『恋をした日 1』



  十九年間生きてきて、男に目を奪われたことなど一度としてなかった。
  これが女性に目を奪われたのであったなら、別に、悩むこともなかったはずだ。
  誰もいない真夜中の甲板で、サンジはぼんやりと海を眺める。
  月明かりの中、水面に薄ぼんやりと浮かび上がった水飛沫が跳ね、後方へと去っていく。
  シャツの胸ポケットから取り出した煙草に火をつけ、深く吸い込む。ニコチンで頭が少しは冴えてくれないものだろうかと思いながら、また、水面へと視線を馳せた。
  自分は、恋をしている。
  相手は女性ではなく、男だ。
  ──男。
  それが問題なのだと、苦々しく笑うと溜息を吐き出した。
  よりにもよって、男……しかも、何故、仲間なのだろうかと、そう思わずにはいられない。
  女性に心奪われることなら、幾度となくあった。今だってそうだ。バラティエを後にして、メリー号に乗り込んでからずっと、ただ一人の女性クルーであるナミに心を奪われっぱなしだ。おそらくこの先、仲間が増えて女性が乗り込んできたとしても、また乗る船がメリー号から別の船にかわったとしても、ナミへの気持ちが揺らぐことはないだろう。
  女性に目を奪われることは日常的にあったし、柔らかな肌や甘くて華やかなにおいにも、常に心は奪われている。それなのに、何故、よりにもよって、男なのだろうと、サンジは肩を落とす。
  心の底で気にかけているのは、男で、仲間で……。
  ありえねえ、と、サンジは口の中で呟いた。
  雲に隠れた月が、こっそりとサンジを嘲笑っているかのようで、いい気がしない。
  顔を上げて、ちょうど雲から出てきたばかりの月を見た。
  目が痛くなるほどの白さにしかめっ面をしたサンジは、盛大に煙草の煙を吐き出した。



  夢は見ないほうだと思っていた。
  養父ゼフと二人で過ごした孤島での日々をごく稀に夢に見ることはあったが、それ以外の夢を見た記憶はほとんどない。
  それだけ、日々の生活に満足しているのだろうと思っていた。
  そんなふうに思っていたのに、夢を見はじめた。
  いったい、いつ頃から夢を見るようになったのだろう。
  夢の中のサンジは、ある一点だけを熱心に見つめている。
  視線の先に何があるのかは、わからない。
  何かを見ようとして、必死になって虚空を見つめている。
  あれは、何だ? この視線の先には、いったい何が見えているのだ?
  悩んでも、悩んでも、答えを得ることはできない。
  いったい自分は、何をそんなに熱心に見つめているのだろう。
  一歩前へ踏み出したなら、もっとよく見えるかもしれない。この先にあるものが何なのか、正体を知ることができるかもしれない。
  そう思って前へと足を踏み出した途端、サンジは真っ暗な穴の中に落ちていく。
  暗い、暗い、暗い──
  目を見開いて、虚空を見遣る。暗闇の向こうに見えるのは、抜けるように青い空だ。そして、キラリと煌めく、鋭い何か。
  あんなに高いところで、何が光っているのだろう。
  サンジは先ほどの熱心さでもって、光る何かをじっと見つめた。
  そのうちにまぶしくて、目を開けていることができなくなってくる。サンジは慌てて目を閉じた。
  次にはっと目を開けると、自分がキッチンのテーブルに突っ伏して眠っていたことにサンジは、気がついた。



  何故、こんなにもあの男のことが気になるのだろう。
  あの男。
  自分と同い歳で、同じような背丈で、緑色の毬藻頭の、あの、男──
  テーブルに肘をついて苛々と煙草の先を噛んでいると、甲板から金属と金属のぶつかりあう音が響いてきた。
「ああ? なんだぁ?」
  目をすがめ、それからサンジは、ふう、と息を吐き出す。
  おやつの時間にはまだ少し早いし、見に行ってみるかとサンジは、のそりと椅子から立ち上がる。
  ゆっくりとした足取りで甲板に出た途端、金属的な音の正体がわかった。
  ゾロだった。
  三本の刀を両手と口にくわえ持ち、ギラギラとした眼差しで海の一点を睨み付けている。
  その姿に、サンジは一瞬、目を奪われた。
  上体は裸で、いつからこうして鍛錬をしているのかわからないが、ゾロは全身汗まみれになっている。まだ治りきっていない胸の傷には包帯が巻かれているものの、うっすらと血が滲んでいるようだ。
  何をしているのだろうかとじっと眺めていると、ギロリと剣呑な眼差しで睨み付けられた。
「邪魔だ」
  鋭利なものの言い方に、サンジは最初、呆気にとられた。
  普段の自分なら黙って引き下がるような真似はしないはずだが、今回ばかりはそうは言ってもいられなかったようだ。
  男の鋭い言葉の前に、サンジはあっさりと引き下がった。
  後ずさりこそしなかったものの、ばつの悪そうな顔でサンジは男部屋へと向かった。
  ゾロの姿を見るためにのこのこ甲板へ出てきたなど、口が裂けても言えないことのように思われた。



  男部屋の静けさの中で、サンジははあぁ、と溜息を吐いた。
  自分は、間違いなく恋をしている。
  あの、緑頭の寝ぐされ筋肉に。
  どうしたものかと考えて、煙草の煙をふわん、と吐き出す。
  今ならまだ、間に合う。
  この恋を、なかったものにしてしまうことができるはずだ。
  もうひとつ、ふわん、と煙を吐き出して、サンジは目を閉じた。
  さっき、ゾロの上体を目にした時に、心臓が高鳴ったのはたぶん、気のせいではない。
  自分が、男相手に欲情することができるのだと知って、実のところサンジは驚いていた。
「……どうしたもんかね」
  小さく呟くと同時に、溜息を吐き出す。
  どこか投げやりな眼差しであたりを見回すと、床の上にくしゃくしゃになったゾロのシャツが落ちていた。脱ぎ捨てたそのままの形で、床の上でとぐろを巻いている。
  やれやれと呟いて、サンジはシャツを拾い上げた。
  パン、パン、と払ってと埃を叩き落としてから、シャツを自分の鼻先に持っていった。
  シャツにしみこんだ、ゾロの汗と体臭が、サンジの鼻をくすぐる。
  ああ、やっぱり自分はあの男に恋しているのだと思うと、サンジは鼻の奥がつん、と痛くなるのを感じた。
  自分は、こんなにも、あの男に焦がれている。
「どうしたもんかね」
  もういちど呟いた。
  それからサンジはあたりをざっと見回して洗濯物を寄せ集めると、一つところにまとめて置いた。
  甲板からはまだ、金属同士がぶつかる音が聞こえてきている。
  あの男はいったい、何を苛ついているのだろう。いつもなら筋肉トレーニングをしているはずなのに、今日に限って刀を引っ張り出してきている。
  短くなった煙草を携帯用のアッシュトレーの底に押しつけたサンジは、新しい煙草を口にくわえた。
  立ち上る煙が溜息のように見えて、サンジは眉間に小さな皺を寄せた。




  男に、恋をしている。
  間違いなく自分は、恋をしている。
  甲板で刀を構える男を見て、サンジは溜息を吐く。
  あの筋肉がなだらかに隆起するのを見るのは、心地よい胸の痛みを伴うものだと知った。
  日焼けした健康的な肌に触れてみたいと、サンジは思う。
  あの肌に触れたい。頬にも、唇にも、それから……。
  それから、自分はどうするだろう。
  こんなにも焦がれている相手に触れるのだから、ただ触るだけではすまないだろう。
  指に触れたなら、肩や頬や唇にも触れたくなるはずだ。そして唇に触れたなら、キスがしたくなる。キスをしたら、相手の舌と唾液を味わいたくなる。それから、声も。空気を求めて喘ぐ息づかいも、どんな声で啼くのかも、知りたい。
  抱きしめて、奪い、犯し、征服したいと思う。
  自分と同い歳で、同じような背丈だから、恋をしたのか。それとも、一見、相反する同士のようでいて、その実、二人はとても似ているから。だから、恋をしたのか。
  何にしても、自分はあの男に恋をしている。
  それだけは、間違いない。
  どうしたものかと口の中で呟いて、サンジは空を仰ぎ見た。
  痛いほどの真っ青な空が広がっている。
  他には何も、見えない。
「空だ──」
  呟いて、溜息を吐いた。
  夢の中で見た、暗闇の向こうの青空が、こんなに近くに広がっている。
  自分はいったい、いつからあの男のことが気になるのだろうかと、サンジは空を見上げて考えた。
  あの男に恋をした日は、いったい、いつだ──?
  真っ青な空を見つめていると、金属音が至近距離で響いた。
  空を見上げたまま、横目でちらりと音のした方向に視線を馳せると、汗だくの緑頭が刀を鞘にしまい、血の滲んだ包帯をはずしているところだった。
「シャワーの後で、新しい包帯にかえておけよ」
  まぶしさに目をすがめながら、サンジは声をかけた。
  男は、片手をわずかにあげて返事をした。
  ああ、この素っ気なさがいいのだと、サンジは胸の高鳴りを感じる。
  自分はこの男に恋をしているのだと思うと、胸の高鳴りはさらに大きく響きだす。
  いつからだろうが、どうしてだろうが、そんなことはどうでもいいことだ。
  自分は、間違いなく恋をしている。
  この、目の前にいる、粗野でがさつな男に──





To be continued
(H20.9.22)



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