『月の香り 1』
月の光に呼ばれたような気がして、部屋を出た。
雲のない、風の穏やかな夜のことだ。
船は静かに滑るように波の上を渡っていく。
空一面に散らばる無数の星を従えて、闇の中、青みがかった白い月が煌々と輝いている。
こんなにまで穏やかな夜の海を眺めていると、まるで揺りかごの中に守られているかのように感じられ、サンジはふと口元を微かに緩めた。
確かにそうかもしれない。
こんな夜は、ささくれて尖っていた気持ちまでもが優しくなって、まるで紗がかかったような感じでものが見えてくる。
ジャケットの内ポケットから煙草を取り出すとサンジは口へくわえ、火を点ける。
深く息を吸い込むと、香ばしい煙草の煙が肺へと流れ込んできた。
しばらくのあいだサンジは、煙草の香りと味を堪能しながら、ぼんやりと暗い海を眺めていた。
一服し終えたところでサンジがふと空を仰ぎ見ると、見張り台に人影がちらと見えた。
「あぁ?」
目を凝らした先には、青白い月の光を全身に浴びるゾロの姿があった。
今夜の不寝番はゾロだが、それにしても不寝番らしくない様子で、見張り台の手摺りに上がってどこか遠くを見ているようだ。
「何をやっているんだ?」
ぽそりと呟くと、サンジは見張り台へと続く梯子をよじ登り始める。
時折、なま暖かい風がそよそよと吹いてきて、すっかり生活の一部になってしまっている潮の香りが鼻先を掠めていく。
しばらくして見張り台に辿り着いたサンジだったが、尚もゾロは視線を宙に彷徨わせていた。いったい何を見ているのだろうか、彼は。そんな風に思いながらもサンジは、声をかけることができないでいる。
声をかけてしまうことで、この場を支配している、どこか張り詰めたような空気を壊してしまいそうだったから。
サンジは見張り台の中央を貫く柱に背をもたせかけると、その場に腰をおろして待った。
青白い月の光の中に、まるでゾロの姿が浮かび上がっているかのようだ。わざわざ手摺りに上がったゾロは片手を柱にのばし、体を支えている。じっと宙を凝視するゾロのその瞳はいったい何を見ているのだろうか。
サンジは柱にもたれたまま、煙草を取り出した。
火を点けようとしてふと視線を感じ、手を止める。
瞬きもせず、ゾロがじっとサンジを見ていた。
切れ長のゾロの目が、サンジの目と合うと同時につい、と逸らされる。
次の瞬間、ゾロは見張り台の床に軽やかに飛び降りた。
「こんな時間に何しに来た?」
サンジは火を点けようとしていた煙草をジャケットの内ポケットにしまい込むと、かわりに小さなステンレスのボトルを取り出した。
「あぁ? 未来の大剣豪サンに差し入れしちゃ、いけないのか?」
片方の眉をピクリと跳ね上げ、サンジは言い返した。
サンジがボトルを差し出すと、ゾロは躊躇うことなくそれを手に取った。蓋を開け、飲み口から中のにおいを嗅ぐ。途端、エチルアルコールの刺激臭が鼻をついた。
「なんだ、こりゃ……?」
ゾロが顔をしかめると、サンジはにやりと笑って肩を竦めた。
「この前、港に立ち寄った時にただ同然の値で仕入れたんだ。昔の密造酒だとさ」
飲むか? とサンジが目だけで尋ねかけると、ゾロは何も言わずにぐい、とボトルの中身を口に含む。
焼けるような刺激臭と共に、液体が喉を下りていく。ゴク、と喉を鳴らしてゾロは二口、三口と酒を煽り飲んだ。
「……不味くはないな」
ぽつりと呟いて、ボトルをサンジに突き返す。
「だろう?」
にやりと笑ってサンジは、ゾロを見上げる。普段、ほぼ同じ目の高さで互い見ている二人だったが、今夜は少し違った。床に座ったサンジがゾロを見上げると、青白い月光にゾロの横顔が照らされ、やけに艶めいて見えている。
思わずサンジは、じっとゾロを見つめていた。
すらりと通った鼻筋、エキゾチックな口元。何よりも、強い意志を秘めたその瞳。
「何ガン飛ばしてんだ、てめぇはよっ」
ぶっきらぼうにそう言うとゾロも同じように床にしゃがみ込み、サンジの目線にあわせて見つめ返す。
「差し入れだけが目的か?」
鋭い眼差しで問いかけられたサンジは、そこで言葉に詰まってしまった。
to be continued
(H15.7.27)
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