雨上がりの朝に表へ出ると、生乾きの道から砂埃とアスファルトの入り混じったような独特のにおいが鼻をつく。
少し顔をしかめてから獄寺は、のんびりとした足取りで歩きだした。
歩き慣れた通学路の景色はいつもとかわらず、さらりとして湿度の少ない風が心地よい。 秋空らしく空は高く、今のところ雲ひとつない。
夏場に比べると、随分と湿度が下がったように思う、ベタつく汗の不快感を思い出し、一瞬、獄寺はうんざりとした気分になる。
とは言うものの、日中は暑くても、このところ朝晩は過ごしやくなった。この暑さともあと少しでお別れだろうと思うと寂しいような気がしないでもない。
目の前の景色は静かで、いつもとなんらかわることのない穏やかな景色だった。
足元の小石を蹴り上げ、口笛を吹きながら道を歩く。
歩きながら猫背になるのは染みついた癖のようなものだ。あまり見た目がよくないことはわかっていたが、つい、猫背になってしまう。そこいらのチンピラみたいだからやめろとシャマルからも注意されたが、獄寺はこれっぽっちもやめるつもりはなかった。
爽やかな秋風を頬に受けながら、通学路を歩いていく。通い慣れた道だ。
のんびりとした気分で歩いていると、通りの向こうのほうに人影がみえてくる。
ツン、と立った癖のある髪の綱吉に、獄寺は大きく手を振った。
「おはようございます、十代目」
腹の底から声を張り上げると、人影が立ち止まり、こちらを振り返る。
「おはよう、獄寺君!」
手を振り返し、綱吉が声を張り上げる。
獄寺はおもむろに駆け出していた。
綱吉のいるところまで全速力で走りきり、ゼエゼエと息を切らしながらも大きな笑みを浮かべた。
「おはようございます、十代目」
改めて挨拶をすると、綱吉は小さく笑って獄寺を見上げた。
「おはよう、獄寺君。髪が跳ねてるよ」
そう言うとさっと手を伸ばして綱吉は、獄寺の跳ね上がった髪を撫でつけてくれる。
その仕草に、獄寺はドキドキする。
間近に綱吉の顔を見ていると、頬がカッと熱くなってくる。
「あれ? どうしたの、獄寺君。熱でもある? 顔、赤いよ?」
首を傾げながら綱吉は、獄寺の頬に手を当てる。両手で包み込むようにして頬に触れると、額をコツン、と獄寺の額に当ててくる。
「じゅっ……十だ……」
口を開くと、綱吉に「シーッ」と言われた。
「静かに。熱がないかどうか計ってるんだから」
胸の鼓動が恥ずかしいほどにドキドキと鳴り響いている。
綱吉に、聞こえてしまわないだろうか?
無性に恥ずかしくてならない。
あまりの決まり悪さに獄寺が小さく身じろぐと、ホッとしたのか綱吉はフフッと声をあげて笑った。
「熱、ないみたいだね」
綱吉の額が離れていくと、今までくっついていた部分がなくなってしまったような寂しい感じがする。できることならもっとくっついていたかったのに、残念でならない。獄寺はこっそりと溜息をついた。
「走ってきたからかな?」
まだ綱吉は、獄寺の顔のことを言っている。
顔が赤いのはきっと、綱吉に接近されたからだ。
ここだけの内緒の話だが、獄寺は綱吉のことが好きだ。男女の恋愛感情としての好意を、綱吉に対して持っている。男同士だなんてインモラルなことだからと気持ちを抑えているものの、ふとした拍子に綱吉に触れられると、獄寺はドギマギしてしまう。
おそらく、出会った時から獄寺はずっと綱吉のことが気になっていて……いつの間にか、好きになっていた。
綱吉の、いざという時の男気に惚れたのだ。
だが、綱吉にそのことを伝える気は獄寺にはない。折に触れて綱吉を持ち上げ、敬愛する態度を前面に押し出している獄寺だが、それとこれとはまた別だ。
個人的な自分の好意を綱吉に押しつけるようなことだけはしたくないと、そんなふうに獄寺は思っている。
「あの……急いで来たから、多分それで……」
もごもごと口の中で獄寺が言い訳がましく呟くと、ようやく綱吉は頷いてくれた。
「そうだね。そうかもしれないね」
そう言って綱吉は、獄寺の手を取った。
「じゃあ、ここからは歩いて行こうよ。今日は登校時間、余裕あるからさ」
綱吉の笑った顔が眩しくて、獄寺は困ったように目をすがめた。
繋いだ手を通して、胸の鼓動が綱吉に聞こえてしまわないだろうか。
そんなことを考えながら獄寺は、通学路を歩き続けるのだった。
学校につくと、球技大会の準備で誰もが慌ただしそうだった。
大会の実行委員や役を持っている一部の生徒は大変だが、獄寺も綱吉も参加するだけだから気が楽だ。
のんびりとした足取りで校門を潜ると、教室へ向かう。
山本はとっくにグラウンドにいるはずだ。クラスの球技大会実行委員として、あれやこれやと甲斐甲斐しく走り回ってくれているらしい。
「オレたちも、荷物置いたらすぐに山本の手伝いしなきゃね……」
面倒だけど、山本が実行委員だから仕方ないよなと呟いて、綱吉は机に自分の鞄をドン、と乗せる。
「ちょっとぐらいアイツにやらせときゃいいんスよ、十代目」
ムッとして獄寺は、つい言ってしまった。
綱吉が山本と親友同士なのは知っている。しかしこういう形で山本のことを綱吉が口にすると、獄寺としては面白くない。
これが嫉妬だということは自分でもわかっていた。大人げないということもわかっている。それでも、悔しいのだ。
綱吉にもっと自分を見て欲しいと思う。
頼りにして欲しいとも思うし、頼りにされたいとも思う。
今以上に綱吉に気にかけてもらうにはどうしたらいいのだろう。もっともっと、近づきたい。二人の間の距離を、縮めたい。
「またそんなこと言って……」
苦笑しながらも綱吉は、獄寺の言葉を言葉半分に聞き流している。
もっと真剣に聞いて欲しいと思うのは、我が儘だろうか?
獄寺は唇を尖らせて、ポソリと呟いた。
「いーんスよ。どーせ野球バカのことだから、今回の実行委員だって喜んで立候補したんじゃねえんスか?」
「あー……うん、立候補ってか……」
綱吉の歯切れの悪い言い方にも、獄寺は苛々を募らせる。山本が、綱吉と自分との仲を裂こうとしてなにか画策しているのではないかと疑ってしまいそうになる。
苛々ついでに獄寺は、ドン、と机の上に鞄を置いた。
途端に綱吉が、ビクッと体を竦ませる。
「行きましょう、十代目。野球バカの手伝い、するんですよね」
嫌だったが、本当は手伝いたくなどなかったが、綱吉が気にしているから仕方がない。
はあ、と溜息をついた獄寺とは対照的に、綱吉は無邪気に喜んでいる。おそらく綱吉は、親友である山本の手伝いができるのなら、なんだっていいのだろう。
なんとも複雑な感情を胸に抱えたまま獄寺は、のろのろと教室を後にしたのだった。
校庭へ出ると、球技大会の準備で実行委員に当たっている生徒たちが慌ただしく駆け回っていた。
獄寺は空を仰いだ。
こんなことに一生懸命になるなんて、なんて気楽な連中なのだろうと獄寺は思う。と、同時に、この気楽な連中の中で、綱吉には居心地よく過ごしてもらいたいと思わずにはいられない。
無意識のうちに煙草が吸いたくなっていた。
球技大会のために着たジャージのポケットを探るが、煙草は制服のシャツのポケットだ。しまった、入れ直してくればよかったと恨めしげに獄寺は教室の窓をじっと睨みつける。
「あれ? どうしたんだよ、獄寺君」
声をかけられ、獄寺は煙草どころではないと我に返った。
「あ、いえ、なんでもないっス」
煙草を探していたのだとも言えず、獄寺は口ごもる。
「そう?」
なにが気になるのか、怪訝そうに綱吉は獄寺の顔をじっと見つめている。
なにかうまい言い訳をしなければと気ばかりが焦り、獄寺にしては珍しくなかなか言葉が出てこない。
それ以上の詮索をする気はないのか、綱吉はニコリと笑うと獄寺を物陰へと連れて行く。ひと目を気にしているのか、綱吉はいつになくソワソワしているように見えた。
「十代目?」
獄寺が尋ねかけても、綱吉は無言でかぶりを振るばかりだ。しかし、なんでもないはずがなかった。こんなふうに綱吉が落ち着きをなくしているということは、きっとなにか……そう、獄寺には考えもつかないようななにかが、綱吉には感じられるのだろう。
「……なにか、ご用でも?」
そろそろと獄寺が口を開くと、綱吉はどこかしら居心地悪そうに頷いた。
「ちょっと……困ったことがあって……」
いつになく歯切れの悪い様子に、獄寺はドキッとした。
いったいなにがあったのだろうか? 綱吉はなにに、困っているのだろうか?
「困ったこと、ですか?」
尋ねると、綱吉は小さく頷く。
キョロキョロとあたりを見回し、人気のないことを確かめ確かめしながら綱吉は、焦らすようにゆっくりと口を開いた。
「実は……」
言いかけて、また口を噤む。
ジリジリとしながらも獄寺は、綱吉の言葉を待っている。
綱吉が困っているのならば、自分は手助けをしたい。彼のために、自分ができることならなんだってしたいと獄寺は思う。
「オレ、好きな人ができたんだ」
そう告げた綱吉は、何故だかとても困ったような顔をして獄寺を見上げた。
「はあ。好きな人……ですか」
この後、どう会話を繋げたらいいだろうか。
そんなことを考えながら獄寺は、綱吉の言葉を待つ。
綱吉はしかし、それ以上のことを獄寺には教えてくれなかった。
そのうちに山本がやってきて、いつもの調子で「球技大会が始まるぞ」と声をかけてくる。
獄寺も綱吉も、なんだかしっくりしない気持ちのままに校庭へと戻っていく。
ふと見上げた空は爽やかで、青く澄んでいた。
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