『TANGIBLE 1』



  鏡の奥を見つめると、いつもいつも、執拗に見つめ返してくる眼差しがあった。
  蒼く澄んだその瞳は常に真剣で、熱心に、サンジだけを見つめている。
  鏡に映る自分と対峙するたびにサンジは不思議な気持ちにとらわれた。
  ──こいつは、誰だろう。自分をじっと鏡の中から見つめるこの男はいったい、何のためにここにこうしているのだろうか。
  嫌いではなかった。
  むしろその無表情な顔に、愛着すら覚え……──もっともそれは、当然のことだろう。何しろサンジ自身の顔なのだから。
  とにかくサンジは、鏡の中のもう一人の自分と、物心つくかつかないかの頃から付き合いがあった。
  もちろん、この歳になってそれを表に出すことはなくなっていたが、それでもサンジは時折ふと、思い出したように鏡の中の自分を覗き込むことがあった。
  ──お前は満ち足りているか? 今のこの生活に。今のこの、生き方に。
  そう尋ねかけると、鏡の中の自分はにやりと口の端を引きつりあげて、笑い返す。
  ──満足さ。
  サンジの頭の中に、そんな声が響いたような気が、した。



  目を開けると、格納庫だった。
  まだ眠い目をしばたたかせながらも上体を起こしたサンジは、あたりをぐるりと見回した。
  あかり取りの窓から、夜明けの少し前、灰色の空の向こうが微かに白んできているのがぼんやりと見えている。
  すぐ隣で眠る男の吐息が微かに聞こえてくる。上下する男の裸の胸には、大きな傷跡が残っている。
「少し早いな……」
  呟いて、サンジは身体半分ほど向こうに脱ぎ散らかしたままになっていた衣服を素早く身につけた。
  眠っている男の緑色の短髪に軽く唇を押し当ててから、サンジは格納庫を後にする。
  今はただ、身繕いがしたかった。
  夕べの情事を洗い流して、すっきりとした気分でキッチンに立ちたかったのだ。
  格納庫からバスルームへと足を運び、少し熱めのお湯で身体を洗い流す。情事の痕は、ほとんどない。身体の奥に残るトロリとしたものと腰のだるさぐらいのもので、見た目には取り立ててこれといったところも残らない。
  身体の奥はしかし、いつもにもまして疼いている。甘い痛みと、少しの熱と。もどかしいような感じに、いつの間にか手は、股間へとのびていた。



  湯を張ったバスタブの中にうずくまって、サンジは息を殺していた。
  締め切った室内では、吐息すら反響して大きく聞こえる。
  唇の端を噛み締めているのに、鼻にかかった声が室内に零れた。
  慌てて入り口へちらりと視線を馳せ、それから押し殺した息をこっそりと吐き出す。バスルームですることではないという思いが、ナミとロビンへの罪悪感となって沸き上がる。
  それでも、指先の動きは止まらない。いたずらにペニスの先端を指の腹でいじくっては、白い精液をトロトロと溢れさせる。
  チャプン、と湯が跳ねる。
  こんなところを誰かに見られでもしたらとんでもないことになるだろう。今すぐにやめなければという思いと、誰かに見られてもいいからこのままここで、身体の奥で燻っている熱を鎮めてほしいという思いとが、サンジの中でせめぎ合っている。
  身体はそして、さらなる愉悦を求めている。
  指先だけの戯れでは飽きたらず、後ろへの刺激を与えてくれる何かを求めて腰が揺らぐ。
  タプン、と湯がひときわ大きく波打ち、バスタブの外に零れる音がした。



  精液の混じった湯を流してしまうと、サンジは裸のままで鏡を覗き込んだ。
  湯あたりでもしかかっていたのか、ほんのりと肌は緋色に色づいている。目元の潤んだ感じは、欲情の証だ。あの男……ゾロ に抱かれている時の自分がこんな目つきをしていることを、サンジは知っている。
  間違いなく自分は、身体の中の押さえきれない熱を解放するため、衝動的な行動を取ってしまった。身勝手な自分の欲望だけに従ったのだ。なんて貪欲なのだろうか、自分は。
  ぼんやりとそんなことを考えながら、サンジは鏡に映る自分の唇をそっと指でなぞった。鏡の中の自分はなんとも物欲しそうで、半開きになっただらしのない唇があまりにも官能的に思えたのだ。
  ──その瞬間。
  鏡の中のサンジの唇は、口の端をつり上げ、にやりと笑った。
  背中をぞわりと、冷たいものが這う。
  たった今、熱めのシャワーで身体を清めたばかりだというのに、脂汗がどっと背中を伝い落ちていく。
  いったい何なのだろうか、この感覚は。
  じっと目を凝らして、サンジは鏡の中を覗き込んだ。



  鏡の中の自分を見つめていると、奇妙な感覚が背を這い上がってきた。
  じりじりと上がってくるその感覚は、いくら振り払っても落ちない汚れのようにしっかりとサンジにへばりついている。
  鏡の向こうには、サンジ一人しかいない。
  しかし、間違いなくこの場所には誰か、いる。
  このバスルームに、見えない誰かが存在している。
  洗面台の縁に手をついて、サンジはぎゅっ、と目を閉じた。
  瞼の裏側からゆっくりと暗闇が広がり、足下が消えていくような喪失感を感じてサンジはぱっと目を開けた。
  鏡の中を覗き込むと、青白い顔色のサンジ自身が、陰鬱そうな眼差しでじっとこちらを見つめ返している。
  大きく息を吐き出し、そろそろと流しの縁に置いた手に力をこめる。自分の姿が鏡に映っただけだというのに、ふつふつと嫌悪感が沸き上がってくる。サンジは鏡の中の自分を睨み付けた。
  見られているという感じがするのは、気のせいだろうか。
  ──それとも?
  瞬きをした瞬間、鏡の中の自分が揺らいだように見えた。
  輪郭がぼやけて、何人もの自分がずらりと並んで自分を見つめ返す不思議な感覚にとらわれる。
  もういちど瞬きをして目をしっかと見開くと、ぼんやりとした輪郭の男が、背後からサンジを羽交い締めにしていた。






to be continued
(H16.5.19)



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