『恋をした日 3』



  頬が熱いのは、何故だろう。
  シャツの下で男の筋肉が蠢くのを眺めながら、サンジは思った。
  頬が、いつになく熱かった。
  ゾロに触れられた額は、もっと熱い。
  熱が出そうだ。
  男の後ろ姿を見送ってから、サンジはキッチンへと向かった。
  二度寝をするような時間でもなかったし、何よりも、寝付けそうにないような気がしてならない。
  キッチンの椅子に腰掛けて、ぼんやりと煙草を吸った。
  今では全身が燃えるように熱く感じられた。ゾロに触れられたからだ。だから、体がカッカしているのだ。
  不覚にも、あの男を、抱きしめたいと思ってしまった。
  手が出そうになったのをごまかすため、男の尻を蹴り上げたのだ。
  くわえ煙草の口の隙間から、乾いた笑いが洩れる。
  この悶々とした気持ちを抱えたままでいるのは、危険だ。どうしたらいいだろうかと思ったところで、ダン、と音を立てて乱暴にドアが開けられた。
「おい、水」
  無愛想な表情で、男がキッチンにずかずかと入り込んでくる。
  男部屋に寝に行ったはずの男が、どうしてキッチンにいるのだろうかと考えながらも、サンジの体は反射的にグラスに水を入れている。
「ほらよ」
  コトン、とグラスをテーブルに置いてやると、男は黙って水を煽り飲む。
「どうした?」
  全身不機嫌の塊と化してしまったようなゾロの近くにいると、産毛が逆立ちそうな感じがする。
  素知らぬ顔をしてサンジが尋ねたのを無視して、男はテーブルにグラスを叩きつけた。
  先ほど、甲板で別れた時には不機嫌ではなかったはずだ。いったい何がどうなったのだろうかとサンジはこっそり首を捻る。
  何も言わずに、ただ黙って怒っている男をそのままに、サンジはそっとその場を離れようとした。
  サンジがキッチンのドアを掴むか掴まないかのところで、男が不意に立ち上がった。
  わずかに殺気のこもった気配に、サンジの手が止まった。



  キッチンを出ようとしたところで、ゾロの殺気に当てられた。
  身を固くしてじっとそのままの姿勢で立ち尽くしていると、ごつごつとした手に肩を掴まれた。
「お前、最近妙な素振りを見せやがる……」
  掠れた低い声が、背後からかかる。
「気のせいだろ?」
  しれっとして返すと、肩を掴んだ手に力が込められた。肩に指が食い込んでくる。
「ごまかすな」
  腹の底から響かせるゾロの声は、決して大きくはなかったが、サンジの鼓膜にもはっきりと響いた。
「ごまかすかよ」
  即座にサンジが返すと、勢いよく肩を引かれた。
  咄嗟に片足を振り上げかけ、途中で勢いを抑える。今はそういう時ではないと思ったからだ。
  威力を失った足を、ゾロの手のひらが止めた。靴の裏に手を添えただけの状態で、怪訝そうな顔をしてサンジをじっと見つめている。
「……やっぱり、おかしい」
  まだ何か言いたそうな顔をしていたが、ゾロはそれだけ言うと、サンジの足から手を離した。今し方見せた殺気は、すでになりを潜めている。
「ああ……そう心配するな。本当に、何でもないから」
  これはきっと、ゾロなりに気を遣っているのだろう。
  淡い笑みを口元に浮かべ、サンジは告げた。
「すぐ、元に戻るから」
  そう言った自分の言葉が、嘘でしかないことをサンジは知っていた。
  まだ、自分の気持ちを告げるだけの度胸はない。それに、自分の気持ちを告げたところでゾロの反応がわからない以上、その後の自分の行動にも不確定な部分が出てきてしまう。
  まだ、言わなくてもいい。
  口元をきゅっと引き結んだサンジは、ゆっくりとドアに手を伸ばした。
  今度はゾロも、引き留めようとはしなかった。



  メリー号の狭い甲板を行き交っていると、嫌でも誰かと顔を合わす。
  一日仲間の顔を見ないということは余程のことがない限りは、あり得ない。
  それでもサンジは、ゾロの姿を目にする回数が少なくなったことに気付いていた。他の連中は何も言わないから、もしかしたら、サンジが気にしすぎているだけなのかもしれない。
  それでもやはり、気になるものは気になるようで、ちらちらと緑色のマリモ頭が見えないか、視線の先に探してしまうことがある。
  食事時にはいたから、本格的にサンジのことを避けようと思っているわけではないようだが、その真意が見えない。
  尋ねるべきなのか、それとも放置しておくべきなのか、サンジ自身もわからなくなっていた。
  元はと言えば、自分が蒔いた種なのだ。
  それを、ゾロにどうにかしてもらおうとはさすがにサンジも考えてはいない。
  そんなみっともないことをするくらいなら、この気持ちを胸の内に抱えたままでいるほうがずっとマシだ。
  甲板に出て、煙草を吸った。
  ただぼんやりと海を眺めていると、甲板の後ろのほうからルフィとウソップの騒がしい声が聞こえてくる。今日は二人とも、朝から釣りに精を出している。少なくなってきた食糧の足しにするため、頑張ってくれているらしい。
  きっとゾロは、そんな二人を手伝うでもなく、黙って眺めているか、うたた寝をしているかのどちらかだろう。
  穏やかな時間だ。
  そう。自分さえこの気持ちを抑え込んでいれば、穏やかで和やかな船旅が続いていくはずだ。
  ──否。
  抑え込んで、いられるだろうか?
  胸の内を時折、熱く熱く焼き焦がしていくこの想いを、抑え込んだままでいられるだろうか、自分は。
  新しく手にとった煙草をくしゃりと握り潰して、サンジは溜息を吐く。
  いったい、どこまでなら自分の気持ちをさらけだしても許されるのだろうか。こんな自分をゾロは、許してくれるだろうか?
  握りしめた指の間から、ポロポロと煙草の屑が零れていく。
  自分のこの気持ちは果たして、意味のあるものなのだろうか?
  水面に零れ落ちた煙草が一本、ゆらゆらと海中に引きずり込まれていく。
  呆気ないその終わりに自分の影を重ね、サンジは小さく身震いをした。



  夕食の後で、ゾロがキッチンにやってきた。
  話があるのだという顔つきだが、自分から何かを口にするような雰囲気ではない。
  サンジに喋らせようという気満々でやってきたところを見ると、どうも自分のほうが分が悪いようだ。
  出来るだけ素知らぬふりを決め込んで、サンジは黙々とキッチンを片づけていく。それから終わると、翌日の仕込みだ。用事なら次から次へと出てくる。最初のうちは、それでごまかせると思っていた。
  キッチンでの一連の仕事が終わる頃になっても、ゾロは男部屋に戻ろうとはしなかった。
  番犬のようにどっしりと椅子に腰を下ろしたゾロは、ちびり、ちびりと酒を飲みながらサンジの用事が終わるのを待っている。
  どうしよう、どうしようと考えるものの、サンジの頭の中は真っ白で、ひとつとしていい案が浮かんでこない。
  いよいよ用事が片づいてしまうというところで、まるで部屋の隅に追いつめられた鼠のように、サンジは居心地の悪さを感じた。
  今夜のゾロは、サンジに心持ち背を向けるような姿勢で酒を飲んでいる。サンジのいる場所からは、ゾロの顔を見ることが出来ない。しかし、寧猛な肉食動物のような気配だけは沸々と感じられる。
  獲物を狙う肉食動物の眼差しでもって、ちらちらとサンジの気配を伺っているのが感じられた。
「そろそろ上がりか?」
  不意に、ゾロが尋ねた。
  声をかけられたことに驚いてサンジは、手にしたマグを落としそうになる。
「え、あ、ぅ……」
  しどろもどろに返しながら、最後の片づけも完了し、いよいよサンジは手持ちぶさたになってしまった。
「なあ、おい。ここに座れよ」
  そう言われて、仕方なくサンジは、ゾロの向かいの席に腰を下ろした。
  居心地の悪さにもぞもぞとしていると、鋭い眼差しでゾロがギロリと睨みつけてくる。
  もう、逃げられない──サンジは観念して、椅子に深く腰かけ直した。
  じっとりとした脂汗が、サンジの背筋を伝い落ちていった。



「それで? なんで俺にだけ、妙な態度を取るようになったんだよ、あ?」
  手元の酒瓶を空にしたところで、ゾロがぽそりと尋ねかけた。ぶっきらぼうな物言いだが、サンジを責めるような口調がどことなく子どもっぽい。
「いや、そういうわけじゃ……」
  言いかけたところを、鋭い眼差しで制された。
「言えよ。正直に話したら、許してやる」
  自分がサンジよりも優位に立っていることを、ゾロはきっと理解しているのだろう。でなければこんな言い方をするはずがない。
「ええと……あの……」
  サンジが言い淀んでしまうのは、自分と同じ男に対して淡い想いを抱いてしまったからだ。
  口ごもるサンジをじっとゾロは見つめていた。
  次に何を言うのか、一言も聞き漏らさないように熱心にサンジの口元を見つめている。
「夜中に、甲板で……」
  目を伏せて、サンジは掠れる声で喋りだした。
「見たんだ。お前が、刀を手に持っているところを」
  あれは、いつのことだっただろう。ミホークとの戦いの後、傷ついたゾロが、月明かりの下で刀を振るっていたのだ。サンジには、それが遠い昔のことのように思えてならない。
  青白く輝く月の光に照らされて、刃がギラギラと光っていた。
  ゾロの瞳は、血の色にも似た褐色に見えた。おそらくは、光の加減でそう見えたのだろう。
  不覚にもサンジは、そんなゾロを美しいと思ってしまったのだ。
  鍛え上げた筋肉が隆起し、蠢く様は見ていて溜息が洩れるほどだった。
  男が男に対して美しいだとか、綺麗だとか思うだろうかと悩みながらも、もう一度、刀を振るうゾロを見たいと思った。
  胸に巻かれた包帯に滲む血が黒ずんでいるのを見て、サンジの体は熱くなった。その時に、自分は、ゾロに対して性的な興味を抱いているのだとはっきりと認識したのだ。
「俺は、たぶん……」
  最後まで、言葉は出てこなかった。
  言ってしまえば、今のこの関係が壊れてしまうかもしれない。
  それが、今のサンジには怖かった。
  やっと手に入れた日常が、指の間からさらさらと零れ落ちていってしまいそうな感覚に、サンジは吐き気を覚えた。
  切なくて、悲しくて、サンジは力いっぱい目を、閉じた。





To be continued
(H20.9.30)



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