「くすぐる」
ジャーファルに頬をつつかれたのはまさに不意打ちだった。
狸寝入りを決め込んだシンドバッドがじっとしていると、軽く舌打ちをする音が聞こえてくる。
「……意気地なし」
拗ねたような声色でジャーファルが再び呟いた。
いったいどういう意味だろうか。
瞼を動かそうとしたら、今度は頬をギュッとつねられた。しばらく様子を窺ったほうがいいのかもしれないと、シンドバッドは眠ったふりを続けることにした。二度、三度と頬をつねられながらもじっと痛みをこらえてみる。
「そんなふうにごまかしてばかりだと、苦しくなりませんか?」
そう問いかけてくるジャーファルの声のほうが、苦しそうだ。
目を開けようとすると、ほっそりとしたジャーファルの指がつねっていた頬から離れ、今度は顔の輪郭を辿って喉元へと降りていく。
優しい指の感触だった。かつて触れられたことのあるどんな女よりも優しい触れ方だ。
こんなにも優しい手を、シンドバッドは他に知らない。
するりと顎の先を撫で上げられる感触に、ついうっかりとシンドバッドは笑ってしまった。
こらえきれなくなって手を伸ばし、ジャーファルの手首を掴みあげると、「くすぐったいだろう」とやんわりと咎めてみせる。
「やっぱり」
と、どこかホッとしたようにジャーファルは呟いた。
「起きてらしたんですね」
明るんできた空のおかげで、ジャーファルのそばかすの散った顔がはっきりと見える。いつになく穏やかな表情をしている。普段はピリピリとした空気を身に纏い、辛辣な言葉を突きつけてくるあの鬼の政務官殿が、だ。
ジャーファルの横顔を見ているだけで、シンドバッドは気持ちが満ち足りていくのを感じた。
一晩枕を共にすることができた。それだけで自分は幸せを感じている。
あまりにもささやかすぎて笑えるが、まだ自分の気持ちを伝えてもいないのによく同衾できたものだと思わずにはいられない。
「おはよう、ジャーファル」
声をかけると、ジャーファルははにかむように微笑んで「おはようございます」と返してくる。
「よく眠れたようですね、シン」
気を抜いた途端に、ジャーファルの腕はするりと自分の手の中から抜け出していった。男にしては華奢な、ほっそりとした手首だった。
「ああ。ジャーファルのおかげでぐっすり眠れたよ」
今も、昔も、かわらない。
こんなふうに何気なく言葉を交わすことができるのが嬉しい。共に朝を迎えられて、嬉しい。本音を言うと、身体を触れ合わせることができればもっと嬉しいのだが。
「本当ですか?」
尋ねながらジャーファルは、シンドバッドの顔を覗き込んでくる。
「おい、疑うのか?」
ひどいなあ、と笑いながら返すと、胸元のあたりをぐい、と掴まれた。
「ひどいのはそっちでしょう。あなたのおかげで私はこれっぽっちも眠れませんでしたけどね」
にこにこと笑みを浮かべながらジャーファルは言った。
「横になっている間、あなたの邪な気配がじわじわと背中越しに感じられました。何やらよからぬことを考えている時のようで、私は一晩中ほとんど眠れなかったのですよ」
やんわりと笑いながらもジャーファルのこめかみには青筋が浮いて見える。これは相当怒っているなと思った瞬間、力ずくで寝台に捩じ伏せられた。
「ジャーファル?」
体格差ではこちらのほうがそこそこ優っているはずだが、油断しているとすぐにこうだ。日頃どんなふうに加減しているのか知らないが、こういう時のジャーファルの力の入れ方は絶妙だ。
「休んでいる間、いったい何を考えていたのですか、シン」
そう尋ねてくるジャーファルの瞳は真剣そのもので、少しばかり殺気立っているような気もする。よく眠れなかったものだからきっと苛ついているのだろう。
「お前……ジャーファル、お前が──」
一瞬、正直に告げてしまってもいいものだろうかという迷いが、シンドバッドの脳裏を掠めていく。
告げればきっと、ジャーファルは困るだろう。
いや、もしかしたら……。
「ほら、また」
寝台に押さえ込まれたシンドバッドは、困ったように微かな笑みを浮かべた。
「……迷っているんだよ」
まだ覚悟が、足りない。ジャーファルに自分の気持ちを伝えるだけの覚悟が。
それに、気持ちを伝えた後のことを考えると、言い出しにくくもある。
「あなたらしくもない」
ふっと、ジャーファルの手が力を緩めた。シンドバッドを寝台に押さえ込んでいた手がそろそろと離れていった。
(2014.11.28)
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