「キスをする」
「ジャーファル?」
声をかけると、ジャーファルはむくれたような表情でシンドバッドを見下ろしてくる。
「今のあなたは腑抜けた阿呆だ」
そうはっきりと、ジャーファルは言い放った。
「あなたはもっと自分の気持ちに正直な人だと思っていました。何に怯えているのか知りませんが、言いたいことがあるならはっきり言えばいい」
きっ、と睨み付けてくる瞳は、まるで宝石のようにきらきらと輝いている。綺麗だとシンドバッドは思った。怒っている時のジャーファルは綺麗だ。穏やかな表情をしている時よりもずっといい。
「言ってもいいのか?」
手を伸ばすとシンドバッドは、おずおずとジャーファルの手に触れた。
「言わなければわからないでしょう」
即座に返され、シンドバッドはジャーファルの手に触れた自らの指先をピクンと震わせた。
吊り上がった目尻が色っぽい。
ピンと張り詰めたような空気も、このきつい目つきも、昔から好きだった。今のジャーファルにはないかつての鋭さをごく稀に見かけることがあるが、時と共にそれはいっそう危うげな美しさを醸し出すようになっていた。
「ああ……そうだな」
言わなければからないのは、当然だ。自分自身が、ジャーファルに知られないように気持ちを押し殺そうとしていたのだから。
シンドバッドを見下ろす真摯な眼差しが、真っ直ぐに見つめてくる。
これから自分が口にする言葉を期待しているようだ。
期待外れのことを口にするのでなければいいのだがと思いながら、シンドバッドは口を開く。
「あー……その、だな」
こんなに緊張したことはいまだかつてないようも思う。ただ好きだと告げるだけで、どうしてこんなにも緊張してしまうのだろう。いつもの自分らしくないなとシンドバッドは頭の隅で自嘲気味に考える。
「お前のことが好きなんだ」
どのくらい昔から好きだったのか、もう覚えてはいないけれど。確かに自分は、ジャーファルに対してずっと好意を抱いていた。仲間としての好意から、時を経てそれは恋愛感情の好意へとかわっていった。
何人もの女たちと夜を過ごし、遊びの恋をいくつもしたが、それでもジャーファルに対する想いは日に日に大きくなっていく。今もそうだ。こうして向き合っているだけで、ジャーファルに対する自分の気持ちが胸の中から溢れだしてきそうになる。
「それで?」
だからどうだと言うのですと、冷静に問いかけられた。
「それで何か、不都合がありますか?」
落ち着いたジャーファルの声はしかし、静かに怒っている。
これしきのことで迷うとはいったいどういうことかと暗に問いかけられているような感じがして、どことなく気まずい。
「いや、特には──」
不都合は、ない。たぶん。
ジャーファルの瞳を覗き込むと、ギロリと睨み付けられた。
「つまらないことでグダグダ悩んでいるなんて、本当にあなたらしくないですね」
はあぁ、とわざとらしく溜息をつきながらジャーファルは言った。
「……私がこれまでどんな気持ちであなたのお傍に仕えていたのか、そんなこともご存じなかったのですか?」
私も好きですと、ジャーファルの言葉が語っている。好きという言葉が出てこないのが、天邪鬼なジャーファルらしい。
「では……」
掴んだままだった手をくい、と引くと、自然とジャーファルの顔がシンドバッドのほうへと降りてきた。 互いの顔が近付いて、唇と唇とがそっと重なっていく。
少しかさついたジャーファルの唇がシンドバッドの唇を塞いだかと思うと、すぐに離れていく。
その瞬間、微かに甘い香りがしたように思うのは、気のせいだろうか。
「もう一度」
夢見心地に囁くと、ジャーファルはにこりと笑ってシンドバッドから離れていく。
「夜が明けます。あなたの部屋から朝帰りをするところを誰かに見られたくはありませんから、今日のところはここまでです」
「続きは?」
こんなキスひとつで満足できるわけがない。起き上がってジャーファルを捕まえようとすると、するりと身を躱された。
「続きは、また今度。月のない夜に、ここで」
ジャーファルは自分の唇をそっと指でなぞって、シンドバッドのほうへと思わせぶりに投げかけてくる。 「それでは、私は執務室へ参りますのでこれで」
そう告げたジャーファルは、そばかすの浮いた頬にそれはそれは綺麗な笑みを浮かべてから部屋を出ていった。
(2012.9.15)
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