屋敷に戻るとハヤトはさっそく、自室の隅に仔猫用のタワーを置きたいと言い出した。
すっかり自分が世話をするつもりになっているようだ。
「お兄ちゃんになった気分でいるんだろ」
タワーを設置しながら綱吉は尋ねる。
考えてみれば、イタリアにいた頃のハヤトはおとなたちの中で生活をしていた。綱吉のところへ来てからは多少スキンシップの機会は多くなったかもしれないが、限られた空間で生活をしている。 だから、自分よりも幼く弱いものの面倒を見るのは、これが初めてのことになるのかもしれない。
「お兄ちゃん?」
不思議そうにハヤトは綱吉の言葉を繰り返す。
淡いグリーンの瞳がまん丸に見開かれ、それからポツリともう一度、同じ言葉を繰り返す。
「……お兄ちゃん」
「そう。お兄ちゃんだよ、ハヤト。瓜は弟かな? それとも、妹?」
「ん……と、わかんない」
そう返しながらもハヤトの顔は、嬉しいのを隠そうともしない。にこにこと笑みを浮かべて、ご機嫌な様子だ。
「じゃ、どっちでもいっか。それよりもお兄ちゃん、ちゃんと瓜の面倒見てあげるんだよ?」
タワーの位置を調節しながら綱吉は呟いた。三段タワーの真ん中は、トンネルになっている。瓜がここで元気よく遊ぶようになるにはまだもう少し時間が必要だろうが、そんなに長い時間はかからないだろう。ルッスーリアの見立てでは、瓜は捨てられて怯えきっていただけだから、あたたかな寝床と充分な餌さえあれば大丈夫だろうとのことだった。もちろん、弱ってもいたが、それ以上に怯えていたらしいとのことだが、綱吉はその言葉をどこまで信用すればいいのか判断しかねている。
それでも、ハヤトの笑顔を見ると大丈夫だろうという気持ちになってくる。きっとハヤトは、瓜のいいお兄ちゃんになるだろう。
「うん、ハヤトがちゃんと面倒見る!」
ハヤトの笑顔を間近で目にして、誕生日プレゼントを買いに行くのはしばらく延期だなと、綱吉はそんなふうに思った。
その日は通いの家政婦が腕によりをかけて用意してくれたハンバーグと、綱吉がこっそり用意しておいたイチゴのケーキでハヤトの誕生日をお祝いした。
大きくて真っ赤なイチゴに、ハヤトは目を輝かせて喜んでくれた。
瓜は眠っている。少し前に起き出したものの、いきなり景色がかわったからだろうか、怯えてハヤトのベッドの下に潜り込んでなかなか出てきてくれなかった。猫用の缶詰で半生タイプのものを半分だけ、トレーに乗せてタワーのいちばん下に置いておいた。お腹がすいていたのか、ハヤトと綱吉が部屋を出るとすぐにベッドの下から這い出てきて、あっという間に平らげてしまった。ミルクも少し。それからまた、ベッドの下に隠れてしまったのだが。
新しい環境に慣れるまで、瓜のことはそっとしておくことにした。
もちろん、世話はする。ハヤトが毎日の餌と水を替える。ルッスーリアの話では、生後六ヶ月を過ぎたぐらい、もしかしたら八ヶ月ぐらいではないかということだった。しばらくは仔猫用の餌と、栄養剤入りのミルクを与えることになる。
ケーキを平らげたハヤトはご機嫌だった。
明日、改めて誕生日のプレゼントを買い直しに行こうと綱吉が言うと、ハヤトはいらないと言った。
瓜がいるから、なにもいらないのだ、と。
そう言って返したハヤトの顔が不意にお兄ちゃんめいて見えて、綱吉はどこかしら寂しく感じた。
ビアンキに連れられてきた時のハヤトは、もういないのかもしれない。頼る人を捜して、縋りつくような寂しそうな目をしていた子どもは、今はもう、いない。
それだけ今のハヤトが幸せなのだから喜ばなければと思うのだが、もっと頼って欲しいとも綱吉は思う。
もしかしたら自分は、無い物ねだりをしているのかもしれない。
恋人だったビアンキには、最後まで頼られているという感じがしなかった。それは彼女が綱吉よりも年上だったからかもしれないし、そうではなく、単に二人の性格の問題かもしれない。
ハヤトとの生活は楽しかった。なにもかも頼られる生活からスタートし、少しずつ手がかからなくなり、頼られることがひとつずつ減っていく。それが綱吉には、寂しくてならないのだ。
依存しているなと、綱吉は自嘲めいた笑みをこっそりと口元に浮かべた。
今の綱吉は、ハヤトという存在がなければ生きていくこともできないような駄目な人間に成り下がっているのかもしれない。
夕飯の後は風呂に入って、寝るだけだ。
朝からのバタバタで疲れたのか、リビングのソファでハヤトはうとうとしかかっている。 「寝る前にお風呂に入ってしまうよ、ハヤト」
声をかけると、眠そうに目を擦りながらハヤトはノロノロと起きあがる。
「んー……」
ぐずりそうだな様子だったが泣き出すこともなく、ハヤトはバスルームへと足を向けた。少し、足取りがヨロヨロしているかもしれない。
「連れてってあげるから、起きてるんだぞ」
そう言って綱吉は、ハヤトを腕に抱き上げた。
「ツーたん、眠いよぅぅ」
舌っ足らずにハヤトが訴えてくる。
「はいはい。シャワーだけだから、我慢しな」
言いながらも、シャワーを浴びると目が覚めて、今度は眠れなくなってしまうかもしれないな、などと綱吉は思ってみる。
まあ、いいさ。口の中で呟くと綱吉は、甘いケーキのようなにおいのするハヤトの頬に軽くキスをした。
「シャワーを浴びたら、ベッドでゴロゴロしよう。もしかしたら瓜が遊びにくるかもしれないよ」
クリニックにいた間に瓜は、綺麗に体を洗ってもらってもいた。あのルッスリーリアとかいう獣医師は、随分と世話好きな男らしい。なにかあったらいつでも電話をしてくるようにと、クリニックを後にする綱吉に個人的な携帯番号の載った名刺を渡してきてもいた。個人的なお付き合いはあまりしたくはないが、ありがたいことだ。これで、猫についてなにかわからないことや困ったことがあれば、相談することのできる相手が一人はいることになる。しかも獣医だ。大船に乗った気でいられるのは、山本があのクリニックを紹介してくれたからだ。顔の広い山本のおかげで、今日は随分と助かった。日を改めて、山本には礼をしなければ。
ぬるめのシャワーをさっと浴びてバスルームから出ると、後はもう寝るだけだ。
パジャマを着込んでハヤトと二人で寝室へと向かう。
ハヤトの部屋は、綱吉の向かいの部屋だ。少し前からハヤトは自分の部屋で寝起きするようになっていた。それだけあの幼かった子どもが成長したのだと思うと嬉しいような、寂しいような複雑な気持ちになる。
ドアを開け、ハヤトの部屋をそっと覗くと、瓜がタワーの側に座り込んでいた。
「瓜!」
抑え気味に声をあげたハヤトだったが、綱吉がちらりと視線をやると、物問いたげに見上げてくる。
「Buona notte、ハヤト」
小さな背中に手を当てると、そっと部屋の中へと押し出してやる。
「Buona notte、ツーたん」
たどたどしく返すとハヤトは、足音をひそめて部屋へ歩を進める。
瓜はまだ、タワーの側だ。
じりじりとハヤトがベッドに近づくのを微笑ましく思いながら綱吉は、ドアを閉める。
「おやすみ、ハヤト。おやすみ、瓜」
明日もよい一日でありますように。
口の中でそう唱えて、綱吉は自室へと踵を返す。
ドアを開けるとあくびが出た。
朝からのバタバタで疲れているのはハヤトだけではなかったのだ。
しょぼつく目を擦りながら綱吉は、ベッドにゴロリと転がる。
すぐに眠りの波が押し寄せてきた。
「ん……」
ピアノの音が聞こえてくる。
耳に馴染んだたどたどしい運指の曲。ハヤトの好きな曲だ。
「ハヤト?」
目を開けると、いっそうピアノの音がはっきりと耳に感じられた。
いつの間にか朝になっていた。カーテン越しに差し込んでくる朝の日差しが柔らかだ。
いったい何時頃なのだろうとサイドボードの時計を確認する。七時半を少し過ぎたころだった。夕べは泥のように眠り込んでしまったが、そろそろ起きたほうがいいだろう。
ごそごそとベッドから起き出すと、綱吉は身支度を整える。
部屋を出ると、ハヤトの部屋のドアが少しだけ開いていた。中をちらりと覗き込むが、瓜の姿は見えなかった。昨日に引き続き、今日もまたベッドの下に隠れているのだろうか。
遊戯室のドアは開け放ってあった。だからいつもよりピアノの音が大きく聞こえたのだろう。
「Buongiorno、ハヤト」
声をかけると、ハヤトの手が止まる。
「にょおん!」
途端に、抗議するかのように甲高い声がソファのあたりから聞こえてくる。
「え?」
頭を巡らせて綱吉は、理解した。
ソファの上では、瓜が我が物顔で寝そべっていた。
昨日、瓜を見つけた時には薄汚れた茶色の猫だと思っていたが、そうではなかった。綱吉が買い出しに駆けずり回っている間にシャンプーをしてもらった瓜は、今は金色のフワフワとした仔猫特有の柔らかな毛を毛玉のように膨らせて、小さいながらも綱吉を精一杯威嚇しようとしている。よく見ると、金色の毛並みの中にちりばめられた黒い斑点が、まるで豹の毛皮の模様のように見えないでもない。
「よく眠れた?」
尋ねる綱吉へと、ハヤトが飛びついてくる。
「Buongiorno、ツーたん」
足下にしがみついてくる体を掬ようにして抱き上げる。すぐさま小さな手が綱吉の顔を捕らえ、素早く頬に派手な音を立ててキスをする。
「あのね、瓜に起こしてもらったよ」
耳元にそっと打ち明けてくるハヤトの吐息がくすぐったくて、綱吉は首を竦めた。甘い焼き菓子のようなにおいがするのは、ハヤトがまだ子どもだからだろうか?
こんな光景も悪くはないと、綱吉は思う。
ハヤトがいて、猫がいて、穏やかに朝が始まっていく。
「瓜と仲良くなれたんだね、ハヤト」
言いながら綱吉は、抱き上げたハヤトの顔に頬をすり寄せる。腕の中で子どもがキャッキャと嬉しそうに声をあげ、いっそう強い力で綱吉にしがみついてくる。
こんな一日の始まりを自分は、もうずっと長いこと待ち望んでいた。
幸せで、穏やかで、静かな朝を。
──ハヤトも瓜も、うちに来てくれてありがとう。
腕の中の子どものあたたかさと重さに、綱吉はいい知れないほどの幸せを感じたのだった。
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