ツーたんとハヤト ふたたび 1

  どこか遠くのほうからピアノの音が聞こえてくる。
  恋人のビアンキが弾いているのだろうか?
「ん……」
  まだ眠い目をむりやり開けると、カーテン越しの朝の光に綱吉は顔をしかめた。
「……ピアノ?」
  覚束ない運指の曲は、ビアンキが好んでよく弾いていたものだ。だが、彼女はもうここにはいない。何年か前に綱吉は、ビアンキと別れている。彼女は、イタリア男のリボーンと衝動的に恋に落ち、現在はイタリアで恋愛を謳歌しているはずだ。
「ビアンキ……」
  彼女の名前を口にすると、苦い思い出が綱吉の記憶の中に蘇ってくる。愛していると思っていたビアンキとの別れ。信じていた者に裏切られ、傷ついた綱吉の側には、ビアンキの年の離れた弟であるハヤトが残された。彼女の恋を成就させるため、ハヤトは日本に置き去りにされてしまったのだ。
「ハヤト……」
  呟いて、綱吉はハッと我に返った。
  ベッドの上に飛び起きると、慌てて服を着替える。
  今日はハヤトの誕生日だ。のんびりとしている場合ではなかったのだと、綱吉は素早くクロゼットから衣服を取り出した。



  ハヤトが好きな淡いバニラ色のスーツを身につけた綱吉は、ピアノの置いてある遊戯室へと足を向ける。
  屋敷は広く、部屋は山とあった。
  道楽で綱吉の祖父が購入した屋敷だが、その祖父も今は他の屋敷に住んでいる。ここは綱吉が一人で住むには広すぎたが、ハヤトと二人で生活するにはちょうどいい広さだった。
「ハヤト?」
  遊戯室の手前のあたりから声をかけながら、廊下を歩いていく。
  ピアノの音がフッと途切れたかと思うと遊戯室のドアが勢いよく開き、中から小さな男の子が飛び出してきた。
「ツーたん!」
  銀色の髪のてっぺん、寝癖のようになった髪をぴょこん、と揺らしながらハヤトが駆けてくる。
「おはよう、ハヤト」
  綱吉が声をかけると、ハヤトは、まるで体当たりをするかのようにして飛びついてくる。
「ツーたん、おはよ」
  舌っ足らずの可愛らしい声でハヤトはそう言った。
  綱吉は子どもの脇に手を入れて難なく抱き上げる。ハヤトは小さな手で素早く綱吉の顔を捕らえ、さっと頬にキスをする。
「Buongiorno!」
  ハヤトのキスのお返しに、綱吉は小さくて形のいい鼻先にチュ、と唇を押し当ててやる。
「おはよう。よく眠れた?」
  尋ねると、ハヤトは嬉しそうに頷いて綱吉にしがみつく。
「お腹すいた」
  そう言うと同時に、ハヤトのお腹がぐぅー、と可愛らしく鳴った。
「ああ、朝食にしなきゃね」
  それからハヤトのための買い物だと、綱吉は頭の中で今日一日の予定をざっと組み立てる。
  食堂からは、美味しそうなにおいが漂ってきていた。家事は苦手だったから、通いの家政婦にある程度のことは頼んでいる。洗濯、掃除、それから食事の用意だ。ただしハヤトの面倒は、綱吉が自分で見ている。祖父の会社の仕事を手伝う綱吉は、ハヤトとの同居を決めると同時に在宅での仕事を回してもらうよう掛け合っている。だから最近はほとんど家の中、外出をするとしたら、ハヤトの用事で買い物に出かけるぐらいだ。
「お腹、すいた」
  綱吉にしがみついたままハヤトが言う。
「はいはい。今朝はなに食べる?」
「ビスコッティーニ、オレンジジュース、それからヨーグルト」
  ハヤトの言葉に綱吉は、笑みを浮かべる。
  元々ハヤトはビアンキと一緒でイタリアで育っている。コルネットやビスコッティーニのある朝食がハヤトは好きだが、ここは日本だ。少しずつ日本の朝食にも慣れてきている。残念ながら今朝はオムレツとトースト、サラダだ。ハヤトにはオレンジジュース、綱吉にはコーヒーを用意すると、それぞれ手にとって自分の席につく。
「オムレツだった」
  目を丸くしてハヤトが報告してくる姿があまりにも可愛らしくて、綱吉は声をあげて笑ってしまった。



  淡い緑色の瞳が丸く大きく見開かれ、じっと自分を見つめるのが愛しく感じられる。
  ビアンキでは得られなかった心の安らぎが目の前にあるのだと思うと、それだけで幸せに思えてくる。
「オムレツは嫌い?」
  尋ねると、ハヤトは首を横に振った。
「ううん、好き。ツーたんは?」
  言いながらハヤトは、オムレツとの格闘を始めたそうにしている。
「オレはオムレツも好きだけど、ハンバーグが食べたかったな」
「じゃあ、夕飯はハンバーグがいい!」
  ハヤトの言葉を急いで頭の隅にメモすると、綱吉は朝食にとりかかる。
  食事の後は、買い物だ。
  今日はハヤトの誕生日だから、できるだけ甘やかしてやりたい。
  周囲からは毎日のように甘やかしているのだから、いつも通りでいいのではないかと言われてしまったが、やはり誕生日なのだから特別甘やかしてやりたいと思う。
  幼くして母親と死別したハヤトは、仕事人間の父と気紛れな姉との生活を送ってきたらしいが、それではあまりにも可哀想すぎる。もっとあたたかな、人間味のある生活を教えてやることが今の綱吉にとっての使命のように思われて、ついつい構い過ぎてしまう感がする。
  ただ純粋に可愛くて、好きで好きで仕方がない。
  愛情も、もちろんある。
  子どもに対する父性愛とでも言うのだろうか、守ってやりたい、大切にしてやりたいという気持ちが綱吉の中では日に日に大きくなっていっている。
  ハヤトが大人になったらどんな青年になるだろうか。
  そればかりが今の綱吉の楽しみであり、最大の興味でもある。
「朝ご飯が終わったら、お出かけだよ、ハヤト」
  さりげなく声をかけると、ハヤトは目を輝かせて綱吉を見つめ返してくる。
  これだから保護者をやめられないのだと、綱吉はこっそりと思ったのだった。



  朝食後は、綱吉の運転する車でデパートまで出かける。
  プレゼントになにが欲しいのか、リサーチはとっくにすんでいる。ハヤトが欲しいものは、ネコのヌイグルミ、新しいピアノの楽譜、それに絵本だ。リサーチはしたが、最後までどれがいちばん欲しいものなのかがわからなかった。だからこれからデパートで実際にハヤトに選ばせるのだ。
  ビアンキの時には、光り物だった。高級そうなショップに足を運んで、彼女が欲しがるものをひとつだけ選ぶ。それからホテルのディナーに誘っていたものだ。ディナーの後は部屋に移動して、窓ガラスに映る夜景と、彼女の好きなカクテルで喉を潤しながら……
「ツーたん、ネコだよ」
  不意にハヤトの声が思考に割り込んできた。
  ハッと我に返った綱吉は、前方の道で仔猫が座り込んでいることに気づいた。
「わ、ちょ、あ……」
  轢いてしまう──!
  慌ててブレーキを踏むと、キイィ、と甲高い悲鳴をあげながらも車はどうにか停まってくれた。間一髪のところで仔猫を轢かずにすんだようだ。
「なんで道の真ん中に猫が!」
  この近辺の野良猫なら、こんな道の真ん中で座り込んでいるはずがない。やれやれと前髪を掻き上げながら綱吉は車を下りた。
  せっかくの外出日和だというのに、なんてことだ。
  先に車から出ていたハヤトが、路上の仔猫に手を伸ばしている。
「ハヤト、引っ掻かれるぞ」
  言いながら綱吉は、仔猫にそれだけの力がないことを見て取っていた。
  座っているのではない。動けないのだ。動くだけの力もなく、じっと座り込んでいる仔猫は薄汚れていた。痩せ細り、鳴くこともできずにじっとハヤトの動きを眺めている。
「ハヤト……」
  放っておこう。本当はそう言いたかった。
  関わると、ロクなことにならない。死にかけた猫の世話なんて、誰が好んでするというのだろうか。
  小さなハヤトの肩に手を置くと、パッと振り返り、淡いグリーンの瞳がじっと綱吉を見上げてきた。



「ツーたん、ネコ、座ってるよ」
  座っているのではなく、動くだけの力がないのだとは、言えなかった。
  もしかしたらこの仔猫はもう、生きる力も残っていないかもしれない。このまま置いておいたらきっと、そう遠くないうちに死んでしまうだろう。
「ええと……動物病院って、この近くにあったっけな……」
  ポソリと呟き、綱吉はあたりを見回した。
  ジャケットの内ポケットから携帯を取り出すと、知り合いにいくつか電話をかける。
  一人目は無理だったが、二人目が動物病院を知っていた。顔なじみの病院だからとすぐに連絡先を教えてもらうことができた。
「ハヤト。この仔猫は病気みたいだから、病院に連れていかないとダメなんだ」
「病気なの?」
  尋ねるハヤトは不安そうだ。
  仔猫に手を差し伸べたものの、触っていいのかどうか判断がつかず、そのままじっとしている。
「病院に連れていって、先生に診てもらわないとな」
  酷く弱っているように見えるけれど、もしかしたら助かるかもしれない。
「買い物は明日でもいい?」
  仔猫を抱き上げ、綱吉は尋ねた。地べたに膝をついたまま、ハヤトの目を覗き込む。
「……うん。ネコ、病院に連れていくの、一緒に行ってもいい?」
  心配そうにハヤトが尋ねるから、綱吉は大丈夫だよと微かに笑って返した。
「病院に行って先生に診てもらって……それから、どうするか考えることにしよう」






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