は毎晩、起きていられる限りは黒い獣の見張りをしているのだ。疲れないはずがない。
「十代目」
もういちど獄寺が呟いたものの、綱吉はピクリとも動かない。
そんなことをしても無駄だと黒い獣は笑った。耳障りな、金属を引っ掻くような甲高い笑い声に、獄寺は耳を塞いだ。
獣が嘶きをあげると、赤黒い獣の目に、明るい炎の色が灯った。
じっと獄寺を凝視したまま、黒い獣はゆっくりと獄寺のほうへと近付いてくる。
「……来るな」
そう言った獄寺の声は、微かに震えている。
何故、自分はこの黒い獣が恐いのだろう。頭の隅でそんなことを思いながら獄寺は、綱吉の手を掴んだ。
「起きてください、十代目」
この人を守らなければと、獄寺は思う。
黒い獣は威嚇するかのように前脚を振り上げ、蹄を打ち鳴らした。
ゾクリと、獄寺の背筋を冷たいものが伝い落ちていく。
黒い獣の蹄から飛び散った炎の粉が、ベッドに降り注いだ。
獄寺の肌を焦がした火の粉が、すぐ側の椅子にもたれて眠り続ける綱吉にも降りかかった。
シーツの裾にとりついた炎の粉は、布地に焦げ跡を残して広がった。じわりじわりと広がって、黒い染みとなり、穴を開けていく。
「やめろ!」
綱吉にかかる炎を振り払おうとして、獄寺はベッドから身を乗り出した。獄寺のパジャマに飛び散った炎が、布地を焦がし、肌を焦がす。熱さと痛みに顔を歪めながら、獄寺は黒い獣と綱吉との間に立ち塞がった。そこかしこで上がりだした煙に、目がしみる。
「十代目に手出しはさせねえ」
獄寺が低く呻くと、黒い獣は嬉しそうに鼻を鳴らした。
飛び跳ね、蹄を床に打ち付けるとは、炎の雨をそこここに降り注がせる。
獄寺が前へと飛び出した途端、しかし黒い獣はわずかにあとずさった。獄寺が一歩前へ出ると黒い獣は後退する。一歩前へ出ると、あとずさる。睨み合ったままじりじりとそんなことを繰り返しているうちに、目が覚めたのか、綱吉が身じろいだ。獄寺の目の端ではまだ眠たげな様子の綱吉が、もぞもぞと体を動かしている。
黒い獣は、獄寺とは一定の距離を保ったままだ。
膠着状態に焦れた獄寺が黒い獣に飛びかかろうとした瞬間、不意に背後から綱吉に腕を掴まれた。
「待って」
ひんやりと冷たい手だ。綱吉の手のあたたかさはどこにも感じられず、獄寺は怪訝そうに背後を振り返った。
「ここにいて」
椅子から腰を浮かした綱吉──いや、クロームは、無表情にそう告げた。
「お前……」
獄寺は小さくひとりごちる。クロームはいつの間にか三叉矛を手にしていた。椅子にもたれて眠っているとばかり思っていたのは綱吉ではなく、クロームだったのだ。
しかるべき時期というのは、このことだったのかと獄寺は頭の隅でぼんやりと考えた。
三叉矛を振りかざしたクロームは、素早く獄寺の前へと躍り出た。軽やかなステップで黒い獣を払いのけ、あっという間に部屋の隅へと追いつめた。
「嵐の人には近付かせない」
淀みのない声で、クロームは告げた。
これは、夢なのだろうか。
目の前では黒い獣とクロームが戦っている。
飛び散る炎を、クロームは次々と凍らせることでうまくやり過ごしている。黒い獣の後ろ脚を凍らせると、獣は狂ったように蹄を打ち鳴らした。甲高い声で何度も嘶き、前脚を大きく振り上げてもがいている。
クロームの幻術によって凍らされた炎の粉は小さなキラキラと光る氷の結晶となり、パラパラと音を立てて床に零れ落ちた。
「あの子……」
ポソリとクロームが呟いたが、獄寺の耳には届かなかった。彼女は何を言おうとしていたのだろう。
黒い獣がひときわ大きな嘶きをあげた。
炎が飛び散り、辺り一面に降り注ぎながら氷の粒と変化していく。手の中にすっぽりと収まるぐらいの小さなつぶてとなって、二人に向かって落ちてくる。
不意に、バタンと音がしてドアが開いた。
「獄寺君! クローム!」
綱吉が単身、部屋へと転がり込んでくる。
「十代目……!」
腕で顔を覆いながらも獄寺は、入り口のほうへと視線を巡らせた。
黒い獣も同じように、綱吉のほうへと視線を向ける。
綱吉はスーツを着込んだままの姿だった。おそらくどこかの時点でクロームと入れ替わり、そのまま別室で待機していたのだろう。しかし、いったいいつから二人は入れ替わっていたのだろうか。 「ボス、下がってて」
クロームの言葉に、綱吉は身を翻して獄寺の側へと駆け寄った。ちらりと見えた綱吉の横顔は、どことなく怒っているように感じられる。
三叉矛を頭上高くにクロームが振りかざす。
同時に、黒い獣が振り上げた前脚から炎がパッとあたりに広がった。
嫉妬の炎だと、獄寺は不意に思った。あの炎は、獄寺の心の中に巣くう嫉妬ではないだろうか、と。仄暗い橙色の炎は、獄寺を不安にさせる。後ろめたいのだ。任務に失敗した不甲斐ない自分が、綱吉にどう思われているのかが気になって仕方がない。
好きで好きでたまらないのに、胸の内を伝える術を知らない自分を歯痒く思うと同時に、綱吉に近付くすべての人たちを憎んでもいた。自分の知らないことを話し、笑みを振りまく綱吉を見ると胸が締め付けられるような感じがした。
この人は自分のものだと、そう言いたかった。
誰かに胸の内を吐き出すこともできただろうが、獄寺はそうはしなかった。そのかわり、獄寺の胸の奥底に潜んだ嫉妬や不満や欺瞞や羨望を糧にして、黒い獣を生み出してしまったのだ。
ふらりと、獄寺は黒い獣のほうへと踏み出す。
「獄寺君!」
引き止めようとする綱吉の手を振り払い、獄寺は黒い獣のほうへと近付いていく。
先ほどは獄寺と黒い獣の間に一定の距離があったが、今度はそうはいかない。クロームによって後ろ脚を氷漬けにされた黒い獣は、嘶き、獄寺から逃れようと暴れだした。
「わかったぞ……」
呟き、獄寺はゆっくりと黒い獣に手を差し伸べる。
口から泡を吹きながら、黒い獣は不愉快そうに鼻を鳴らした。
気を惹きたかったのだ、この黒い獣は。綱吉の気持ちを独占したいと思う獄寺の思いがおそらく、この黒い獣を現実の世界に存在させることになったのだろう。
恐る恐る手を伸ばし、獄寺は黒い獣に触れた。
甲高い悲鳴のような嘶きをあげ、黒い獣の姿は弾け散った。獄寺の中に戻ったのか、それとも霧散してどこかへ消えてしまったのかはわからない。とにかく一瞬のことだったので、誰も皆、何がどうなったのかわからなかった。
「消えた?」
怪訝そうに綱吉が言う。
戦う相手がいなくなったクロームは、三叉矛を収めると、綱吉のほうへと向き直った。
「じゃあ、ボス。私はこれで」
もう行くねと告げると、クロームはそそくさと部屋を出ていった。
残された獄寺は、呆然としていた。黒い獣が霧散する直前に、獄寺の胸の中に飛び込んできたような感覚がした。あれは、単なる気のせいだろうか。
綱吉が、その場に立ち尽くす獄寺の肩に手を置いた。
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