動物病院に行くまでの車の中、ハヤトは膝に仔猫を抱いていた。まだ九月になったばかりだというのに震えて寒そうだからと猫をくるんだ綱吉のスーツジャケットは、あっという間に汚れてしまっていた。ハヤトの膝に抱き上げた途端、仔猫が粗相をしてしまったのだ。
「しばらくそのまま我慢してくれよ」
ジャケットの汚れた面をハヤトにも仔猫にも触れないように内側に返しながら綱吉は呟く。
ハヤトは黙って仔猫を抱きしめていた。
ハンドルを握る綱吉の手は、妙に緊張していた。
なんとか教えてもらった動物病院までたどり着くと、転がり込むようにして中に入る。
「すっ…すみません、先ほど連絡を入れた沢田ですが!」
声が震えてしまうのは、動物病院に足を踏み入れるのが初めてのことだったからだ。
建物はごく普で通、ルッス動物クリニックと書かれた看板にもおかしいところはなかった。しかしどこかしら奇妙な雰囲気がする。淡いピンク色で統一された内装、幼い子供向けではないかと思われるような飾りの数々、待合室の壁にかけられた掲示板には、治療を終えたペットと飼い主の写真が掲示されている。動物病院とはどこもこんな賑やかな感じなのだろうか?
側にハヤトがいることも忘れ、年甲斐もなくドギマギしながら受付で声をかけると、診察室から獣医と思しき男が出てきた。獣医にしてはやけに体格のいい男だが、髪型といい口調といいどこかしら女性ぽく、下品なけばけばしさを持っている。モヒカン崩れの髪は頭の右側に流しており、そのあまりにも獣医らしくない様子に背筋を嫌な汗が流れ落ちていくのを綱吉は感じた。
「あらぁ、あなたが沢田さん? さっきの電話の?」
小指を立ててくねくねとしなを作りながら尋ねてくる姿はおぞましかったが、ここがいいと親友の山本に勧められた手前、逃げ帰ることもできない。
「はい、オレが沢田です。電話で連絡したのはこの仔猫のことなんですが──」
男は、言いかけた綱吉の手からさっと仔猫を奪い取っていく。汚れたジャケットだけが突き出され、胸元に押しつけられた。
「診察室へは入ってもいいわよ。だけど、静かにね」
そう言うと男は投げキッスをひとつ、綱吉のほうへと寄越す。
その瞬間、綱吉の腕にさあ、と鳥肌が立った。
結局、診察室へは入らなかった。
獣医の外見があまりにも奇異に映ったからだろうか、ハヤトが中へ入ることを嫌がったのだ。
待合室で二人して、仔猫の診察が終わるのを待った。
不安そうな瞳で綱吉を見上げてくるハヤトは始終不安そうだった。この瞳だ…と、綱吉は思う。ビアンキに連れられたハヤトが初めて綱吉の部屋に来た時のことだ。姉に置いて行かれることをハヤトは、幼いながらも薄々感じ取っていたのかもしれない。大きな淡いグリーンの瞳でじっと綱吉を見つめていた。不安を隠そうともせず、しかしこの小さな子どもは自分の気持ちをとうとう最後まで口にすることはなかった。ビアンキが部屋を出ていくその瞬間までハヤトは、聞き分けのいい弟を演じていたのだ。
「ハヤト」
声をかけ、そっとハヤトを膝に引き上げる。
「ネコ、おうちどこなのかな」
綱吉の腕にしがみつくハヤトが、ポソリと呟いた。
あの猫に家なんてあるわけがない。あれが野良猫であることは一目瞭然だった。
「さあ。どこだろうね」
屋敷で飼うのはダメだと言いたかった。あの様子では、すぐに死んでしまうかもしれない。そんな状態の仔猫を飼うなんて、ダメだ。ハヤトが悲しむことになるのは目に見えている。
それなのに、こんなにも気にかかるのはどうしてだろう。
「ツーたん」
ぎゅう、と綱吉のシャツを握りしめるハヤトの手は小さかった。
それでも一生懸命、ハヤトは綱吉のシャツを握りしめている。
「うちに連れて帰っちゃダメ?」
うかがうように、膝の上のハヤトが綱吉を見上げてくる。
淡いグリーンの瞳は大きく見開かれ、綱吉の言葉を待っている。
捨てないでと、助けてあげてとハヤトの瞳が語りかけているような気がして、綱吉には返事をすることができなかった。
小さく呻いてハヤトの目を見つめ返す。目を逸らしたら負けだと、なんとはなしに思った。
「お待たせ」
くねくねと体をくねらせながら、男が診察室のドアを開けて顔を出してくる。
「ネコ!」
素早い身のこなしでハヤトが綱吉の膝から飛び降りた。
「ネコは?」
さっきは怖がって近寄りもしなかったというのに、男の側へ行って、仔猫の様子を確かめようとしている。
「大丈夫よ。あの子はちょっと、栄養が足りなかったのね。たっぷりミルクをやって、可愛がってあげればすぐによくなるわよ」
そう説明をしながらも小指を立てているのが気になって、ついつい綱吉はそちらのほうへと視線をやってしまう。
「このまま連れて帰るならお世話の仕方を説明するけれど、どうする? 日を改めて迎えにくるのなら、この後はお金の話に移りたいんだけれど」
にんまりと笑う獣医が、綱吉にはとても恐ろしいもののように見えてならない。
「や、あの……」
じりじりと後ずさろうとしたところで、ハヤトが言った。
「ツーたん、ネコ、連れて帰ろ? お家でお世話するから、お願い」
お願いと言いながらハヤトは丸い瞳をいっそう丸くして、綱吉を見上げてくる。
初めてのお願いだなと綱吉は、頭の隅でぼんやりと思う。ビアンキに連れられてやって来たハヤトは、滅多なことでは我が儘を言わなかった。今までは。自分の気持ちを押し通そうとして綱吉になにかをお願いすることなど、一度としてなかったように思う。
「猫……うちで飼うのか?」
飼えるだろうか?
人間の子ども一人育てるのですら右往左往しながらだというのに、この上、仔猫の世話までできるのだろうか?
「瓜って名前にする」
はにかみながら、ハヤトが言った。
「瓜……?」
「うん。ハヤト、ネコ好き。ツーたんは?」
尋ねられ、戸惑いながらも綱吉は頷いてしまう。ハヤトが望んでいるのなら、仕方がない。猫を飼うのもいいかもしれないと、綱吉は無理にでも思いこむことにする。
「で、どうするの?」
診察室の入り口で、獣医がくねくねと腰をくねらせ、二人の言葉を待っている。
「……連れて帰るので、飼い方と世話の仕方を教えてください」
不本意ながらも綱吉は、獣医に頭を下げた。
ペットを飼ったことのない綱吉にとって、目の前の男がどんなに異様な様相をしていようと、けばけばしいおカマだろうと、彼が獣医であることにかわりはなかった。仔猫の世話の仕方についてはエキスパートなのだ。気が進まなくとも訊くしかないだろう。
仕方なしに綱吉は、獣医の後について診察室へと入っていったのだった。
待合室にハヤトを残して綱吉は、単身ペットショップへと駆け込んだ。
とりあえず必要なものを買い揃え、急いでルッス動物クリニックへと戻ってくる。
ペットを飼ったことがないから、使うかどうかはわからなくても、必要最低限のものは一通り揃えておいたほうがいいだろうと思い、ペットショップであれこれ買い込んできた。
クリニックに戻ってきた時には時間は既に昼前だったが、その足でハヤトと仔猫を連れて綱吉は屋敷へと戻った。
ハヤトの膝の上で瓜はおとなしかった。
買ってきたばかりの猫用の毛布でくるんでやると、小さく喉を鳴らして眠ってしまった。お腹がいっぱいだから眠くなったのだとハヤトは言っていた。
綱吉が買い出しに行っている間、ハヤトはクリニックの待合室でじっとしていたわけではない。ルッスーリアという名の獣医師に、世話の仕方を教わっていたらしい。
仔猫と言っても、綱吉の目には成猫よりひと回りかふた回り小さい程度だ。弱っているために小さく見えるだけで、生まれたばかりの仔猫のように手間暇かけてやる必要もない。どうやらやんちゃな系統の猫らしいから、元気になったらそれはそれで悩みの種となるかもしれない。
「……はあ」
ハンドルを握りながら溜息をつくと、ハヤトがちらりと綱吉を見上げてきた。
「ツーたん、疲れた?」
気遣うようなハヤトの瞳に、綱吉は首を横に振った。
「考え事してたんだよ。ハヤトの買い物に行けなかったから、どうしよう、って」
本当なら、デパートでハヤトの誕生日プレゼントを買っていたはずなのにと綱吉は思う。 ネコのヌイグルミ、新しいピアノの楽譜、それに絵本。ハヤトに選ばせようと思っていたのに、それどころではなくなってしまった。
まさか猫を飼うことになるなんて。
できるだろうか? ハヤトを育てながら、猫を飼うなんてことが自分にできるのだろうか?
眉間に小さな皺を作ると綱吉は、無言で車を走らせ続けた。
屋敷はもう、すぐそこだ。
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