マンションの前に人影が見えた瞬間、綱吉は嫌な気配を感じた。首の後ろのあたりがピリピリとするような、そんな馴染みのある不快感に、顔をしかめる。
「ツーたん、どうかしたの?」
繋いだ手を通じて綱吉の動揺を素早く感じ取ったのか、ハヤトが怪訝そうに尋ねかけてきた。
すかさず綱吉は首を横に振った。
「いや、なんでもないよ、なんでも。気のせいだ」
自分に言い聞かすように呟いて、綱吉はマンションの入り口を潜ろうとした。
街灯に照らされた明るい通用口を通り抜け、玄関フロアに入ろうとする。
背後で影がゆらりと動くのが感じられた。
「──…ツナ!」
聞き慣れた懐かしい声に綱吉の心臓がドキドキと高鳴りだす。
落ち着いた低いトーンに、少しざらついたこの声は……。
「……ビアンキ?」
おそるおそる声をかけると、暗がりの中から影が一歩前へと進み出てくる。ビアンキだった。
「どうしてここへ?」
イタリアにいるとばかり思っていたのに、どうして日本に彼女がいるのだろうか。
「ハヤトに会いにきたのよ。私の可愛い弟、ハヤトに!」
そう言うとビアンキは、おもむろにハヤトを抱き上げた。
ビアンキは過去の人だと綱吉は思った。
今の自分にとって彼女は、単なる昔の恋人でしかない。今は、ハヤトがいる。ハヤトと暮らしているうちに、いつの間にか、昔の恋人のことなどどうでもよくなってしまっていたのだ。
「リボーンと一緒だとばかり思っていたよ」
やんわりと尋ねると、ビアンキは唇を噛み締めた。
「彼は……女よりも仕事に生きる男なの」
寂しそうに呟いた彼女は、腕の中のハヤトに頬ずりをする。ハヤトは顔をしかめてビアンキの腕の中から逃れようとした。
「おいで、ハヤト」
綱吉が手を差し伸べると、すぐにハヤトが手を伸ばしてきた。綱吉の腕の中へと逃げ込んでくる。
「こんなところで立ち話もなんだし、よかったら部屋へ……」
本当は、彼女を家に上げたくはなかった。綱吉とハヤトと瓜、二人と一匹のテリトリーへ、部外者である彼女を立ち入らせることに対して微かな抵抗を感じる。昔つきあっていたからと言って、そう簡単にテリトリーに侵入させてはならないと、綱吉の頭の隅で微かに警鐘が鳴っている。
「ありがとう、ツナ」
口元を緩めて、ビアンキは微笑んだ。
マンションの入り口を潜り、人気のないエレベータに乗り込む。三人とも黙ったままだ。 奇妙な緊張感が漂っていて、空気が重苦しい。ビアンキにいいように振り回されてしまうのではないかという不安が込み上げてきて、綱吉は不意に逃げ出したいような気持ちになった。
部屋のドアがパタン、と閉まる。
これで自分とハヤトは袋のネズミだと、何故だかそんなふにう綱吉は考えた。追うのはビアンキだ。彼女は優秀な狩猟猫で、小さな一介のネズミでしかない綱吉とハヤトを今まさに、その美しい牙にかけようとしているところだ。そんなイメージがふと頭の中に沸いてきて、綱吉は自嘲気味に苦笑するしかなかった。
「思ったよりも綺麗にしているのね」
部屋にあがった途端、ビアンキがポツリと言った。
「ああ……うん。通いの家政婦さんに来てもらっているから」
当たり障りのない会話を探しているような気がする。本題に入るのを、二人とも意識的に避けているような、そんな感じだ。
「コーヒーでも?」
リビングのソファを勧めると、ビアンキは待っていたかのようにさっと腰をおろした。これは長くなるかもしれないぞと、綱吉は覚悟を決める。
「いただくわ」
ハヤトをキッチンに追いやった綱吉は、先に夕飯を食べておくように声をかけた。ハヤトがキッチンへと足を向けると、どこからか姿を現した瓜がそそくさと後をついていく。瓜が一緒にいてくれてよかったと、綱吉はホッとする。
「それで……いったいどうして、日本に戻ってきたんだ?」
ビアンキは、イタリアでリボーンと幸せに暮らしているものとばかり思っていた。少し前に人づてに聞いた時も、まだまだ二人は蜜月の最中だという話だったはずだ。それなのに何故と、綱吉は思う。
「ハヤトのことが恋しくなってしまったのよ」
神妙な顔をしてビアンキは告げた。
「だって、世界でたった二人きりの姉と弟なのよ? わかるでしょう、ツナ」
そのたった二人きりの血縁者を、赤の他人に押しつけておいてよく言うよと綱吉は胸のうちで呟く。そう。本心ではふざけるなと思っているものの、それを口に出して言うことはできない。そんなことをしてしまえば、もしかしたらビアンキは、ハヤトを連れて行ってしまうかもしれない。
「大きくなったわね、あの子。それに、明るくなったわ」
ほんのわずかな時間、顔を合わせただけだというのに、そんなことが本当にわかるのだろうか? 姉弟だから?
綱吉は怪訝そうにビアンキの顔をちらりと盗み見た。
なにを考えているのかわからない無表情なビアンキは、やはり血が繋がっているからだろうか、目元や口元などはハヤトに似ていた。もっとも、性格は驚くほど違うのだが。
「この秋から保育園に通っているんだ。だから……」
「保育園? あの人見知りの激しい子が?」
そうだと頷くと、ビアンキは驚いたように目を見開いた。
しかし綱吉は、そう驚くことではないと思っていた。元々、ハヤトの引っ込み思案で人見知りの激しかった部分は、ビアンキの影響も多少なりともあったのではないかと思っている。ビアンキの自由奔放な性格を間近で見てきたハヤトだからこそ、引っ込み思案で人見知り、慎重に側にいる人を選ぶ性格になったのではないだろうか。
「……そう。かわったのね、あの子」
どことなく嬉しそうにひとりごちるとビアンキは、つい、と視線を綱吉から反らした。
──なにか、都合の悪いことがあるのだろうか?
ところで、と綱吉はソファに座り直すとビアンキの顔を覗き込んだ。
「てっきりイタリアにいるとばかり思っていたけれど、いったいぜんたい、どうしてここへ戻ってきたんだ?」
あまり聞きたい話ではなかったが、尋ねなければ話はきっと進まないだろう。
思い切って綱吉は尋ねてみた。
「ええ。実は……」
そう言うとビアンキは唇を軽く湿らせて、少女のように微笑んだ。
「ハヤトを……あの子を、イタリアへ連れて帰ろうと思うの」
リボーンとの生活はそれはそれは甘くて楽しい生活だが、ビアンキには少しだけ物足りなかったらしい。ハヤトという存在、いわばスパイスが、彼女にはどうしても必要なのだと言う。
「そんな……」
綱吉は小さく喘いだ。
「保育園へ通い始めたばかりなのに……」
それに、ピアノの練習だってあるし、瓜の世話だってある。そう綱吉が続けると、ビアンキはフフン、と小さく笑った。
「ピアノなんてイタリアでも習おうと思えば習うことができるわ。猫だって、ハヤトがどうしてもと言うのなら、向こうで気に入った猫を飼えばいい。だけどあの子はたった一人の弟なの。一緒に暮らしたいと思うのは姉として当然の気持ちだと思わない?」
そう言われてしまうと、綱吉としてはなにも言い返すことができなくなってしまう。
自分は、ハヤトとは血の繋がりはこれっぽっちもないのだから。
「ああ……そうだね」
同意することは簡単なことだ。
だけど、ハヤトと別れることはとても難しい。
自分はあの愛らしい天使のような子と離れて、果たして生きていくことができるのだろうか? これからはもう、ハヤトのあの無邪気な笑顔を見ることはできないのだ。そう思うと、自分の体の一部が切り離されて、どこか遠いところへ持っていかれてしまったような気になってしまう。
「……いつ、イタリアへ?」
声が掠れているのは、ハヤトと離れることが辛いからだ。
「明日。夜が明けたらすぐにでも」
ビアンキの声は容赦なく綱吉を追いつめていく。
「明日? 早すぎる!」
そんな急にハヤトがいなくなるだなんて、綱吉は考えてもいなかった。
「あの子のためよ」
そう言ったビアンキの表情は硬く、綱吉の言葉はこれっぽっちも聞き入れてもらえないように思われた。
「今夜は……」
恐る恐る綱吉が口を開くと、さらに追い討ちをかけるようにビアンキが宣言した。
「日本へはリボーンと二人で来ているの。言わなかった? 今夜は彼の泊まっているホテルに、ハヤトを連れて行くわ」
一瞬、綱吉の目の前が真っ暗になった。
幸せだと思っていた日常が、脆くも崩れ去っていく。
呆気ない日常の終わりに、綱吉は肩を落として項垂れた。
「じゃあ……ハヤトに用意をさせないと……」
自分には、ハヤトを引き止める権利はない。
血の繋がらない同居人でしかない自分には、ハヤトを手元に置いておく資格などこれっぽっちもないのだから。
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