デパートの玩具売り場で、ふと沢田綱吉は嫌な気配を感じた。
首の後ろのあたりがピリピリとするような、そんな不快感がある。
顔をしかめ、ハヤトが後からついてきているのを確かめるため、振り返る。
五歳のハヤトは、好奇心旺盛な男の子、綱吉の元カノの弟だ。わけあって現在、綱吉が面倒を見ているが、それはそれは可愛い、年の離れた弟……いや、まるで息子のように綱吉は思っている。
「……ハヤト?」
恐る恐る名前を呼んでみた。
いないのだから、声が返ってくるはずがないことはわかっていた。それでも、呼ばずにはいられない。
「ハヤト!」
みっともないぐらい大きな声で名前を呼ぶが、ハヤトが姿を見せることはなかった。
慌てて綱吉は、玩具売り場をぐるっと一周してみた。いない。どこにも、ハヤトの姿はない。いったいどこへ行ってしまったのだろうか。勝手にひょこひょことあちこちへ行ってしまうようなことは今までなかった。迷子になったのではないのなら、誰かに連れて行かれてしまったのだろうか?
──どうしよう。どうしたらいいんだろう?
デパートの上から下まで探し回ってもハヤトの姿は見あたらなかった。
いったいどこへ行ってしまったのだろうかと、綱吉は深い溜息をつく。
もう一度、今度はもっと時間をかけて各フロアを見て回った。一回目は早足に見て回ったから見つからなかったのかもしれない。落ち着いてゆっくり探せばハヤトを見つけることができるだろう。そう思ったのも束の間のことだった。やはりハヤトの姿はどこにもない。
もしかして、可愛いから誘拐でもされてしまったのだろうか。いや、きっとそうだ。そうに違いない。柔らかな銀髪に、白い肌。アーモンド型の緑色の瞳はいつも表情豊かで、あんな可愛い子は滅多にいないだろう。幼い子どもが好きな人が、ふらりとハヤトを連れて行ってしまったと言ったとしても不思議はないような気もする。
もう一度、今度は階段を使ってデパートの下から順に上までハヤトの姿を求めて歩き回ったが、徒労に終わっただけだった。
ハヤトは、二年前に年の離れた姉のビアンキに連れられてイタリアからやって来た。
かつてビアンキは綱吉の年上の恋人だった。なかなかに情熱的で一途な恋人だったと綱吉は思う。残念ながら性格が合わずに半年と経たずに別れてしまったが、彼女に弟がいたとは綱吉も知らなかった。
ビアンキはと言えば、年の離れた弟を異国の地に連れてきた上で、ポイ、と放り出した。ある日いきなり綱吉の元にしばらく面倒を見てやってほしいと連れてきたのだ。当のビアンキはと言うと、イタリア人の恋人リボーンと蜜月の真っ最中だ。
別れた元カレに二年ものあいだ弟を押しつけておいて、なにが新婚生活だ、ざけんなよと綱吉は思う。
それにしても、どうしたものだろう。いったいハヤトはどこへ行ってしまったのだろうか。
はあぁ、と溜息をついた途端、館内放送の案内が流れた。
咄嗟に綱吉はピン、と背筋を伸ばし、全神経を耳に集中させる。
綱吉はじっとその場に立ち尽くした。
「お客様に迷子のお知らせをいたします。四階楽器売り場におられた、白のダウンジャケットを着た五歳のハヤト君をお預かりしています。ご家族の方は至急、五階インフォメーションセンターまでお越しください」
なんで四階に! 綱吉は口の中で呟いた。玩具売り場は七階だった。そこから四階まで、どうやって降りたのだろう。エレベーターで? それともエスカレーター? いや、階段かもしれない。誰かに連れて行ってもらったのだろうか。
急いで五階のインフォメーションセンターへ駆け込んだ。
「ハヤト!」
姿が見えないうちから名前を呼びながらインフォメーションセンターのバックヤードを覗き込むと、スツールに腰かけてジュースを飲んでいるハヤトの姿が目に入った。大人のスツールに座っているから、足をぶらぶらとさせて頼りなさげに見える。
「ハヤト!」
もう一度、名前を呼んだ。
パッと振り向いたハヤトの唇が、小さく「あ、ツーたん」と呟く。
「ハヤトくん、パパが来たよ」
落ち着いた雰囲気の女性スタッフに声をかけられたハヤトは持っていたジュースを机に置き、スツールから降ろしてもらった。
手を引いてもらっていたスタッフから逃げ出すように、ハヤトが駆け寄ってくる。
「ツーたん!」
無邪気に飛びついてくるハヤトに、少しだけ恐い顔をして綱吉が「探してたんだぞ、ハヤト」と声をかける。その途端、ハヤトの顔がふにゃりと歪み、大声で泣き出した。大粒の涙をポロポロと零しながら声をあげて泣くハヤトを連れ、綱吉はデパートを後にしたのだった。
家へ帰るとハヤトは、リビングのソファで早々に眠ってしまった。デパートでの一件で疲れてしまったのだろう。
微かな寝息を立てて眠るハヤトの上着を脱がせると、綱吉は溜息をつく。
ようやく安心することができた。小さなハヤトが自分の手元に戻ってきたのだと実感することができる。
「まったくもう……なんで四階なんかにいたんだよ」
呟き、ハヤトの頭をそっと撫でる。サラサラの銀髪から、ほんのりと花のような甘いにおいがしてくるようだ。
ビアンキとつき合っていた時には、こんなふうに安らいだ気持ちになることはなかった。 あの頃の自分は若かったのだと、綱吉は思う。刹那的で、感覚的な恋愛だった。今は違う。今は、彼女と別れて気持ちが駄目になってしまった。恋愛をするような気分ではない。だからハヤトのことが可愛くてしかたがない。子どもを可愛いと思う日がくるだろうとは、綱吉自身、思ってもいなかった。しかもハヤトは、自分の子どもではない。別れた元カノの弟だ。それなのにこんなにも可愛いと思うとは、自分の感情が不思議でならない。
眠るハヤトのふっくらとした頬を指先でつつくと、プニ、とした柔らかな感触がする。子ども特有の体温の高さと、もっちりとした感触と、きめ細かな張りのある肌。眺めているだけで、心が安らいでくる。
しばらくそうやってじっとハヤトの寝顔を見つめていた綱吉だったが、立ち上がり、買ってきた荷物に手をつけ始めた。
今日はハヤトの玩具を買いに行ったのだが、結局、服や食器などの生活用品以外にはこれと言って買わなかった。ハヤトがなにも欲しがらなかったのだ。唯一、小さなハヤトが興味を示したのが玩具のピアノだった。年齢的には少し幼すぎるような気もして買わずに帰ってきてしまったのだが、迷子になったハヤトが四階の楽器売り場にいたとなると、もしかしたら、と思わずにはいられない。
「ピアノかぁ……」
綱吉ははあ、と溜息をつく。
このマンションは、綱吉のものだ。これまでは一人暮らしの気楽な独身生活を謳歌していたが、ハヤトももう五歳だ。近所の子どもを見ると、皆、そろそろ習い事を始めている子もいるらしい。やりたいことをさせてやりたいとは思うが、綱吉は、ハヤトが好きなものをなにひとつとして知らないことに気づいた。
二年も一緒に暮らしていて、こんなにも自分はハヤトのことを知らなかったのだ。
今まで自分は、なにをしていたのだろう。ハヤトのなにを見ていたのだろう。
「明日、もう一度デパートに行ってみるかな」
ポツリと呟くと綱吉は、ハヤトをソファから抱き上げる。
静かに、そっと寝室へと運んでやった。
この気持ちはいったいなんだろうと、綱吉は思う。
恋ではない。
ビアンキに恋をしていた頃には、こんな風に相手になにかをしてあげたいとは思わなかった。お互いの気持ちをぶつけ合い、その時々で波長が合えばそれでよかった。その一方で、満たされないなにかを感じていたこともまた事実だ。
そうだ、今の自分は満たされているのだ。
日々、ハヤトの存在に癒され和み、充実している、幸せだと感じている。
「おやすみ、ハヤト。明日、一緒にピアノを見に行こうな」
小さく声をかけると、眠っていたはずのハヤトが一瞬、ニコリと笑った。夢を見ているのだろうか? だとしたら、きっと楽しい夢なのだろう。
ハヤトをベッドの中に押し込むと、綱吉は自分も中に潜り込む。
隣で眠る小さな子の体温はあたたかくて、それが綱吉をホッとさせた。
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