His lips 4

  ハンモックに潜り込んだウソップは悶々としていた。
  サンジとのキスは、いたずらに身体の中の熱を煽っただけだった。
  ひとつ先へ進むとどんどん欲が出てくる。手を繋いだら、次は唇に触れてみたい。口づけを交わすことができたなら、次はその白い肌に直接触れてみたい。その先を考えると、怖ろしくなってしまう。
  きりがないなと思いながらも、ウソップはきつく目を閉じた。
  本当のところはよくわからないが、サンジだってきっと、キスよりも先の行為を望んでいるはずだ。好きだから相手に触れたい、キスして抱きしめたいと思うことは、別に不自然なことではないはずだ。たとえ男同士だったとしても、おかしくはないだろう。
  昼間のサンジは、ある種のフェロモンのようなものを発していたように思う。
  木陰に隠れてキスをした時、ウソップは確かに、サンジの身体が火照っていることに気付いていた。心の中ではキスよりも先の行為に進みたがっているような様子だったが、ウソップ自身、人の目が気になってそれ以上のことは出来なかった。
  それでよかったのかどうかはウソップにもわからない。
  あのあと。
  唇が離れたあのあと、サンジはどこか残念そうな顔をしていなかっただろうか。
  もっと……と、唇が形作り、微かな空気の流れとなってウソップの耳に届きはしなかっただろうか。
  考え出すときりがない。
  ほう、と大きな溜息を吐き出すと、ウソップは毛布を頭からすっぽりと被った。
  とにかく、眠ろう。
  眠ってしまって、頭をすっきりとさせなければ。
  そうして、明日の朝はまた、いつもと同じようにサンジに「おはよう」と言うのだ。
  急ぎ足で歩いていいことは何もない。ゆっくりと、ゆっくりと、歩いていくのが恋の秘訣だ。そう、母は言っていた。
  それでも尚、目が冴えて、ウソップはその夜、ほとんど眠ることができなかった。



  いつもより少し早く目が覚めた。
  うとうととしかかってはサンジの物言いたげな表情や記憶の中のスイカズラの香りに翻弄されて、よく眠れなかった。眠い目を擦りながらウソップは甲板へと上がっていく。
  夕べ、一番最後に男部屋に下りてきたのはサンジだった。うとうととしながらウソップは、サンジの足音を耳にしている。間違いない。それなのに、今朝も一番先に起きだして、サンジはもう朝食の準備に取りかかっている。口は悪いがこういうところは甲斐甲斐しい。以前、そのことをちらりとサンジに言うと、単なる職業病だと言って笑っていた。要するに責任感が強いのだろう。仲間に気を遣わせないように、さらりとこなしてしまうところがまた格好いい。そういうサンジに気付くたびに、自分も頑張らなければとウソップは思う。仲間のために、ひとつでもいい、小さなことでもいいから、何かしようという気になる。自分もこのゴーイング・メリー号の一員なのだと実感するたびに、サンジとの距離も縮まっていくような気がしてならない。
  もっと近くに、もっと側にと、サンジは言っている。声に出しては言わないけれど、その目が、その唇が、告げている。
  早く自分のところまで来いと、言っている。
  甲板で大きなのびをひとつすると、ウソップはラウンジのドアを開け放った。
「おはよう、サンジ」
  いつもと同じに声をかけると、ややぶっきらぼうに「おう」とだけ、返ってきた。
「いつもより早いな、長っ鼻」
  鍋の中から目を離さずに、サンジが言った。
「あー……まあ、たまには、な」
  実はサンジのことを考えていて眠れなかったなどとは、今この時には絶対に言ってはいけない言葉だと、そのあたりのことはウソップもちゃんとわきまえている。
「もう少し待ってろよ」
  その言葉のあたたかさに、ウソップは気付いている。
  サンジが相手の方を向いて喋らないことに、最初の頃は苛立ったウソップだった。が、サンジがこういう態度をとるのは料理に関係ある時ばかりだということにウソップは気付いた。それだけ料理に真剣なのだ。そのことに気付かなかった自分は、何と幼かったのだろうとウソップは思ったものだ。自分だって、他の仲間たちだってそうだ。自分の好きな何かに夢中になっているときは、その夢中になっているものに真剣に向き合っているはずだ。そういう時に相手が自分のほうを見てくれないからと、相手のことを悪く思うのはどうかしている。そんなことにも長い間気付かずにいた自分は、まだまだ子供だとウソップは思った。サンジとの歳の差は、小さいようで大きい。どれだけ頑張って歳を取っても決して自分とサンジが同じ歳になることはないのだ。
  だからウソップは、サンジの枷にならないよう、できるだけ大人になろうとしている。
  こいつは足手まといだと思われたくはなかったから。
「なあ、何か手伝おうか?」
  尋ねかけた瞬間、サンジがちょうどウソップのほうを振り返った。
「手伝いは要らねぇが……」
  くわえ煙草のままサンジがぼそぼそと告げたその言葉に、ウソップは大きく頬笑んだ。



  炒め物をするサンジの背後に回って、ウソップはそっと肩口と耳の後ろにキスをした。
  おはようのキスのかわりに欲しいのだと、サンジから強請ったのだ。
「……これで、いいのか?」
  おそるおそる尋ねると、急にサンジが振り返ってウソップの鼻先にキスを落とした。
「はい、おしまい」
  きっぱりとした口調でサンジが言い、それっきり甘い空気は消し飛んだ。
  ウソップは何も言わずにサンジから離れた。
「俺、先に甲板洗ってくるわ」
  へへっ、と笑ってウソップが告げる。
  すぐにやわらかなサンジの声が返ってきた。
「おう。あんまり時間かけるなよ。すぐにメシだからな」
  わかった、とウソップが言うのに、サンジは何も返さなかった。が、甲板へと出ていく時、サンジの鼻歌が微かに聞こえてきた。機嫌がいいのは、さっきのキスの余韻だろうか。何故だかウソップは無性に嬉しくなって、やはりサンジと同じように鼻歌を歌いながら甲板を隅から隅まで丁寧に磨き上げたのだった。



  何かを相談したわけではなかったけれど、ナミとの会話はサンジにとって一滴の清涼飲料材となったようだ。
  ナミの言葉に救われた気分だった。
  サンジ自身、ちょうどウソップとの関係に行き詰まっていたところだった。
  キスを交わすだけでなく、その先の行為へと進みたがる身体を抑え込むことに疲れていたサンジだったが、ナミのおかげでウソップとの関係を始めたばかりの頃のことを思い出した。無理に先へ進もうとするのではなく、互いの気持ちが前へと共に進み出すあの感覚が、蘇ってくるようだった。あの頃の二人はぎこちなくはあったが、真っ暗な夜道を手探りで歩いているような感じだった。互いの目となり、足となり、共に進んでいくことはとても楽しかった。無理に先に進むのではなく、ゆっくりと時間をかけて、相手が自分のやり方に慣れるまでじっと待つことを楽しんでいたはずだ。それがいつ頃からか、サンジ一人が先へ先へと進もうとし始めた。自分はいったい何を焦っていたのだろうかと、サンジはぼんやりと考える。
  自分の気持ちばかりを考えて、ウソップの気持ちを忘れていた。
  相手がどう思っているか、そんなことを考える余裕すらサンジは失ってしまっていた。
  それでもウソップは、サンジのことをじっとただ見守ってくれていたのだろう。サンジがキスよりも先の行為に進もうとするのをおしとどめるでもなく、また強引に先へ進んでしまうでもなく、いつもと変わらぬ態度で接してくれた。きっとあの長っ鼻は、サンジの目の届かないところでは悶々としているはずだ。馬鹿な奴だとサンジは苦笑する。サンジの気持ちなんて放っておいてそのまま先に進んでしまうことだってできただろうに、あの男はそうしなかった。そういう妙なところで紳士的なところに、もしかしたらサンジは惹かれたのかもしれない。
  くわえ煙草のままほう、と息を吐き出し、サンジは甲板に目を向けた。
  開け放ったドアの向こうでは、楽しそうにウソップがモップを構え、甲板を洗っている。
「腰を入れてしっかり磨けよ」
  口元にやわらかな笑みを浮かべてサンジは呟く。
  そろそろ仲間たちが起き出してくる頃だろう。
  今日も忙しくなりそうだと、腕まくりをしたサンジは仲間たちの朝食をテーブルに並べていく。
  ラウンジに入ってきた仲間の影ではナミが小さく頬笑んでいた。ふっきれたような様子のサンジが、酷く楽しそうに見えた一瞬だった。



  朝食後の片づけを買って出たウソップは、サンジの隣で皿洗いをしている。
  ほんのりと甘いサンジの香りは、やはり故郷のスイカズラを思い出させる優しいにおいで。洗い物の洗剤のにおいともまた違うふんわりとした香りに、時折、ウソップの皿を持つ手が滑りそうになった。
  隣で皿を拭いているサンジが、コツン、と爪先でウソップの踵のあたりを軽く蹴ってきては、注意を促した。
「割るなよ」
  棘のあるその物言いに、ウソップは肩を竦めてちらりと顔を上げる。
「わ……わかってるって……」
  皿洗いを初めてすぐに、ウソップは食器を割っている。それを仄めかすようにサンジはぎろりとウソップをひと睨みすると、ふっ、と表情を変えた。
  ちゅっ、と音がして……甘い香りがウソップの鼻をくすぐる。唇に触れる、サンジのやわらかな唇。舌が入り込んできて、ウソップの歯の裏をレロ、と舐める。
  ああ、いいにおいだ──そう思った瞬間、ガシャンと音がして、またひとつ、食器が割れた。
「あ……」
  しまった、という風に顔をしかめたウソップが恐る恐るサンジを見上げると、この金髪の恋人は厳しい顔付きでウソップを見おろしていた。
「てめっ……注意した端から割ってんじゃねぇ!」
  ダン、と膝蹴りがウソップの腰にあたる。手加減してくれているのか、痛みはない。
「もう、いいから……お前は椅子に座ってそこで見てろ」
  そう言いながらもサンジはどこか嬉しそうにしている。二人で皿洗いをするのは初めてのことではなかったが、どこかいつもと違うのは、サンジが何かを吹っ切ったからだろうか。
「見てればいいんだな?」
  尋ねかけるウソップは、そのまま後退ると椅子に腰掛けてじっとサンジを見つめた。
「そうだ。俺様の華麗なる皿洗いを、そこでじっと見ていやがれ、クソっ鼻」
  背中を向けたままでサンジはそう言うと、手早くシンクに残った食器を洗い始めた。ひとつとして汚れのない皿やボールやスプーンやフォークがシンク脇に積み上げられ、食器棚に片づけられていく。ウソップに見られていることがわかっているからか、サンジの頬は緩みっぱなしだった。いつもとは違う空間が、なんだかこそばゆいような感じがしてならない。
「──……なあ、サンジ」
  結局、ほぼ一人で片づけを終えたサンジに、ウソップがぽつりと言った。
「ゆっくり進もうな、俺たち」
  ふとサンジの耳に聞こえてきた言葉は、自分自身がそう思い始めていたこととちょうど同じだった。焦らずにゆっくり二人の関係を進めていけばいいのだと、ようやくサンジは気付いたばかりだったのだ。そんなことまで二人同時に考えていたということが嬉しくて、サンジは顔いっぱいに笑みを浮かべて返したのだった。
「おう、舵取りはてめぇに任せたぞ」



END
(H17.3.26)



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