秋空に思う 2

  球技大会は散々だった。
  もちろん、綱吉の手前、手を抜くことはあっても最後まで気を抜くことはなく、最後まで授業を受けた。
  しかしただその場にいたというだけのことだ。
  綱吉に言われた言葉が胸にひっかかって、実のところ獄寺は球技大会どころではなかった。
  好きな人ができたと、綱吉はそう言った。
  ──笹川じゃねーのか?
  獄寺は怪訝そうに首を傾げる。
  獄寺が並盛にやってきた時には既に、綱吉は笹川京子のことを気にかけていた。あれが綱吉の憧れの女の子なのだと、獄寺はなんとはなしに思ったものだ。
  しかし今日の綱吉の言い方からすると、彼が好きになったのはその笹川ではないらしい。もちろん、三浦ハルでもクロームでもないだろう。
  それではいったい、綱吉は誰のことが好きになったのだろうか?
  獄寺の知らない、誰か──年上だろうか、それとも年下? 意表をついて男ということも考えられる。だとしたら、誰だろう。獄寺が知っている誰かだろうか? それとも、全然知らない誰かだろうか?
  そんなことを考えているうちに球技大会は呆気なく終わってしまい、下校時刻が近づいてくる。
  今日一日の記憶は朧気で、自分がいったいなにをしていたのか、獄寺はほとんど覚えていない。
  綱吉の好きな人が誰なのか、考えだしたらキリがない。
  気になって気になって、仕方がない。
  好きだから余計に気になるのだ。
  男女の恋愛感情と同じ気持ちを綱吉に対して持っているから、厄介でならない。
  はあ、と溜息をつくと獄寺は、空を振り仰いだ。
  秋晴れの空は高く、なかなか手が届きそうにない。
  まるで綱吉のようだと獄寺はぼんやりと考えた。



  下校の道すがら、獄寺の瞳は綱吉を追い続けている。
  球技大会が無事に終了し、晴れて実行委員のお役ご免となった山本も一緒だ。
  綱吉はいつもとかわらない。
  いつもと同じように山本と他愛のない会話で盛り上がっているところを見ると、この野球バカのことが綱吉の好きな人というわけでもなさそうだ。
  いったい誰のことが好きなのだろうかと、獄寺は考える。
  真っ先に対象外となった女性陣は横に置いて、綱吉の周囲にいる人間を考えてみる。
  まず山本は、消えた。親友のポジションを真っ先に確保した山本に対して、綱吉が恋愛感情を抱くわけがない。
  それなら……残る笹川了平、雲雀、骸はどうだろう。
  了平は違う。絶対に。あのがさつな男のことを、綱吉が好きになるわけがない。
  それでは雲雀はどうだろう。怖がっているように見えるものの、意外と綱吉は雲雀のことを頼りにしている。なにより、綱吉の兄貴分にあたるディーノと雲雀は仲がいいように思える。だが、やはり違うだろう。そんな色めいた雰囲気を雲雀と綱吉の二人から感じ取ることはついぞなかった。やはり気のせいだ。
  と、すると、骸……いや、こいつも違うだろうと獄寺は鼻で笑い飛ばした。この男だけは絶対にない。なんとなくだが、わかるのだ。綱吉がこの男のことを気にするのは、恋愛感情を持っているからではない。そうではなくて、友だちとして、或いは仲間として気にしているだけだ。
  じゃあ、いったい綱吉は誰のことが好きなのだと獄寺はまた、溜息をつく。
  少し遠くを見てみると、正一やスパナ、それに炎真、バジルもいる。白蘭はどうだろう?
  いや、それよりもユニはどうだろう。さっきは考えもしなかったが、もしかしたらやはり女の子がいいと、ユニに目がいっているのかもしれない。
  近くの存在よりも、遠くの存在のほうが美化されがちだ。
  もしかしたら綱吉も、そんなふうにユニのことを……いやいや、違うだろうと獄寺はブツブツと呟く。
  さっきから考えている誰にも綱吉は、恋愛感情を抱いてはいない。
  なんとなくだが、そんな気がする。
  そうではなくて、もっと別の誰か、もっと綱吉に近い場所にいる誰か……そう、ディーノやランボ、フゥ太のような……もっと近しい存在の誰かがいるはずだ。
  多分、右腕である獄寺以外の、誰かが──
  そう考えた途端、獄寺の気持ちがシュン、としぼんでいく。
  気の抜けた炭酸水のように、獄寺の気持ちはしおれてしまった。



  いつもの四つ角で、山本が「じゃあな!」と大きく手を振って別れていく。
  自分も、帰らなければ。
  いつまでも綱吉にくっついていても、迷惑なだけだろう。
「じゃあ、俺もここで」
  そう言って踵を返した途端、強い力で手を引かれた。咄嗟のことに体がついていかず、獄寺はよろめいてしまう。
「獄寺君!」
  ぎゅっと手を握りしめる綱吉の目が、うかがうように獄寺の顔を覗き込んでくる。
「あの……今日、さ。うち、晩ご飯サンマご飯なんだけど。獄寺君一人ぐらい増えたって、母さん気にしないと思うから、その……」
  ぼそぼそと告げる綱吉に、獄寺の心臓がドギマギと騒ぎ出す。
「……はい」
  頷いて、それからそっと目を伏せる。顔が熱かった。
「それじゃあ、お言葉に甘えてお邪魔することにします、十代目」
  つられて獄寺の声も、ボソボソと小さくなっていく。
  嬉しいのに恥ずかしくて、どこかしら決まりが悪いような感じがする。
「かっ……帰ろっか、それじゃあ!」
  裏返った声で綱吉が告げるのに、獄寺はニコリと笑みを返す。
  ひと目がないのをいいことに手を繋いで歩いた。
  ふと見上げた空はやっぱり高く、西の向こうのほうが夕焼けでオレンジ色に染まっていた。



  結局、沢田家の夕飯をデザートまでしっかりご馳走になった獄寺は、お礼がわりに綱吉に宿題を教えることになった。これではお礼にもならないと思うのだが、綱吉がそれで充分だと言うのだから仕方がない。
  チビたちが下の階で寝る準備をしているのを尻目に、綱吉の部屋で獄寺はテキストを手にしている。
「この問題が解ければ宿題は終わりですから、頑張ってください、十代目!」
  しんと静まり返った部屋に、シャープペンの芯の走る音だけが響いている。階下にいる人々は寝静まってしまったのだろう、今は物音ひとつ聞こえてこない。
「んー……」
  眉間に皺を寄せて、綱吉は問題と睨めっこをし始める。
  ああでもない、こうでもないと、いろいろ計算を試してはみるものの、どうも正解に辿り着くことができないでいるようだ。
「お教えしましょうか?」
  ウズウズとしながら獄寺が声をかける。
「ん……もうちょっと待って」
  気が強いのか、我が強いのか、それともやる気が出てきたのか、最近の綱吉は、すぐにへこたれることがなくなった。今もそうだ。これまでならすぐに弱音を吐いて獄寺に頼っていたのが、随分と進歩したと思う。
  やはりこの変化は、好きな人ができたからだろうか?
  これまでと違う一面を見せつけられると、好きな人ができたことが原因だろうかと考えてしまう。
  自分にはできなかったことをやり遂げた「誰か」に対して、嫉妬を抱いてしまいそうになる。
  自分がその「誰か」だったらよかったのにと、獄寺はぼんやりと考えた。
  綱吉はまだ、問題と格闘している。
  必死になって頭を悩ませて……こんな姿をさせる「誰か」の偉大さを、獄寺は思う。綱吉がこんなにしてまで頑張ろうと思う相手はいったい、誰だろう。
  自分ではその「誰か」にはなれないのが残念だ。
「ああ……」
  溜息をつくように、綱吉が小さく声をあげた。
「わかった!」
  不意にばっ、と顔を上げた綱吉は、目の前の獄寺に、嬉しそうに笑いかける。
「わかったよ、獄寺君! これって、こうだよね?」
  その表情に、ドキっとしてしまう。嬉しそうな、どこか誇らしげな目で真っ直ぐに見つめられ、獄寺はテキストを取り落としてしまいそうになる。
  言葉を返すことも忘れて獄寺は、綱吉の表情に見とれていた。



  やっぱり自分はこの人のことが好きなのだと、獄寺は改めて思う。
  好きすぎて、心臓がキリキリと痛くなるほどに、目の前のこの人が、好きでならない。
「十代目……」
  言いかけて、獄寺は口を噤んだ。
  告げてはならない。自分のこの気持ちは、やはり内に秘めておくべき種類のものだ。自分ごときのことで綱吉を煩わしてはならない。
  ぐっと唇を噛み締め、息を飲み込む。
  気持ちを切り替えようとするが、どうもうまくいきそうにない。
「十代目、あの……そろそろ休みませんか?」
  眠ってしまえばあれこれと悩む必要もなくなるだろうと思ったが、果たしてそううまくいくのだろうか?
  ちらりと綱吉の顔をうかがうと、彼は宿題が終わった解放感からか、ニコニコと笑っている。
「あ、そうだね。ごめんね獄寺君、遅くまでつき合わせちゃって」
  獄寺の邪な気持ちに綱吉は、気づいていないのだろうか。どうしてこんなに近くにいるのに、綱吉との距離が遠いような気がするのだろうか。
  遠くて、遠くて……どんなに頑張っても手が届かないような気になってしまう。
  こんなにモヤモヤとした気分のまま、ずっと綱吉の側にいなければならないのだろうか?
  いつまでこんな苦しい想いをしなければならないのだろうか?
  自分の気持ちが報われることはないとわかっていて尚、獄寺は笑い続けなければならない。苦しくて、やるせない気持ちで胸がいっぱいになってきては、キリキリと痛むのだ。
  どうしたらこの気持ちが報われるのだろうか?
「いえ、たいしたことないっスよ、十代目」
  なんでもない風を装って答えると、綱吉の手が伸びてきて、獄寺の髪に触れた。
「今日は、うちのシャンプーのにおいがしてる」
  そう言われて、獄寺の心臓がドキリと大きく鼓動を打つ。
  夕飯の後、獄寺はお客様扱いで一番風呂に入らせてもらった。とっくに髪は乾いていたが、沢田家のシャンプーを使ったものだから、においがいつもと違うのが少しだけ気になっていた。
「あの……すんません、お言葉に甘えてお借りしました」
「なんで? いきなり泊まっていくように言い出したのは母さんなんだから、獄寺君が気にすることないよ」
  言いながらも綱吉の手は、獄寺の髪を撫でている。
「不思議だね。獄寺君が使うと、いいにおいに思える」
  ほんの少し前まで、この人は手の届かない人かもしれないと思っていたというのに。それなのにこんなふうに言われると、期待してしまう。
  綱吉の気持ちがもしかしたら百万分の一の確率ででも自分のほうに向かないかと、甘い考えを持ってしまいそうだ。
  綱吉には、好きな人ができたばかりだというのに……。



(2011.11.12)
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