春遠く7

  あっという間に日々が過ぎた。
  あの秘密会議の日から数えてもう十日になる。
  宣言した通りに鍛刀をする日がやってきてしまった。
  早すぎる、と春霞は思う。
  時間の過ぎるのが思っていたよりも早かった。
  いまだ全刀剣男士の手入れが終わったわけではなく──残るは次郎太刀と加州の二人だけだ──戦に出すにも遠征に出すにも準備万端というわけにはいかなかった。
  それでも少しずつ風は暖かくなってきて、あたりの様子を見るとそこここに冬の終わりが感じられる。
  この波留の本丸も少しずつ変わってきていると、春霞は信じたかった。
「よお、春霞。今日の鍛刀頑張れよ」
  朝餉の時に、そんなふうに同田貫から声をかけられた。嬉しくもあったが、精神的な重圧を感じて春霞は小さく呻いた。
  鍛刀なんて、できることならやりたくはない。だが、長谷部をはじめ他の刀剣男士たちの前で宣言してしまったからにはやり遂げなければならない。
  はあ、と小さく溜息をつくと春霞は、そそくさと広間を後にする。
  誰とも顔を合わさないように自室に辿り着くと春霞は、ホッと肩の力を抜いた。
  初めて鍛刀をした時には、陸奥がそばについてくれていた。薬研が顕現するまでにはそう時間はかからなかったのを覚えている。だが、何もかもが初めての春霞には、とてつもなく時間がかかったように思えたものだ。
  その後は叡拓に命じられるままに鍛刀の手伝いを繰り返した。異形のものを作り出すための鍛刀は嫌だったし、心が痛んだ。今でもこの手が汚れてしまっているのではないかと思う時がある。こんな手で、ちゃんと鍛刀ができるかどうかもあやしいものだ。
  それでも、しなければならない。
  これは審神者である自分に課せられた責務なのだ。
「春霞」
  不意に声がかかった。
  縁側の向こうから声をかけてきたのは、薬研だ。
「今日の鍛刀、嫌なら辞めてもいいんだぞ?」
  顔を見せないのは、思うところがあるからだろうか。
  ともかく、春霞にしてみれば薬研の顔を見ないですんでよかった。顔を見ればきっと、鍛刀をしたくないと泣き言を口にしてしまいそうな状態だった。だから、これでいいのだと春霞は思う。
「やる」
  嫌でも何でも、今日は一人でしなければならない。
  薬研を顕現させた時のように陸奥にそばにいてもらうことはできない。かと言って薬研がいれば自分は甘えてしまうだろうから、それは避けなければならない。
「一人で、やるから」
  これは、春霞が一人きりでやり遂げなければならないことなのだ。
「大丈夫よ。それより薬研は今日は戦場に出るのでしょう?」
  布由の本丸では実戦を経験する前に叡拓が乗り込んできたから、ほとんど初めてに近い状態で薬研は出陣することになる。どちらかと言うとそちらのほうが気がかりだ。
「ああ。俺っちも少しずつ錬度を上げてかなきゃならねえからな」
  これからのこともあるし、と薬研がふっと微かな笑いを洩らした。
「そうね。あたしたち、お互いに強くなっていかなきゃね」
  薬研は、刀剣男士として。春霞は審神者として、それぞれ少しずつ錬度を上げていかなけはればならない。これから先のことを考えると、特に。
「じゃあ、行ってくる」
  そう言って薬研は、春霞の部屋から離れた。
  遠ざかっていく足音がしっかりと響き、頼もしく思える。
「気を付けてね!」
  声をかけたが、薬研に聞こえたのかどうかは春霞にはわからなかった。



  鍛錬所の戸を引くと、中はいつも通り片付いていた。長谷部が、いつでも鍛刀ができるように整えてくれているのだということがすぐにわかる。
  中に入ると春霞は、深呼吸をした。
  目を閉じると微かな風の音が聞こえてくる。明かり取りの窓の向こうで囀っているのは何の鳥だろう。風はまだ少し冷たいが、陽射しは日に日に春めいてきている。この波留の本丸にも、春がくる日は近いのかもしれない。
  目を開けると、鍛錬所のすぐ外に御手杵がいた。戸口のところからひょっこり頭を覗かせて、中の様子を確かめていたらしい。
「御手杵さん」
  声をかけると、どこか決まり悪そうに御手杵はぎこちない笑みを浮かべた。
「鍛刀、頑張れよ」
  そう言って御手杵は、ひらひらと手を振る。
「ありがとう、御手杵さん。頑張るね」
  重圧がさらに増えたような気がするが、それが逆に心地良くも感じられる。春霞は手元の資材と道具に視線を走らせると、もう一度深呼吸をした。
「あれ、薬研は? いないのか?」
  次に表から聞こえてきたのは、愛染国俊の声だ。
「いないわよ」
  聞こえるように春霞が返してやると、今度は短刀たちが鍛錬所を覗き込んでくる。
「薬研なら、今日は朝から戦場に出てるわよ」
  春霞が鍛刀をする時に薬研が近くにいないように、二人で長谷部に頼み込んで予定を組んでもらったのだ。
  薬研がいると、どうしても甘えてしまいそうな自分がいた。ぎりぎりのところで鍛刀をしたくないと何もかもを放り出してしまいそうな自分がいて、今も春霞に鍛刀を思い止まらそうとしている。だから、薬研はいないほうがいいのだ。
「もう、怖くないの?」
  いつの間にそばにきたのか、小夜が尋ねてくる。
「怖いけど、いつまでも怖がってばかりじゃいられないからね」
  そう言って春霞は苦笑した。
「じゃあ、僕たちとおんなじだね」
「え?」
  春霞は怪訝そうに小夜を見おろした。
  少し難しそうな表情をして、小夜は春霞を見つめ返してきている。
「僕たちだって、怖いんだよ」
  人の器を持って生きていくのが──そう聞こえたような気がしたが、小夜はそれ以上は何も言わずに鍛錬所を出て行ってしまった。

          ※※※

  一人きりで鍛刀をするのがこんなに大変なことだとは、春霞は思ってもいなかった。
  初めての時は陸奥がそばについていてくれたし、その後はずっと叡拓の手伝いをしていたに過ぎない。
  最初から最後まで一人きりで鍛刀をするのは、まったくの初めてなのだ。本来は近侍がそばについてくれるものだが、今日はそれすらも断っていた。だから春霞は、今日の近侍が誰なのかも知らない。近侍が誰かを知ろうとするだけの気持ちの余裕さえなかったのだ。
  時間が過ぎるのも忘れて春霞は資材を選り分け、鍛刀に集中した。
  無我夢中で作業に熱中するあまり、額からだらだらと汗を垂らしていることにすら気が付いていなかった。
  無意識のうちに額の汗を手の甲で拭ってから春霞は、そこでようやく自分が汗だくになっていたことを知った。
  それでも鍛刀は続けなければならない。
  手を休めることなく作業を繰り返し、全て終わった時にはその場に立っていることすら辛くてたまらなかった。精根尽きたとは、こういうことを言うのではないだろうか。
  よろよろと戸を開けると、鍛錬所の前の縁側に御手杵と同田貫の二人が座り込んでいた。
「結構時間がかかるもんなんだな」
  ぶっきらぼうな口調で同田貫が言う。
「これだけ時間がかかったんだ、幸先がいいかもな。それにしても、どんな奴がやってきたかな」
  御手杵がニヤニヤと口元に笑みを浮かべる。
「つ……疲れたぁ……」
  へなへなと縁側に座り込む春霞を見て、二人が両側から慌てて手を差し伸べてきた。
「中はどうなってんだ?」
  おいおい、と呆れたように同田貫が鍛錬所を覗き込む。
  鍛刀は終わったが、春霞はまだ、自分の成果を確かめていなかった。見るのが怖くて、最後は鍛錬所から半分逃げ出したような状態だったのだ。
「こいつは……」
  中を覗き込んだまま、同田貫の動きが止まる。
「どうしたんだ?」
  そう言って御手杵も鍛錬所の内側を覗きこみかけて、そのまま声を失った。
  春霞は怖いのと疲れていたのとで、もうこれっぽっちも動くことができなかった。
  じっと、二人の声がかかるのを待つ。
  怒られるだろうか、呆れられるだろうか。それともやはり失敗だったのだろうか。
  恐る恐る顔を上げると、鍛錬所の奥から人影が出てきた。入口に立つと、春霞をじっと見つめてくる。
  少し冷めたような瞳に、小柄な体格。背にした大太刀は緩やかな曲線を描いている。
「蛍丸、推参!」
  幼い顔立ちをしているというのに、にこりと笑うと瞳がしたたかに煌めく。
「……こりゃ、大物の予感だな」
  同田貫の呟きが、春霞の耳に入ってきた。
「鍛刀……できたぁ……」
  言いながら春霞の視界がふにゃりと歪んでいく。
「ちゃんと鍛刀できたな、春霞ちゃん」
  そう言って御手杵は、春霞の腕を支えて立ち上がらせてくれる。
  よろよろと立ち上がった春霞は、泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔をして、蛍丸へと視線を向けた。
  これでひとまず、長谷部との約束は果たすことができた。
「ようこそ、蛍丸。波留の本丸はあなたを歓迎します」
  微かに震える声でそう告げると春霞は、手を差し伸べた。
  察しのいい蛍丸は同じように手を差し伸べてきて、春霞の手を掴んだ。
  互いに手を握り合う。春霞の手は汗ばんでじっとりとしてたが、蛍丸は気にならないのか、ニコリと笑いかけてきた。
「真打登場ってね」
  蛍丸の瞳の奥が、茶目っ気たっぷりに光を放つ。
「来てくれてありがとう、蛍丸。御手杵さんと同田貫くんに、本丸の案内をしてもらうといいわ」
  そう返すのがやっとだった。
  春霞の言葉に頷いた蛍丸は、二人の刀剣男士を伴って本丸の探検に出かけた。
  遠ざかっていく三人の姿を見ながら春霞は、無事に鍛刀ができたことを嬉しく思った。
  自分の手は、汚れていなかった。自分のように異形のものを作り出していても、ちゃんと鍛刀ができたのだ。こんなに嬉しいことはない。
  今この場に陸奥がいてくれたならもっと嬉しかったのにと春霞は、詮無いことを考える。薬研とはずっと一緒だし仲がいいが、やはり初期刀だった陸奥は春霞にとって特別な存在だった。おそらく陸奥のような存在には、二度と出会えないのではないかと春霞は思っている。
「お見事でしたね」
  ふと見ると、縁側の少し奥まったところに長谷部が立っていた。
  気が付かなかったが、もしかしたらさっきから一部始終をずっと見られていたのだろうか。
「は…長谷部さん……」
  誤魔化すように引きつった笑いを浮かべた春霞に、長谷部は「お疲れ様でした」と頭を下げてくる。
「正直なところ俺は、貴女が鍛刀するのを嫌がって逃げ出すのではないかと思っていました」
  最後の最後まで、春霞が逃げ出すのではないかと長谷部は疑ってたらしい。
「それで、見張りを置いたの?」
  そうは思いたくなかったが、もしかして同田貫と御手杵、二人の見張りを鍛錬所の外に待機させていたのだろうか、長谷部は。
「いえ。あの二人ではありません。俺自身が見張ればいいことでしたから」
「……そっか」
  まだ自分が信用されていないのだということは、理解できる。
  来たばかりだということと、さんざん鍛刀を嫌がってたから、仕方がないのかもしれない。だがそんなふうに思われていることが辛くもある。
「何にしても、今夜の秘密会議では貴女を追及せずにすみそうでホッとしました」
  意地の悪い言葉を長谷部は口にした。
  今夜、二回目の秘密会議が春霞の部屋で開かれる。
  鍛刀の結果報告と、こんのすけの持って帰ってきた情報の確認作業をしなければならない。それ以外にもやるべきことは山のように積み上がってる。
  急いで、しかし慎重に動かなければならない。
「この間と同じ時間、同じ顔触れですね」
  刺々しく春霞が告げると、長谷部はちょっとだけ笑った。
  どうして笑うのだろう。春霞はムッとして長谷部を睨み付けた。
「やるべきことは心得ております」
  嫌になるぐらい馬鹿丁寧な仕草で長谷部が頭を下げる。わざと春霞を怒らせようとしてるのだろうか。
  春霞は何も言わずに長谷部に背を向けた。
  今は自室へ戻ってゆっくり休みたかった。



(2015.8.4)


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