『恋をした日 2』



  夕飯の後も、サンジは忙しい。
  その日の片付けや翌日の仕込みのため、しばらくはキッチンでごそごそと何かしら立ち居働いている。
  夜の早い時間だと、ナミがたまにお茶を飲みにくることがあった。その前後に決まって腹をすかせてやってくるのはルフィだ。ウソップと連れだってやってくることもあったが、こちらは育ち盛りのせいだろう。もっと遅い時間になると、ゾロが酒をせびりにも来た。
  一人でごそごそとしていても賑やかなのが絶えることのないのがいいところでもあり、悪いところでもある。
  この賑やかな雰囲気を、サンジは意外と気に入っていた。
  自分が必要とされる場所があるということは、いいことだ。
  古巣であるバラティエほどの規模の大きさとは無縁のメリー号だったが、ここでは、古巣以上の働きを求められる。
  悪くはないと、サンジは思っている。
  マリモ頭の男に酒とツマミを出してやるのも、楽しい。何よりも、あの男をからかった時の反応が何とも言えないほど面白いのだ。
  アーロンパークでの一件から何日か過ぎ、ゾロの胸の大傷は再び塞がりつつあった。夜中にふらりとやってきては、ちびちびとではなく、以前のように浴びるほど酒を飲むようになったことがいい証拠だ。傷が塞がりかけたと見ると、あの男は嬉々としてトレーニングを再開した。
  真剣を振るっていたのは、たった一度だけ、サンジが目にしたあの夜だけだ。
  時々サンジは、真剣を振るっていたあの夜のゾロにもう一度、お目にかかれないものかと思うことがあった。
  あの時のゾロは、普通ではなかった。
  眼光は鋭く、触れれば斬れそうな鋭利な刃物のような危うさを醸し出していた。
  あの目を、もういちど、見たい。
  あの、鋭い眼差しに自分はきっと、惚れたのだ。
  おそらくは、バラティエでの対ミホーク戦を目にした時からずっとサンジは、ゾロのことが気になっていたのだろう。
  あの夜のゾロは、いったいどこへ消えてしまったのだろうか。
  ふぅ、と溜息を吐いたサンジは、キッチンの灯りを消して甲板に出る。
  今夜のゾロは、どこかそわそわしていた。
  いつもより早い時間にやってきたと思ったら、あっという間に酒瓶を空にして、キッチンを出ていった。
  少しぐらいゆっくり話をしてみたいと思うのだが、なかなか一筋縄ではいかないようだ。
  暗い海を眺めながらサンジは、小さく苦笑した。
  あの男に恋をするなど、以前の自分からは考えられもしなかったことだ。
  溜息を、もう一つ。
  それからサンジはゆっくりと、男部屋へと降りていった。



  女性に対してならばいくらでも言葉が出てくるというのに、今のサンジは違っていた。
  あのマリモ頭相手となると、勝手が少々違ってくるのか、好きだ、何だと、口に出して言うようなことではないと思えてしまう。
  想いを告げるための言葉はなかなか出てこないし、ところ構わず相手に触れたがる性癖も、今はなりを潜めている。いったい、どうしたことだろう。
  だからだろうか、自分のこの気持ちをサンジはまだ、ゾロには打ち明けてはいない。
  まったく、いったい自分はどうしてしまったのだろうと思う。
  女性を相手にするのとは違うということは充分にわかっていたはずだが、こうも自分が及び腰になるとは思ってもいなかった。
  溜息の数だけが、日に日に多くなっていく。
  今日告げよう、明日告げようと思うものの、この気持ちを知った後のマリモ頭の出方がわからない以上、迂闊なことはできないでいる。
  そんな状態のまま、一日、一日と日が過ぎていく。
  いつ、告げよう。
  そんなことを悶々と悩んでいる間にも航海は続いている。
  そのうちに、サンジの中には焦りが生まれる。
  この気持ちを告げたいという欲求と、この気持ちを知られたくないという欲求と。
  相反する気持ちに引き裂かれそうになりながら、どうにか、日々を過ごしてきた。
  胸の内で燻る想いを告げて、彼に触れたいとさえ思ってしまう。
  本当は、そんなことは許されないのかもしれない。
  それでも…──
  それでも、あの男の体温を感じたいと思ってしまう。
  指で、唇で、触れたいと思ってしまう自分がいる。
  こんな状態がだらだらと続くのなら、いつか自分は、衝動的にあの男を犯してしまうのではないだろうか。
  そんな考えに苦笑して、サンジは煙草の煙を吐き出した。



  どこかで、金属音がした。
  ハンモックの中でパッと目を開けたサンジは、物音を立てないように気を遣いながらもそっと床に降り立つ。同じように眠っているはずのマリモ頭の男の姿は、部屋のどこにも見あたらない。サンジは素早く部屋を後にした。
  甲板へあがると、まだ夜は明けていなかった。
  紺碧の空に灰色と淡い茜色が混ざり合い、吹きつけてくる風はひんやりと肌に心地好かった。
「……どこだ?」
  目をすがめて、あたりを一瞥する。
  煙草を指に挟んだものの、火をつけることはせず、そのまま口にくわえるだけにとどめた。
  どこで音がしたのかがわからず、キョロキョロとあたりを見回した。もしかしたら気のせいだったのだろうかと諦めかけた時、甲板の後方でキン、と甲高い音がした。
  あの音だ──と、咄嗟にサンジはそちらのほうへと頭を向けた。
  冷たい空気の中に、ピンと張り詰めた気配が感じられた。殺気ではなく、いつもとも違う男の気配に戸惑いを感じたものの、すぐにサンジは気配のするほうへと歩き始めていた。
  朝の空気の中で、男が真剣を振るっていた。
  ああ、あの目だと、サンジは口元をうっすらと緩める。
  鋭い眼差しが虚空を睨み付け、スラリと抜きはなった刀を突きつける。
  切っ先の向こうに、あの男はいったい、何を見ているのだろうか。
  ただ黙って男を見ているだけだというのに、サンジの心臓はドクドクと脈打っている。
  刀を振るう男の二の腕の筋肉が流れるように蠢き、汗の粒が飛び散る。いったいいつからこの男は、ここにいるのだろうか。あんなに汗をかくほど長い時間、一心不乱に刀を振るっていたのだろうか。
  タン、と勢いよく踏み込んだ男の足が甲板の床板を蹴る。
  あっ、と思った時には男の影が目の前に迫っており、反射的にサンジは、突きつけられた刀を片足で受け流していた。
「ここで、何をしている?」
  詰問する男の眼差しは鋭く、サンジが焦がれていた鋭利な光を放っている。
「朝焼けを、眺めに」
  しれっとした表情でサンジは告げた。
  男は胡散臭そうにサンジをジロジロと眺めたものの、警戒心はそのままに、刀を鞘に収めた。



「そっちこそ、こんな時間に何やってたんだ?」
  くわえていた煙草に火をつけると、サンジは不意に尋ねた。
  汗だくの体をタオルで軽くぬぐったゾロは、甲板の片隅に脱ぎ捨ててあったシャツを取り上げた。
「別に」
  シャツを着込みながら、男は素っ気なく返す。
「そうか」
  何かもっと気の利いたことをと思いながらも、サンジの頭の中は真っ白で、これ以上の言葉は出てこない。
「それで? 本当に朝焼けを見に来たのか?」
  疑い深そうにゾロが尋ねる。
「あー……いや、本当は、刀の音が聞こえたような気がしたから、甲板にあがってきたんだ」
  それに、男部屋にはゾロの姿もなかった。金属音は、刀の刃がぶつかり合う時の音にも似て透明な甲高い音をしていた。だから、サンジは甲板に様子を見に来たのだ。
  ひととおりサンジが説明をし終えるまで、ゾロはどうでもいいといった表情で話を聞いていた。
  手持ち無沙汰で、つまらなさそうにしている。ひとしきりサンジの話が終わるまで喋らせてやって、適当に聞き流しておけばいいだろうと、きっとゾロはそんなふうに思っているのだろう。
  それでもサンジは、こうしてゾロと二人で言葉を交わすことができることを嬉しく思っていた。
  何かというとすぐに罵り合いや軽い喧嘩に発展してしまう日常とは違うのだと思うと、それだけで満足してしまいそうになる自分がいる。
  だけど現実には、それだけでは足りない。
  もっと、言葉を交わしたい。
  もっと、近くで。
  もっと、もっと──



  ふと気付くと、ゾロがすぐ近くに来ていた。
  心の中でサンジは、ゾロにもっと近くに寄って欲しいと思っていた。喧嘩の時には額がくっつきそうなほど近くで相手の顔を見ることもあるというのに、何でもない時に近くに寄られると、気恥ずかしく感じてしまう。それでも、二人の距離が縮まるのは、嬉しいことにかわりはない。
  どうしたのだろうと思ってサンジがじっと男を見つめていると、汗のにおいがふわりと鼻先を掠めていった。
  あっという間に男の指が、サンジの額をピン、と弾いていく。
  一瞬、何が起こったのかわからずにサンジはただ呆然とゾロを見つめていた。
「隙あり」
  ニンマリと口の端を歪めて、男が笑った。
  可愛い、と。この男はなんと幼い顔をして笑うのだろうかと、サンジは思った。
  この男が、欲しい。自分のものにしてしまいたいという独占欲がふつふつと沸き上がり、サンジの体の中で暴れだす。
  今、この男を自分のものにしてしまおうか。
  それとも、今日のところはこの笑顔に免じて許してやろうかとひとしきり考えたところでサンジは、乾いた笑いをあげていた。
  サンジが悩もうが悩むまいが、ゾロは、自分の思うとおりにしか動かないはずだ。
  許してやろうなどと心の中では偉そうに言っているが、結局のところ、自分の負けを認めたくないだけなのだ、サンジは。
  遅れを取ったこと、目の前の男を可愛いと思ったこと、恋をしていると改めて再認識してしまったこと──それらすべてを認めようとしない自分が、サンジの心のどこかにまだ、存在しているのだ。
  ああ、そうか。なるほどねと、サンジは頷いた。
  それから、立ち去ろうとしていた汗だくの男の尻を軽く蹴り上げてやった。
「隙あり」
  ニヤリと笑って言ってやると、ゾロは眉間に皺を寄せてサンジを睨み付けた。





To be continued
(H20.9.25)



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