ツーたんとハヤト みたび 4

  とうとうハヤトのいない正月を迎えることになった。
  寂しくて寂しくて、綱吉はたまらない。
  ここ数日、瓜は不機嫌だった。猫なりにハヤトの不在を感じ取ると、綱吉が不甲斐ないせいだとばかりに八つ当たりをしてくる。猫だと思って侮っていると、痛い目に遭うのだということを綱吉は知った。
  一人きりで聞く除夜の鐘は寂しく、始終胸が痛かった。ツキン、ツキン、と痛むのだ。
  あれ以来、ビアンキからもハヤトからもなんの連絡もない。
  元々、ビアンキとは別れてからそう連絡を取ることもしていなかった。しかしハヤトは……いや、あの子もやはり、自分の家族と一緒に暮らすほうが楽しいのだろう。
  赤の他人の自分が水を差すようなことをしてはいけない。
  イタリアでの生活は、きっと楽しいはずだ。なにしろ姉のビアンキがいてくれるのだから、あれやこれやと綱吉が心配することもないだろう。
  それにしても、寂しい。
  ハヤトと離れて暮らすことがこんなにも辛く、寂しいものだったとは思ってもいなかった。
  ある程度の覚悟をしていたとは言え、こうも胸が痛くなるものだとは考えもしなかった。
  ハヤトに会いたいと、綱吉は思う。
  ハヤトに会って、あの子の優しいにおいを嗅ぎたい。甘く柔らかな焼き菓子のようなにおい、ふわりとした頬、子どもらしい愛らしい笑い声。「ツーたん」と呼ぶ時の、あの舌っ足らずな声がたまらなく懐かしい。
「ハヤト……」
  帰ってきてほしいとは、綱吉のほうから言い出すことはできなかった。
  手放したのは、自分のほうだ。
  迎えに来たのがビアンキだったから自分は、ハヤトのためによかれと思って手放してしまった。
  ハヤトが望まない限りは、もう会うこともないだろう。
  溜息をついて、綱吉はベッドに潜り込む。
  除夜の鐘がひとつ音を響かせるごとに、胸が痛む。
  ハヤトとの思い出がひとつひとつ、剥ぎ取られていってしまうような気がして、綱吉は慌ててきつく目を閉じた。



  にょおん、と間延びした猫の声が耳元でする。
  ふん、ふん、と首のあたりを舐めてくるのがくすぐったくて、綱吉は瓜を追い払おうとした。
  もぞ、と手を動かすと、遊んでもらえるのかと勘違いしたのは、手の甲を軽く引っ掻かれる。
「……っ」
  小さく呻いて綱吉は、ケットの中に深く潜り込む。
  どうせ誰とも会う約束をしていないのだから、放っておいてくれ。そんな気持ちでもう一眠りしようと深く息を吸い込んだところで、呼び鈴が鳴った。
「あ……?」
  こんな日に、いったい誰だろう。
  今年は寝正月と決め込んでいたのにとぼやきながらも綱吉はベッドからノロノロと出た。
  床に脱ぎ捨てたままの昨日の服を着込むと、洗面所で顔だけは洗って玄関口へと出ていく。心当たりはない。
「はい?」
  ドアの覗き穴から外を見るが、誰もいない。
「悪戯……?」
  眉間に皺を寄せて、綱吉は部屋に戻ろうとした。
  と、踵を返したところでまたしても呼び鈴が鳴る。
  顔をしかめてドアチェーンを外すと、綱吉はドアをそっと開けてみる。
  誰もいないのに、自分はいったいなにをやっているのだろう。自嘲気味に溜息をついて綱吉は、ドアを閉めかける。
  パタン、と音を立ててドアが閉まる寸前、小さな声があがった。



「ツーたん!」
  一瞬、空耳かと綱吉は思った。
  こんなところにいるはずがない。
  ハヤトは今、イタリアでビアンキと共に暮らしているはずだ。
  そう思うものの、手が、閉めかけたドアをすんでの所でぐっと押さえて固まってしまう。
「……ハヤト?」
  恐る恐る、名前を呼んだ。
  もしかしたら自分は、夢を見ているのかもしれない。自分に都合のいい夢だ。ハヤトが並盛へと戻ってきて、自分と一緒に暮らしたいと告げる、自分勝手な夢だ。
  自分から手放しておいて、よくそんなことを考えられるものだ。
  なんて自分勝手なのだろう。
  しかしそんなことを思いながらも、ハヤトに対する未練はまだまだ強く残っている。
  手に力を入れてドアをゆっくりと押し開くと、今度こそ間違いなく、待ち続けていた人の顔があった。
「ハヤト……なんで、ここに?」
  言葉がうまく出てこないのは、びっくりしすぎたからだ。
  まさかハヤトが戻ってくるとは思ってもいなかったのだ。
「ツーたん、ただいま!」
  そう言ってハヤトは、綱吉の足下にしがみついてくる。
  素早くその小さな体を掬い上げてやる。ふわりと鼻先を、焼き菓子のような甘く優しいにおいが掠めていく。ハヤトのにおいだ。
  夢ではないのだと綱吉は思った。
  ハヤトが、自分の腕の中にいる。
  ぎゅうぎゅうと頭にしがみついてくる小さな腕の力が、とても愛しく感じられる。
「……おかえり、ハヤト」
  そう告げた綱吉の声は、微かに震えていた。



  リビングのソファにハヤトを下ろすと、早速に瓜がおかえりの挨拶にやって来た。
  尻尾を反らし気味にして、どこか気取った感じでやってくると瓜は、ハヤトのにおいを嗅いだ。
「ただいま、瓜」
  ハヤトの言葉がわかるのだろうか、瓜は嬉しそうに柔らかな頬に鼻先を押しつけた。
「にょおん!」
  一声鳴くと満足したのか瓜は、ハヤトからするりと体を離してソファの隅で丸くなる。
  ハヤトは瓜の頭や体を嬉しそうに撫でている。
  それにしても、いったい何故、ハヤトは戻ってきたのだろう。
  怪訝そうな綱吉の様子などお構いなしに、ハヤトはくつろいでいる。
  困ったなと綱吉は思った。ハヤトがどうしてここにいるのかがわからない以上、姉であるビアンキには連絡を入れておいたほうがいいように思われる。しかし、連絡をすることで彼女がハヤトを迎えに来るかもしれないと思うと、なかなか心が決まらない。
「どうしよう……」
  ポツリと呟くと、ハヤトが顔を上げた。
「ツーたん、どうしたの?」
  尋ねられ、どう返したらいいだろうかと考えこんだところで携帯の着信音が鳴り響いた。
「あ、携帯」
  そう言えば、綱吉の携帯は、ハヤトがこの家を出ていってからずっと行方不明のままだった。いったいどこで鳴っているのだろう。
「ツーたん、はい」
  ごそごそとソファのクッションの下を探っていたハヤトが、携帯を取り出してくる。
「あ……クッションの下?」
  ずっとそこにあったのかと、綱吉は思う。無意識のうちにクッションの上だかソファの上だかに携帯を投げだしたところへ、いつの間にかクッションが乗ってしまっていたのだろう。
  こんなところにあったのだと思うと、ホッとするやら腹立たしいやらで複雑な気持ちになってしまう。綱吉は受け取った携帯を操作して、電話に出た。
『…ツナ?』
  気怠げなビアンキの声が、携帯の向こう側から聞こえてくる。
「ビアンキ!」
  彼女は、ハヤトがここにいることを知っている。また、ハヤトを連れて行ってしまうのだろうか? 自分の手元からハヤトを奪って行くつもりなのだろうか、彼女は。
「珍しいね、ビアンキから電話だなんて」
  声が、震えそうになる。ハヤトがここにいることを悟られでもしたら、なにを言われるかわかったものではない。
  奥歯を噛み締めた綱吉は、受話器の向こうに意識を集中させた。



  受話器の向こうで、ビアンキが小さく笑うのが感じられた。
『帰ったのね、あの子』
  フフ、と笑う。その笑みが謎めいて魅力的に感じられたのは、もうずっと昔のことであるかのように思われる。
  綱吉は眉間に皺を寄せた。
『そんなに警戒しなくてもいいのよ。あの子が無事にあなたの元へ帰ったのかどうか、確かめたかっただけだから』
「どういう……?」
  言いかけた綱吉の言葉に、ビアンキの言葉が重なってきた。
『わたしはただ、あの子と新しい年の始まりを過ごしたかっただけ。一時のことなのにあなた、あの子のことで随分と心配したみたいね』
  どういうことだと、綱吉はますます眉間の皺を深くする。
『わたしもリボーンも最初から、ハヤトと過ごすのは年がかわるまでと決めていたの』
「聞いてないって!」
  そんなことは一言も聞いていない。
  あの時ビアンキは、それらしきことを一言でも口にしていただろうか? 素早く記憶の中を探ってみるが、綱吉にはこれっぽっちも思い当たらない。
  しかし、ここでビアンキを怒らしてもいいことはなにもないということもまた、綱吉は知っていた。
「……じゃあ、ハヤトはまた、ここへ?」
  尋ねると、受話器越しにビアンキの微かな笑い声が耳をくすぐった。
『ええ。だってハヤトはあなたの元で暮らすことを望んでいるのよ。それなのに無理に引き離すだなんて、可哀想すぎると思わない?』
  じゃあ、ここでまた一緒にハヤトと暮らすことができるのだと、綱吉は思った。自分と、ハヤトと、瓜と。綱吉は会社へ行って、ハヤトは保育園へ通って。帰ってきたら二人で食事をして、その日あったことを報告し合って。瓜と遊んで、ハヤトにピアノを弾いてもらって、自分はのんびりと仕事の残りを片づける。そんな穏やかな日を、また一緒に過ごすことができるのだ。
「ビアンキ……」
  言葉が、続かない。なにをどう告げればいいのかわからないぐらい、綱吉の頭の中が一瞬にして真っ白になっていく。
『お礼なんて言わなくていいわよ、ツナ。あの子の……ハヤトのためですもの』
  そう言ってビアンキは、電話を切った。
  ハヤトのため。もちろんそれが一番に考えなければならないことだろう。ビアンキにしろ、綱吉にしろ、ハヤトのことを第一に考えなければならない。あの幼子のためなら、自分はどんなことでもするだろう。なにがあってもきっと、ハヤトを優先するはずだ。
「電話、誰だった?」
  くい、くい、と綱吉の袖口を引っ張って、ハヤトが尋ねてくる。一瞬にして我に返った綱吉は、ハヤトを安心させるように口元に笑みを浮かべた。
「ビアンキからだったよ。ハヤトが無事にうちに着いたかどうかを確認するために電話をくれたんだ」
  言いながら綱吉は、胸の底からほわほわとしたあたたかなものが体の中に広がっていくのを感じていた。
  ああ、これが幸せだということなのだ。すぐそばにハヤトがいると、自分はそれだけで幸せを感じることができるのだ。
「ビアンキと一緒にいて、楽しかったかい?」
「うん! でもツーたんと一緒のほうが、もっと楽しいよ」
  そう言って笑ったハヤトのえくぼが、愛しくてならない。
  綱吉はハヤトの小さな体に腕を回すと、ぎゅっと抱きしめた。
「オレもだよ、ハヤト」
  耳元に囁きかけた綱吉の声は、自分でもみっともないと気づくぐらいに掠れ、震えていた。






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