ツーたんとハヤト よたび

  鼻先が冷たい。
  ここしばらく寒い日が続いているが、今朝は一段と寒いようだと、目をつぶったまま綱吉は布団の中に潜り込もうとする。ごそごそと動くと、すぐ隣に眠っていたハヤトの体に綱吉の腕が触れた。
「ん……」
  寝返りを打ったハヤトが、綱吉のほうへと体をすり寄せてくる。
  あたたかい。ほこほことした子ども特有の体温の高い体に、綱吉は頬を緩ませる。
  小さな体に腕を伸ばし、綱吉はそっとハヤトを抱きしめる。甘ったるい菓子のようなにおいがして、ついで綱吉の頬をさらさらとしたハヤトの銀髪がくすぐった。
  なんて可愛らしいのだろうと綱吉は思う。愛しくて、大切で……いつまでも腕の中に閉じこめておきたいと思わずにいられない。
  もちろん、綱吉とハヤトの間にはなんの血の繋がりもない。赤の他人だ。別れた年上の恋人のビアンキが、二年ほど前に綱吉のところへ連れてきて、以来ずっと一緒に住んでいる。幼い子どもの面倒見ているうちにいつの間にか情が湧き、父性愛のようなものが芽生えていた。
  こんな感情も悪くはないと、綱吉は自分でも思う。
  いつまでこうして二人で暮らしていけるのかはわからなかったが、だからこそ二人きりの生活を大切に過ごしていこう、一日ずつ大切に重ねていこうと綱吉は思っている。
  いつか、ハヤトの姉のビアンキが迎えに来ても、その時には笑って気持ちよくハヤトを送り出してやろうとさえ思っている。
  それほどまでに小さなハヤトのことを、綱吉は大切に思っているのだ。
  ハヤトの髪に鼻を寄せると、シャンプーの香りに混じって甘い焼き菓子のようなにおいがしていた。
  起きるにはまだ早いと、綱吉はもう一度、眠る体勢を取る。
  足のあたりに猫の瓜の重みを感じながら、綱吉は体の力を抜いた。
  すぐに二度目の眠りがやってきて、綱吉は意識を手放していた。



  目が覚めたのは、めくれ上がった布団のせいでひんやりとした空気が肩口から入り込んできていたからだ。
  気がつくとハヤトも瓜もいなかった。
  沢田家でいちばん早起きの瓜は、おそらく朝ご飯をねだるためにハヤトを起こしたのだろう。
「布団、めくっていかなくてもいいのに……」
  ブツブツとぼやきながら綱吉はベッドから起き出すと、服を着替える。
  休日だからゆっくり朝寝ができると思っていたのに、あてが外れてしまった。まいったなとでもいうかのようにポリポリと頭を掻きながら、綱吉は洗面所へと向かう。顔を洗ってすっきりしてからキッチンを覗くと、通いの家政婦が用意してくれた朝食がテーブルの上に並んでいた。瓜は、テーブルの下、ちょうどハヤトの足下のあたりに専用のトレーを置いてもらい、必死になってドライフードを囓っている最中だ。
「おはよう、ハヤト」
  声をかけると、テーブルについていたハヤトがパッと顔を上げ、綱吉に笑いかけてきた。
「Buongiorno、ツーたん」
  無邪気な笑みに、綱吉もつられるようにして笑みを返す。
「よく眠れた?」
  先に朝食を始めていたハヤトの髪をくしゃりと撫でて、綱吉は尋ねる。
「うん。瓜が起こしてくれたよ」
  やはりそうかと綱吉はわずかに肩を落とした。瓜のおかげで朝寝ができなかったのかと思うと、少し悔しいような気がしないでもない。
「朝食、おいしい?」
  気を取り直して自分の席についた綱吉は、朝食に手をつけようとする。
「Mangiamoって言ってないよ、ツーたん」
  フォークを手にしたところで、ハヤトに指摘されてしまった。こんな子どもに言われるなんてと苦笑しながらも綱吉は、両手を合わせ、「いただきます」と小さく呟く。
  二人で食べる朝食は、心がほっこりとなるようで幸せだった。



「あ……neve!」
  朝食後、しばらくしてからハヤトが小さく声をあげた。
  パタパタと窓際に駆け寄ったハヤトは、熱心に窓の向こうを眺めている。
  ソファに腰をおろして本を読んでいた綱吉がその声につられて顔を上げると、窓の外にちらちらと白いものが舞っていた。雪だ。
「やけに冷えると思ったら、雪が……」
  呟いて、綱吉も窓際へと寄っていく。
  小さなハヤトの体をそっと腕に抱き込んで、二人で窓の外の景色を眺める。
「きれいだねぇ」
  ほぅ、と、溜息をつくようにハヤトが言う。
「そうだね」
  ハヤトの銀髪に指を差し込み、優しく撫でながら綱吉は返した。
  幸せな時間は、あとどれぐらい残されているのだろうか。
  ハヤトと自分がこうして一緒にいられる時間は、二人でこんなふうに窓の外の景色を眺めることは、あとどのぐらいあるのだろうか。
「積もると思うかい?」
  ハヤトの耳元に尋ねかける。
  振り返るハヤトの目は、キラキラと輝いていた。
「積もるよ、きっと!」
  その力強い口調に綱吉は、思わず頷き返してしまう。
「うん……そうだね。積もるだろうね」
  積もればいいと、綱吉は強く願った。
  ハヤトと二人で、雪の積もった道を歩いてみたい。雪だるまを作ったり、雪玉を投げ合ったり……まだまだ、したいことはたくさんある。
  二人でひとつひとつ日々を重ねていって、いつか、ハヤトへの想いばかりでいっぱいになればいいと綱吉は思った。
  そうすればきっと、いつか別れの日が来たとしても後悔をすることはないだろう。



  雪はその日一日中、しんしんと降り続けた。
  部屋の中は空調がきいていたが、それでもひんやりとした空気が時折、どこかから入り込んできた。
「瓜が寒がっているから、ツーたんと一緒に寝ていい?」
  夜になって寝る時間がやってくると、そんなふうにハヤトが耳打ちをしてくる。
  本当はハヤトは子ども部屋で寝ることにしているのだが、こうも寒いと、少しぐらい甘やかしてもいいのではないかと思えてくる。
「いいよ。瓜もハヤトも一緒に部屋においで。一緒に寝よう」
  冬の間だけでも、こんなふうにして眠ってもいいかもしれない。ハヤトを甘やかすのではなくて、自分を甘やかすために。
  いつか来る別れの日を前にして、後悔しないでもすむように。
「おいで」
  声をかけると、すっかり寝る準備の整ったハヤトが、瓜を腕に抱えてパタパタと綱吉の足下に寄ってくる。駆け寄ってくる子どもの体をタイミングよくキャッチすると綱吉は、瓜ごとハヤトの体を腕に抱き上げた。
  視線が高くなったのが嬉しいのか、ハヤトはキャッキャと嬉しそうに綱吉にしがみついてくる。
「こら。暴れると落っことしちゃうだろ」
  そんな言葉に耳を傾けているのかいないのか、ハヤトはご機嫌な様子だ。
  部屋のドアを開け、また閉める。
  小さかったハヤトもこの間の秋に五歳になって、随分と大きくなった。ビアンキに連れて来られた日の小さくて頼りなげだった子どもが、今はもうこんなにも大きく成長したのだと思うと感慨深いものがある。
「とうちゃ〜く!」
  おどけて綱吉が声をかけると、ハヤトは楽しそうにクスクスと笑った。
  ベッドの上に下ろされたハヤトの腕の中からもぞもぞと抜け出した瓜は、さっと枕元に自分の居場所を決めたようだ。どっしりと腰をおろして毛繕いを始めている。
「それじゃあ、おやすみ、ハヤト」
「Buona notte、ツーたん」
  舌っ足らずな可愛らしい声が耳元でして、チュ、と頬にキスをされた。
  柔らかなハヤトの唇の感触に、綱吉の口元が自然と緩んでくる。
  幸せでない日など、どこにもない。
  ベッドに潜り込むと綱吉は、ハヤトの体を腕に抱いたままそっと目を閉じた。



  年末にビアンキがハヤトを連れて行ってから、綱吉はどこかしら不安定になっているようだった。
  自分でもそうと気づくほど、ハヤトの不在を怖れるようになっていた。
  自分はいったいいつの間に、こんなにもこの子どもの存在に依存してしまっていたのだろうか。
  ハヤトがいない間、綱吉は不安で不安でたまらなかった。寂しくて、悲しくて……それでもハヤトが血の繋がった家族と共にいることがいちばんの幸せだろうからと自分を押さえ込んでいたものの、気持ちはなかなか納得できないでいた。
  このままではいつか自分は、ハヤトの幸せよりも自分を優先してしまいそうだと綱吉は小さく苦笑する。
  心の底からハヤトの幸せを願っている。
  ハヤトが健やかに育ってくれればいいと思いながらも、離れてほしくないと思っている。
  矛盾しているなと思いながらも、そんなふうに考えるのをなかなかやめることができないでいる。
  もしかしたら、すっかり情が移ってしまったのかもしれない。
  最初は、強引に押しつけられた元カノの弟としか思っていなかった。自分で面倒を見ることもできないくせに、厄介なものを押しつけられたと思ったものだ。それが、一緒に暮らしていく中でハヤトの素直さや優しさをひとつひとつ見つけるにつれ、綱吉の気持ちも少しずつ変化していった。今ではもう、ハヤトは自分の家族としてなくてはならない人になっている。
  この先、もしもハヤトと別れることになったら自分はどうしたらいいのだろうと、最近は考えるようになった。
  あの、年末の騒動以来のことだが、決してあり得ないことではない。いつか、ビアンキでなくともハヤトの親にあたる人が、ハヤトと一緒に暮らしたいと言ってくる可能性もなくはないのだから。
  だからそれまでは、と、綱吉は思う。
  楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、ハヤトと一緒に経験しておきたい。
  二人で色んな経験を重ねて、ひとつでも多くの思いを胸にしまっておこうと綱吉は思った。
  そうしてまた、朝がくる。
  ハヤトと過ごす、大切な一日が──






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