星をおいかけて 1

  梅雨の合間の雲の向こうに、晴れ間が見えた。
  放課後の教室で、綱吉は窓の外の景色にふと目を留めた。
  何日かぶりの日差しに、綱吉は目をすっと細めて空を見上げる。開け放った窓から、湿度の少ないやんわりとした風が吹いてきて、頬に心地よく触れていく。
「やっと晴れたね」
  溜め息と共に、そんな呟きが口から洩れ出す。
  待ち望んでいた晴れ間が、綱吉は嬉しくてならない。
「それにしてもよく降りましたね」
  前の席に腰をおろしていた獄寺が、不満そうに告げる。
「うん。でも、もうそろそろ梅雨明けだって聞いたから、もうそんなに雨は降らないんじゃないかな」
  雨雲の切れ目に、青空が見えている。朝のニュースでも言っていた。今夜あたりから晴れ間が見えるようになるだろう、梅雨明けは間近だ、と。
  目に鮮やかな真っ青なスカイブルーの空が、雲の向こうに見え隠れしている。
「明日からは暑くなるかもね」
  そう綱吉が言うと、獄寺は小さくうめき声をあげて机に突っ伏した。
  雨は嫌だが、暑いのも苦手なのだ、この男は。
  小さく笑うと綱吉は、机に突っ伏したままの獄寺の髪をわしゃわしゃとかき乱す。
「そろそろ帰ろっか、獄寺君」
  期末テストが近いから、本当ならこんな時間まで学校に残っていてはいけないのだ。
  綱吉が席を立つと、獄寺も慌てて背筋をピンと伸ばし椅子から立ち上がる。
「お荷物、俺が持ちますよ、十代目」
  綱吉が鞄を持とうとすると、獄寺の手がさっとそれを奪っていく。
「帰りましょうか」
  満足げに微笑む獄寺に、綱吉は頷いた。



  校舎を後にすると、心地よい風が吹いていた。
  二人は肩を並べて歩きだす。
「うちに寄ってくよね」
  断定にも近い言い回しで、綱吉は尋ねる。
「はい。お邪魔でないのでしたら」
  水たまりに映る灰色の雲と、その向こうに覗く青い空。視線を上げて西のほうを見ると、地平線あたりは夕方の赤っぽい色をしている。
「晩ご飯、なんだろ」
  言外に、一緒に食べるよねと含みを込めて、綱吉は獄寺をちらりと見た。
「この間の天ぷらはイケましたね。大根おろしがきいてて、ウマかったっス」
  獄寺が言うのに、綱吉は「そうだね」と同意する。
  獄寺が手料理に飢えていることを綱吉は、知っている。幼い頃に母を亡くした獄寺が、家族の愛情を充分に与えられていないとは考えられないが、母の味が足りていないように思えるのは気のせいではないだろう。
  だから綱吉は、ことあるごとに獄寺を自宅に招く。母の手料理を、獄寺にも食べて欲しいと思ってのことだった。
「オレはハンバーグがいいな」
  子どもっぽいと笑われてもいい。好きなものを好きだと言ってどこが悪いのだと綱吉は思う。
  隣を歩いていた獄寺は大きく頷いて、綱吉に笑みを向けた。
「ですが、十代目のお母様の手料理なら俺は何だって好きっスよ」
「ズルいなあ」
  つい、綱吉の口からポロリと本音が飛び出してしまう。
「え……っと、やっぱダメっスかね」
  不安そうな表情をした獄寺が綱吉の顔を覗きこんでくるものだから、小さく吹き出してしまった。心配するようなことじゃないのに、と、綱吉は苦笑する。
「ゴメン。ちょっと言ってみただけ」
  そんなこと言ったら、母さん、獄寺君が好きだって言ったものならなんでも作っちゃうよ──そう、こっそりと胸の中でひとりごちる。
  ちょっとだけ悔しいなと思う。恋人としてつき合い始めた二人だが、獄寺が自分以外の誰かの話をすると、寂しいような悔しいような気持ちになることがあった。妬いているのだということに、すぐに綱吉は気がついた。獄寺が自分だけを見てくれないから、嫉妬しているのだ。
  綱吉の言葉がよくわからなかったのか、獄寺は不思議そうに首を傾げた。
「ほら、早く帰ろう」
  自分の気持ちを押しやるように、綱吉は告げた。
  さっと獄寺の手を取って、帰り道を急いだ。



  帰り道を歩いているうちに、雲が流れて晴れ間が広がっていた。
  わずかな時間の間に、こんなにもきれいに晴れ間が広がるとは思ってもいなかった。
  家に辿りつく頃には、空は夕焼け空でいっぱいになっていた。茜色が広がる空には、ところどころに雲の切れ端が浮かんでいるだけだ。
「晴れてよかったね」
  自分の我が儘で寄り道をさせているのに、雨の中、獄寺を家へ帰らせるのは忍びなかったから、綱吉はそう言った。
「はい!」
  獄寺の声が、耳に心地好い。
  繋いだ指先にきゅっと力を入れると、獄寺の指にもわずかながら力が加わった。握り返してくる指のあたたかさに、口元が緩みがちになる。
「時間があったらさ、宿題、教えてくれる?」
  わざとらしくない誘い文句としては、いちばん妥当なものだろう。ちらりと獄寺の顔に視線を向けると、彼は嬉しそうに頷いた。
「はい、もちろんです、十代目」



  それから二人で手を繋いだまま、綱吉の家まで歩いて帰った。
  早く帰ろうと言いながらも足取りがゆっくりになるのは、まだまだ手を繋いでいたいからだ。
  まだ、触れ合っていたい。指を絡め合ったまま、二人だけの時間に酔いしれていたい。
  ふと顔を上げると、道の向こうに家の影が見えてきた。
  小さく呻いて綱吉は立ち止まる。
「どうかしましたか、十代目」
  怪訝そうに尋ねる獄寺に、綱吉は苦笑を向けた。
「そろそろ手、離そうか」
  残念だけど、と綱吉は続けた。
  まだまだ手を繋いでいたかったのに、本当に残念だ。
  名残を惜しむように互いに手を解くと、寂しさが込み上げてくる。
「……俺、カレーでもいいっス、今日は」
  思い出したように獄寺が呟いた。
「ええー、じゃあオレは、エビフライ……かな」
  言って、顔を見合わせた二人は微笑み合った。
  小さな小さな幸福感に包まれて、二人は家までの短い距離を歩いた。



  夜になり、獄寺が「夜も遅いのでそろそろ……」と言い出すのを見計らって、綱吉は一緒に外へ出た。
  獄寺を送っていくという口実の元、コンビニへ駄菓子を買いにいくつもりだった。
「すっかり晴れましたね」
  ひんやりとした夜風の中で、獄寺が言う。
「ああ……そう言えばそうだね」
  明日からはきっと暑くなるだろう。もう夏はすぐそこまでやってきている。
  隣を歩く獄寺の手に、綱吉はそっと自分の手を伸ばした。
  コンビニ近くまでは、手を繋いで歩きたいと思ったのだ。
  指先が触れそうになる瞬間、獄寺が素早い動きで腕を上げた。
「あっ、十代目、流れ星っスよ!」
  ほら、あそこ、と獄寺が勢い込んで言うのに、綱吉は顔を上げた。
  こんな早い時間に流れ星が見えることなんてあるのだろうか。半信半疑で獄寺が指差すあたりを見ると、確かに白く微かな光が、尾を引いて流れていく。
「わ、あ……」
  瞬く間に消えていく、光の筋があまりにも儚く見えて、綱吉はほぅ、と溜息をついた。
「こんな時間に珍しいね」
  小さな小さな白い光が、夜空を流れ落ちていく。
  ひとつ、ふたつ……と数えていると、獄寺の拳が、綱吉の手の甲に当たった。
「こんな時間に珍しいってスね」
  夜空に見とれているのだろうか、獄寺は。うっとりとした声で話す獄寺の手を、綱吉はそっと握りしめる。
「……うん。オレ、この時間に流れ星を見るのって、初めてだよ」
  不意に、梅雨は明けたのだ、これからはもう夏なんだという気がした。
  ちらりと横目で獄寺を見ると、陶酔したような表情でじっと空を見上げている。流れ星は不規則な間隔をあけて、静かに空から零れ落ちていく。
  暗がりの中で、獄寺の唇がうっすらと開かれているのがわかった。
  ゴクリと唾を飲み込んでから綱吉は、自分より少し背の高い獄寺の唇に、そっと自分の唇を寄せていく。
  チュ、と音を立てて獄寺の唇を吸い上げた。
  柔らかくて、ふっくらと弾力のある唇は、微かに煙草の香がしていた。それから、獄寺の体臭だろうか、コロンとは違うほんのりと甘いにおいがして、綱吉の胸はツキンと小さく痛んだ。



1           
(2011.6.22)



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