ツーたんとハヤト みたび 3

  自分には、ハヤトを引き留める権利などなにひとつないのだ。
  綱吉は深い深い溜め息をひとつつくとビアンキから顔を背けた。
「オレは部屋にいるから、その間に……」
  言葉は続かなかったが、彼女はその続きを正しく受け止めた。
「ありがとう、ツナ」
  耳障りなビアンキの声がして、彼女の立ち上がる気配がする。耐えきれず、綱吉は寝室に駆け込んだ。
  パタン、とドアを閉め、背中をペタリとドアに押しつける。耳を塞ぎ、唇を噛み締め、きつく目を閉じる。
  ハヤトが行ってしまう。
「……ハヤト!」
  呻くようにその名前を口から押し出すと、鼻の奥がつんとなった。
  すぅ、と息を吸い込み、心の中でゆっくりと百まで数を数えた。
  その間にハヤトは行ってしまうだろう。姉であるビアンキが連れて行ってしまうのだ。自分の手の届かない場所へ。血の繋がりがある姉と一緒に、行ってしまう。綱吉には手の届かない、遠い遠い場所へ行ってしまうだろう。
  もう、ハヤトとは会えないのだ。
  胸の中で百数え、念のためにもう百だけ数えた。それから耳を塞いでいた手をノロノロとはずすと、ドアの向こうからカリカリというひっかくような音が聞こえてくる。瓜だ。
  自分にはまだ、瓜がいる。
  潜めていた息を大きく吐き出すと、我知らず嗚咽が洩れた。
  ハヤトが行ってしまったことと、瓜がそばにいてくれること、その両方に対して複雑な感情を綱吉は感じていた。
  その夜、綱吉は瓜をベッドに連れ込んで眠った。
  ハヤトの不在が耐えられなかったのだ。
  これからは毎晩、こんな夜が続くのだと思うとゾッとする。
  とうとう自分は一人きりになってしまった。恋人にはもう何年も前に捨てられている。今また、彼女に押しつけられた弟のハヤトは連れて行かれ、自分には猫の瓜しか残らなかった。
  瓜がいなかったなら、自分は完全にひとりぼっちになってしまうところだ。
  ああ、と呻いた声は苦しげで、重かった。
  ハヤトのいない部屋は寂しくて、冷たくて、居づらかった。
「ハヤト……」
  子ども特有のほこほことした体温が懐かしくてならない。
  どうしてビアンキは、今になってハヤトを連れて行ってしまったのだろう。
  残酷すぎる仕打ちだと、綱吉は唇を噛み締める。
  瓜も、ハヤトの不在に気づいたのだろう。寂しそうにニョォン、とひと鳴きすると、綱吉の顎の下のあたりに鼻先をすり寄せてくる。
  一人と一匹は身を寄せ合って眠った。



  翌朝は、もっと寂しかった。
  ハヤトの存在がないということは、明るくあたりを照らしていた太陽が急に姿を消してしまったようなそんな重苦しい感じにも似ている。
  目が覚めると綱吉は、真っ先にハヤトの部屋を覗いてみた。
  もちろん、ベッドが使われた形跡はなく、ハヤトの姿はどこにもなかった。マンションの部屋中を探して回り、ようやく自分一人なのだと認めるに至った。
「保育園に、連絡しないと……」
  ポツリと綱吉は呟く。
  ハル先生に、なんと言えばいいだろう。
  風邪をひいた? お腹をこわした? それとも、本当のことを……家族が迎えにきたから、もうここへ戻ってくることはないのだと、正直に言えばいいのだろうか?
  綱吉の頭の中で、様々なことがぐるぐると回り出す。
  どう、説明すればいいのだろう?
「山本……そうだ、山本に相談しよう」
  ポツリと呟いて、綱吉は携帯を探した。
  サイドボードに携帯はなく、スーツのポケットにも、通勤用の鞄の中にも入っていない。いったいどこへやってしまったのだろう。
  今度は、携帯を探して部屋中をぐるぐると歩き回った。キッチンのシンクやバスルームの浴槽の中を覗くに至ってようやく、自分のしていることがおかしいような気がしてきた。
  部屋に戻り、時間を見ると七時半、いつもなら保育園の送迎バスがやってくる頃だ。
「行かなきゃ……」
  ボソボソと呟いて、綱吉はマンションを出る。いつもの角のところに、保育園の送迎バスが停まっているのが見えている。
「ハル先生になんて言おう」
  この期に及んでもまだ、綱吉はそんなことを考えている。
  頭ではハヤトがいないことを理解していても、気持ちがついてきていないのだ。
  そうだ。本当は、ハヤトを手放したくなんてなかったのだ、自分は。
  たとえ血の繋がりがなかろうが、ハヤトとずっと一緒に暮らしたいと思っていた。本当の親子のように、家族のように、ずっと一緒にいたいと思っていたのだ。
「……ハヤト」
  ハヤトのいない生活なんて、考えられない。



  ノロノロとした足取りでバスのところまで行くと、ハル先生にハヤトがしばらく保育園をお休みをすることを話した。
  イタリアの実家へ帰っているので、戻ってきたらまた保育園に通わせたいという話を正直にしたのだ。
  声が震えていなかっただろうか、怪しまれなかっただろうかと後からあれこれ悩んだものの、その時は話をするだけで精一杯だった。
  マンションの部屋に戻った綱吉は、そこから先のことをあまりよく覚えていない。
  ぼんやりとしたまま会社へ出勤したものの、その日は一日中、仕事にならなかった。頭の中はハヤトのことでいっぱいだった。今、ハヤトはどうしているだろう。リボーンとはうまくやっているだろうか。ビアンキにはちゃんと面倒を見てもらっているだろうか。ついついそんなことを考えてしまう。
  血の繋がりもない自分には、口を挟む権限もないのが辛いところだ。
  ビアンキがハヤトを置いていってから、ずっと一緒に暮らしていたのは綱吉だというのに、だ。
  はあぁ、と綱吉が大きな溜息をつくと、途端に隣の席の雲雀がわざとらしく咳払いをした。不機嫌そうに眉間に皺を寄せて、綱吉をギロリと睨みつけてくる。
「君……もうちょっと真面目に仕事したら?」
  抑揚のない声で注意をされ、綱吉は慌ててピシッと背筋を伸ばした。
「そんな態度で席に座っていられると、まわりの人のモチベーションまで下がってしまう」
  言われてみればその通りだと綱吉も思う。こんなふうに心ここにあらずといった状態で席にいるのは、周囲にも迷惑だろう。
「そうだな」
  と、横から口を挟んできたのは了平だ。
「そんなんじゃ、今日は営業に出ても成果があがらんかもしれないな」
「はあ……」
  わかってはいるが、じゃあ、どうしたら綱吉の沈んだ気持ちが浮上するというのだろうか。
  困ったように綱吉が了平と雲雀、二人の顔を見比べる。
「沢田、今日はもう、あがれ」
  腕組みをした了平が、はっきりと告げた。
「え、でも……」
  綱吉が言いかけるのを、雲雀が素早く遮った。
「そうだね、僕もそのほうがいいと思うよ」
  そんなに迷惑を周囲にかけているのだろうか、自分は。
  二人の言葉に押されるようにして綱吉は、早々に会社を後にした。
  とは言え、自宅に戻ったところでハヤトがいるわけでもなく、寂しさが募るばかりだということはわかりきったことだった。
  ハヤトに会いたい。
  たった一晩、離れていただけだというのに、もう自分は、ハヤトのことが恋しくて仕方がなくなっている。
  子ども特有の高い体温をこの腕に感じたかった。焼き菓子みたいな甘くて優しいにおいをかいで、ぎゅっとしがみつかれ、抱きしめたい。少し舌っ足らずな口調で、「ツーたん」と呼ばれたい。
  マンションまでの道のりをノロノロと歩いていくと、ハヤトぐらいの歳の子を連れた母親とすれ違った。母親に手を引かれた子をじっと見ていると、ハヤトの手を引いて歩く自分の姿が目に浮かぶようだ。
  新年は、ハヤトと二人で近所の神社へお参りに行こうと思っていたが、それも叶わなかった。せっかくハヤトのために着物を用意したのにと、綱吉は唇を噛み締める。
  戻ってきてほしいと思うのは、いけないことだろうか?
  ようやく姉弟水入らずで暮らすことができるようになったのだから、本当ならば自分は、笑ってハヤトを送り出してやらなければならなかったのではないだろうか?
  自身のことばかりを考えて、ハヤトのことを考えてやらなかった自分は、保護者失格ではないだろうか。
  そうだ、きっとそうなのだ。自分が保護者失格だったから、ハヤトは行ってしまったのだ。
  だからビアンキ……実の姉との生活に、戻ってしまったのかもしれない。
「ハヤト……」
  呟いて、綱吉はふと立ち止まった。
  今さら悔やんでも遅いだろうが、ハヤトのことを自分は、第一に考えてやっていただろうか?
  ビアンキ以上に家族のようにハヤトに接していたつもりでいたが、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。ハヤトが戻ってこない以上、確かめる術もないことだが、自分に非があったのかもしれない。保護者としての自覚が足りていなかったのだろう、きっと。
  はあぁ、と、今日、何度目になるかわからない溜息をつくと綱吉は、マンションのドアを開けた。
  中に入ると、玄関口に瓜が座り込んでいた。
  じっと綱吉の顔を見つめてくる瓜の目が、怖かった。
  どうしてハヤトがいなくなったのだと責められているような気がして、綱吉はそっと瓜の視線から逃れるようにして顔を背けたのだった。






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