『恋をした日 4』



  恋をするということは、こんなに辛いことなのだろうか。
  噛みしめた唇の端から、微かな溜息が洩れた。
  想いを告げたいという気持ちと、胸の内を知られたくないという気持ちとが、今、サンジの中ではごちゃ混ぜになっている。
  どうしたらいいのだろう。
  いったいどうすれば、自分は楽になることができるのだろうか。
  胸の内を吐き出してしまうことができるなら、きっと気持ちは楽になるだろう。しかし、と、サンジは思う。そうすることで、もしかしたら自分は後悔するかもしれない。胸の内を告げることで後悔するぐらいなら、いっそ黙ったままでいるほうが楽なのではないか、と。
  堂々巡りの輪の中に捕らえられた哀れな男は、ゆっくりと目を見開いた。
  真っ直ぐに目の前の男を見据える。
「……悪いな。今はやっぱり、言えねえ」
  弱々しい笑みを浮かべて、それでもサンジはきっぱりと言い放った。
  覗き込むようにしてゾロの目を見つめる。
「気持ちの整理がついた時には、教えてやる」
  そう、サンジが言うと、ゾロは子どものように頷いた。
  それから、そうか、と呟くと、それでもまだ心のどこかで得心がいかないような眼差しでジロリとサンジを凝視する。そうしていれば、根負けしてサンジが喋ってくれるとでも思っているのだろうか。
  サンジの口元に苦々しい笑みが浮かんで、さっと消えた。
「隠しているわけじゃない。ただ……気持ちが定まらないだけだ」
  一方的に自分の気持ちを押しつけてもいいものかどうか、考えあぐねているのだ。自分の想いを押しつけることで、ゾロが重荷に思わないかどうかを推し量っている。なんと自分は狡い人間なのだろうかと、サンジは目を伏せた。
「なんでだ?」
  迷いのない目が、じっとサンジを凝視している。
  きっとゾロには、自分のこの複雑な気持ちは理解できないだろうと、サンジは思った。



  キッチンに立っていると、雑念は頭の隅に追いやられ、小さく縮こまってしまう。
  他のことは何も考えず、ただ一心不乱に料理のことだけを考えていられる状態というのは、なんと幸せなのだろう。
  躊躇いも戸惑いもない世界は、自分だけのささやかな王国でもある。
  幸せな、幸せな時間。
  料理をしている時、料理のことを考えている時、食材に想いを馳せている時。そういった時には、ゾロのことを考えずにすんだ。あれこれ悩む必要もなく、自分の真っ直ぐな想いだけを追いかけることができた。
  そんな時、ふと思ったのだ。
  しばらく、ゾロのことを考えるのをやめてみよう、と。
  あの男のことを考えなくなれば、自分の気持ちは安定する。心安らかに、日常を送ることができるのではないかと、そんなふうにサンジは思ったのだ。
  考えなくなれば、それはそれで何とかやっていけることにサンジは気付いた。そのかわり、料理のことを考えていればいいのだから、サンジにとっては特別に難しいことでもない。
  ゾロのことを考えなくなると、気持ちがぐんと楽になった。
  悩み、苦しんでいたのが嘘のように、晴れやかな気分になった。
  鼻歌を歌いながら何かをしていると、決まって男の視線を感じた。射るような鋭い眼差しに、サンジの体は密かに熱くなった。見られていると、そう思っただけで体の芯が熱くなり、そんな夜はたいてい、寝付くことができなくなっていった。
  これまで、ゾロが自分のことを気にすることはほとんどといっていいほどなかったように思う。それが、ゾロのことを考えなくなった途端、向こうから近づいてきた。
  野生の獣のように、こっそりと少しずつ、ゾロはサンジのそばへと近寄ってきている。
  もう、あと少しだ。
  あと一歩、サンジのほうへと歩み寄ってくれたなら、この腕で捕まえてしまうのにとサンジは思う。
  捕まえて、自分のものにしたい。
  ──ぐちゃぐちゃに、犯してしまいたい。
  そんなことを考えながらキッチンを出ると、ふと、すぐ近くでトレーニングをしていたゾロと目が合った。



  くわえ煙草のサンジは、大きくむせこんだ。
  不覚だった。
  男の視線に気付いていたのに、つい、余計なことを考えてしまった。
  サンジの脳裏に一瞬、ゾロの引き締まった裸体が月明かりに照らされ、仄白く光る姿が蘇った。
「どうした?」
  すれ違いざま、怪訝そうにゾロが尋ねる。
「ああ、ちょっとな……」
  そう言ってサンジは、甲板を横切っていく。頬が熱かった。
  午後のおやつは、ナミにとっておきのオレンジのムースを出した。男共は、腹持ちのするものを見繕って用意した。
  ナミと言葉を交わしながらも、男の視線が自分の上を彷徨っていることに、サンジは気付いていた。
  見られていると思うと、余計に意識してしまう。
  いつもよりオーバーアクションでナミとひとしきり喋り終えたサンジは、キッチンを片付けに甲板を戻りだす。ゾロの視線が、皮膚に突き刺さる刃のように鋭く、心地よい。
  一歩一歩近づいていくごとに、視線が鋭くなっていく。
  切り刻まれるような快感に、サンジの頭はボーっとなった。
「おい……」
  さっきと同じで、キッチンの側でトレーニングをしているゾロの近くを通る時に、サンジは鼻の奥にツキンと熱いものを感じた。
「おい、ちょっと待て」
  バーベルを手に、ゾロが声をかけてくる。
  何の用だと立ち止まったサンジの鼻をつーっと伝い落ちるものがあった。
「あ?」
  慌てて手の甲で鼻を押さえると、たらりと垂れた血が見えた。
「お前……何、のぼせてんだよ」
  生真面目そうな男の顔が近づいてきたかと思うと、サンジのスーツの襟でごしごしと鼻血をぬぐってくれた。
「どっか悪いのか?」
  そう言ってゾロは、サンジの顔を覗き込んだ。
  鼻の中は血のにおいでいっぱいだったが、一瞬、ゾロの汗のにおいがしたような気がして、サンジはじっと男の顔に見入ってしまった。
「いや、悪くはねえ……」
  鼻声でサンジが返すと、ゾロは微かに笑った。
「他の連中には黙っててやるから、キッチンで少し休んでろ」
  言われた通り、サンジはキッチンに入った。
  何よりも、手にしていたトレーをどこかに置きたかった。
  しばらく休んで鼻血が止まるのを待つことにした。
  こんなことは初めてだ。
  男に懸想したりするから、こんなことになったのだと自嘲気味に口元を歪めていると、何も知らないその張本人が、少し遅れてキッチンにやってきた。



「どうだ、調子は」
  彼なりに気を遣ってくれているのか、いないのか、声を潜めることもせず、ゾロは尋ねてくる。
「ああ、すごくいいね」
  自棄になってサンジは返した。
  自分が、酷く幼い子どもになったような気がして、恥ずかしくてたまらない。
  鼻にティッシュを詰めてじっとしていると、不意にグラスが差し出された。
「飲めよ」
  ぶっきらぼうにゾロが言う。
  ただの水だった。蛇口から注いだだけの水は生ぬるく、少し物足りないような気がしたが、サンジはそれをゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。
  グラスの水を飲み干してから初めて、酷く喉が渇いていたことにサンジは気付いた。
  ぼんやりと手の中のグラスを眺めながら、スーツを洗わなければならないことを思い出した。さっき、ゾロがご丁寧にも鼻血を拭いてくれたのは、スーツの襟の部分だ。シャツに鼻血がついてなければいいのだが。
「なあ……」
  言いかけて、サンジは唇をきゅっと引き結んだ。
  言葉がうまく出てこないのは、目の前にゾロがいるからだ。白いシャツに汗が滲んでいるからか、そこだけほんのりと湿っぽくなっている。こんな格好のままでいたら、そのうちにナミに汗くさいと言って怒られるかもしれないが、この男はそんなことにはこれっぽっちも頓着していないようだ。
「な、あ……」
  言いかけて、サンジはちらりとゾロを見遣る。
  男は、サンジが手にしていた空のグラスを取り上げ、コトン、とテーブルに置いた。
「煙草、吸いてえ……」
  哀れっぽくサンジは懇願した。上着の内ポケットから煙草を一本、取り出す。取り出した煙草を黙ってゾロに差し出すと、男は形のいい唇でパクリとくわえた。
  サンジがマッチを擦った。
  ゾロの指が煙草をつまみ、自分の口にくわえた。端正な顔をサンジの手元に近づけ、火を分けてもらう。ふぅ、と息をゆっくり吐き出すにつれて、紫煙があたりに立ちこめる。
「ほら、吸えよ」
  そう言ってゾロは、サンジの口に煙草をくわえさせた。
  骨張った指が、サンジの唇に一瞬、触れた。



  煙草を吸いながら、サンジの胸の内がじんわりと熱くなった。
  自分は、目の前のこの男を好いていて、性的にも興味を持っている。苦しいぐらいの熱い想いに、サンジの鼻の奥が痛くなる。
  サンジが煙草を吸っている間に、ゾロはコップをシンクに置きに行った。戻ってきたかと思うと、またサンジの目の前に佇み、褐色の眼でじっとサンジを見つめる。
  間接キスの味は、甘苦かった。
  煙草のフィルターを通して、ゾロの味と体温が感じられた。
「苦げぇ……」
  掠れた涙声で、サンジが呟いた。
「そうか」
  ゾロの声は、単調だった。
  それからゾロは、ゆっくりとサンジに背を向けた。
「トレーニングの続きをしてくる」
  そう告げると、また甲板へと出ていこうとする。
  サンジは汗染みの浮いた背中に向かって、ぽそりと言葉を洩らしてしまった。
「──…なあ、なんでこんなに苦げぇんだろな、恋の味ってのは」
  弱々しいサンジの声は、間違いなくゾロの耳にも届いたはずだ。咄嗟に呟いてしまった自分の浅はかさに、サンジは小さく舌打ちをした。
  ふと、ラウンジを出ていこうとしていたゾロの足が止まる。
  振り返らずに、しかしゾロははっきりとした声で、返してきた。
「まあ、せいぜい頑張れや。そんなもんじゃねえのかよ、恋ってのは」
  そう言うと軽く片手を上げて、今度こそ甲板へと戻っていってしまった。
  胸が痛いと、サンジは思った。
  痛くて苦しくて、そしてその中に密かに、甘い疼きが混じっている。
  この恋は、どうしたら報われるのだろうか。
  どうしたらこの気持ちに、終止符を打つことができるのだろうか。
  いったい、どうすればいい?
  自分は、どうしたいのだろう?
  吐き出した煙と共に、溜息が洩れた。
  ぽろりと零れ落ちた一滴の涙は、恋の花だ。
  自分は、こんなにもあの男のことを好いている。恋しているのだ。
  溜息を、もうひとつ。
  どうにもなりそうにない状況に、微かな自嘲を洩らす。
  あの日から自分は、こんな気持ちを抱え続けている。
  そしてこれからも、きっと…──





END
(H20.10.4)



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