春遠く1

  身を切るような冷たさの風が吹き付けてきて、春霞はぶるりと体を震わせた。
  安穏とした現代の日々の暮らしに慣れた体には、ここの空気はなかなか馴染めそうにもない。
  どんよりとした薄暗い空を見上げると、今にも落ちてきそうなほど重苦しく立ち込めた雲の狭間から、ゆらゆらと白いものが零れてきている。
「ここもじきに戦場になる。移動するぞ、春霞」
  少年めいた外見の割に落ち着いた雰囲気の薬研藤四郎が声をかけてきた。
  春霞は背後を振り返ると、口の中に溜まった唾をごくりと飲み込む。
  薬研の向こう側、遠くのほうで、後に残してきた本丸が燃えていた。
  激しい猛火に包まれて、本丸がゆっくりと崩れていく姿が春霞の目に映る。
「……薬研」
  知らず知らずのうちに唇が震えていた。
「本丸が……」
  掠れた声でそう呟いた春霞の体から力が抜けていきそうになる。
「捨ててきた場所を振り返るんじゃねえ。前を向くんだ、春霞」
  感情のこもらない薬研の言葉に、春霞は顔を上げた。菫色の薬研の目を覗きこみ、そこにある種の苦悩のようなものを見いだす。
「あそこにいたら、ただじゃすまなかったぜ、大将」
  薬研に「大将」と声をかけられて春霞は思わず顔をしかめていた。
  自分は確かに審神者と言われる存在だが、「大将」と呼ばれるような立派な行いをしたわけではない。愚かにも大事な本丸に自分以外の他人を招き入れ、初期刀を失ってしまった。すべて自分に人を見る目がなかったからだ。
「でも……」
  それでもあの本丸にいると、心が安らいだ。
  陸奥守と薬研、それに春霞の三人だけのおままごとのような本丸だったが、心から楽しむことができた。ここが自分のいるべき場所なのだと思うことができた。
「あそこにお前さんの居場所はなかった。平穏すらなかった。誰かに奪われた場所にいつまでもしがみついていても、仕方がないだろう」
  ん? と菫色の瞳に顔を覗き込まれて、春霞は口ごもる。
  薬研の言うとおりだった。
  あの場所をいつまでも懐かしんでばかりいるわけにはいかない。
  奪われた本丸に春霞の居場所はなく、春霞ではなく叡拓の手によって新たに鍛刀される刀剣は、異形のものばかりだった。
  その姿はまるで……と、ここまで考えて春霞は大きく頭を横に振った。そんなことがあるわけがない。歴史修正主義者や検非違使たちを、審神者の手で作り出すことができるなど、あるわけがない。あってはならない。
「行こう、大将」
  力強い薬研の声に、春霞は顔をあげた。
  舞い降りる雪の中で立ち止まっていても、体は冷えていくばかりだ。
「そうね、薬研」
  憂いばかりが胸の中には溜まっていくが、立ち止まってはいられなかった。
「行きましょう」
  強い口調でそう言った春霞の背中を薬研はばん、と大きく叩いた。
「頼もしいねぇ、さすがは俺っちの大将だ!」



  どんよりと曇った寒空の下、本丸を焼け出された審神者はたった一本の短刀を伴って布由の国を後にした。
  逃げ出さなければならなかったのは、春霞の持つ審神者としての力が弱かったからだ。
  自分の進む方向をただまっすぐにぎっと睨み、春霞は歩き続けた。
  振り返ったら、泣いてしまいそうだった。
  ほんのわずかな時間しかそこにはいなかったけれど、陸奥守と薬研の二人に守られて、春霞はこの布由の国で審神者としての責任を果たそうとした。とまれ、何もできないままに追われることとなったのだが。
  降りだした雪は次第に勢いを強め、いつしか足下は真っ白になっていた。歩きにくい上に、しばらく前からはすっかり濡れそぼり足先の感覚すらない。
  言葉を交わすような気分ではなかったから、時折、雪に足をとられてもたつく以外は二人とも言葉もなくただ黙々と歩き続けた。
  どこへ向かっているのか、春霞には分からなかった。おそらく薬研には、自分たちの向かっている先がわかっているのだろう。
  遠く向こうのほうで燃えていた本丸も、今はもうすっかり見えなくなっていた。ただ、山の向こうのほうで微かに黒煙が上がっているのが見えるばかりだ。
  寒いという感覚すらわからなくなってきたところで、ようやく新たな山を越えなければならないことを春霞は知った。
  薬研は黙って先を歩いていく。
  春霞は喘ぐように大きく溜め息をついた。
  山道は積雪のせいで足元が悪く、草履を履いた足は泥だらけになっていた。足袋の下には小さな傷がいっぱいできており、一足歩くごとに潰れかけたマメが擦れて新たな血を滲ませる。
「もう少しだ、歩けるか?」
  不意に薬研が振り返り、尋ねかけてくる。
「……うん」
  一瞬、何を尋ねられたのか春霞にはわからなかった。
  頷いてからゆっくりと薬研の言葉を頭の中で反芻してみる。目的地が近付いてきているのだろう。こんな山深いところにいったい何があるのだろう。
  立ち枯れた草の茎を押しやり、最後には獣道を進んでようやく山を降りた。
  飲まず食わずの強行軍に、春霞はすっかり疲れ果ててしまっていた。
  よろよろと雪の中を進むばかりの春霞を励ますでもなく、薬研は前を歩いている。すらりと伸びた背中が憎らしいほどだ。
「薬研……薬研、待って!」
  とうとう春霞は声をあげ、立ち止まった。
  もう、これ以上は一歩も歩けない。
  むすっと頬を膨らせて、春霞は薬研を睨み付けた。
「どうした、春霞」
  少し距離をおいて立ち止まった薬研は、少しも疲れてはいないように見える。自分よりも少しばかり背が低く、幼いように見えるこの少年のほうが体力があることが信じられなかった。自分だって、審神者としてこの世界に来るまではそこそこ体力があるほうだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
「疲れたの」
  春霞の声は怒っていた。
  行先すらわからないままに歩き続けるのは、もう嫌だった。
  逃げなければならないことはわかっていたが、わからないままに歩き続けるのは辛すぎる。
「疲れた? じゃあ、おぶってやるよ」
  そう言うと薬研はしっかりとした足取りで春霞のすぐそばまで戻ってきた。
  それから春霞のほうへ背を向けると、すっと身を屈める。
「さあ、乗りな。馬みたいに乗り心地がいいわけじゃないけれど、少しはマシだろ」
  そうじゃないのに、と春霞は思った。おぶってもらいたいわけではない。この先のことを春霞は知りたかった。薬研が知っているのならば、のことだが。
「隣の国じゃあ、審神者が行方知れずになって随分と経つらしい。元からいる刀剣男士だけでなく、自分の本丸を失った刀剣男士たちが何人も集まってきているって聞くから、交渉次第では匿ってもらえるかもしれない。もうしばらく頑張ってくれよ、大将」
  春霞の思いに気付いたのか、薬研がそう告げた。
  背中を向けたままだから表情まではわからなかった。今、薬研はどんな顔をしているのだろう。春霞は唇をぎっ、と噛み締めると、薬研の肩にそっと手を置いた。
「あたし……薬研が思ってるより重いわよ、きっと」
  そう言って少しだけ体重をかけてみる。
「大丈夫だよ、大将。短刀とは言え、俺っちだって刀剣男士なんだからな」
  見くびってもらっちゃ困るな、と薬研は微かに笑った。
  薬研の優しい声に、春霞は鼻の奥がつん、と痛くなるのを感じた。
「じゃあ、遠慮しないから」
  薬研の背に体重を預けると、あたたかかった。
  痛む足を引きずりながら歩くよりはずっと楽だし、安心することができる。まだ、自分を支えてくれる者がいるのだと思うと、ホッとした。
「……隣の国って、どんなところ?」
  春霞は声をかけた。薬研の歩みに合わせて、春霞の体も揺れる。声が震えていることには気付かれなかっただろうか。
「さあ。俺っちも風の噂で聞いた程度だからな」
  薬研は言葉を濁した。
  審神者のいなくなった本丸とは、いったいどんな様子をしているのだろう。春霞には想像もつかなかった。叡拓という審神者がいても荒廃の一途を辿るばかりだったことを知っている春霞には、審神者のいない本丸も似たり寄ったりのような気がした。きっと、荒れ果てた本丸に刀剣男士たちが集まってきているのだろう。まるで野良猫か野良犬のように。
  陸奥はいるのかな──ぽそりと、胸の内で春霞は自分自身に問いかけた。
  自分を守って死んでいった陸奥は、最後まで叡拓が春霞のかわりに審神者となることを拒んでいた。本丸が悪しきものに支配されてしまうと、懸念を抱いていた。
  その通りになってしまったのは、陸奥を失った翌日のことだった。
  春霞は薬研と共に奥座敷に閉じ込められ、見張りを付けられた。
  それから……叡拓の鍛刀を手伝わされ、幾振もの異形のものを作り出す行為に関わることとなってしまった。
  あんなおぞましいことは、もう二度とごめんだった。
  この手はきっと、穢れてしまっているに違いないと春霞は思う。
  刀剣男士たちを鍛刀すべき自分の手が、清らかなものではなくなってしまったのだと思うと悲しくて辛かった。もしかしたら今後は刀剣男士の鍛刀をすることもできなくなってしまうかもしれないと思うとゾッとしないではいられなかった。
  薬研の背中に額を押し付けた春霞は深く息を吸い込んだ。
  布由の国の冷たい空気と雪のにおいが、ゆっくりと遠ざかっていくような感じがする。薬研が一足進むごとに、遠く離れていく。
「……陸奥に、また会えるかな」
  ポソリと呟くと、薬研の背中がわずかに震えた。
「どうだろうな」
  薬研には答えられないことだった。



(2015.7.25)


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