さらに鍛刀を重ねて、波留の本丸は師子王と石切丸を迎えることになった。
だが、春霞の気持ちはすっきりとしないままだ。
叡拓が生きていたという事実と、この波留の本丸の審神者だった冬湖という人物が布由の本丸に囚われているという事実が、春霞の胸の内でぐるぐるとどす黒い渦を巻いている。
ここ最近は特に、鬱々とした日が続いている。
小夜に密命を下したのはもしかしたら間違いだったかもしれない。
ここまで深く知ってしまったら、もう後に引くことはできない。
そろそろ秘密会議でこれらのことを明らかにしたほうがいいだろうと思いながらも、春霞はなかなか刀剣男士たちを招集することができないでいた。
いつ、皆に告げればいいだろう。
部屋の向かいの中庭を眺めては、春霞はそんなことばかりを考えている。
あれからもう一度、春霞は小夜には密命を授けた。
布由の本丸にいる冬湖が囚われている場所の確認と、こんのすけについての調査、それに叡拓の作り出した異形のものたちがどの程度の規模になっているのかを確かめるためだ。
今回も小夜はうまくやってくれるだろう。
小柄な割にはしっこい小夜は、なかなか機転の利くところを見せてくれる。前回の密命での成果は、正直なところ春霞が望む以上の情報を持ち帰ってくれた。あの情報があったからこそ春霞は、今度こそ叡拓を布由の本丸から追放し、冬湖をこの波留の本丸に呼び戻そうと決心したのだ。
だが、刀剣男士たちにこのことは一言も話せていない。
話そうとするとどうしても、こんのすけのことが春霞の頭の隅をよぎっていく。こんのすけと政府との間の繋がりに不審を抱いているということを告げてしまってもいいものなのかどうか、計りかねている。
自分の言葉ひとつで、本丸の中に不審が芽生えるのも嫌だった。
せっかく他の本丸からやってきた者たちとも打ち解けて何とかやっていけるようになったところに水を差してしまうのではないかと、気になって仕方がないのだ。
密命を授けた日、春霞は自分に何かあった時には必ず長谷部に相談をするようにと小夜に伝えた。
小夜はいつものように表情一つかえることなく、小さく頷いただけだった。
春霞の言わんとしていることは分かっているとばかりに、冷たい眼差しで見つめ返された。
だから春霞はそれ以上はもう何も言うことができずに、ただただ自分の密命を小夜が無事に完遂してくれることだけを祈るばかりだった。
春の夕暮れは少しずつ日が伸びていき、いつしか初夏へと向かい始めていた。
本丸で待つだけの自分の身を呪うように苛つきながらも春霞は、小夜の帰還を待っている。
同時に、この波留の本丸の刀剣男士たちがわずかずつでも強くなってくれればと祈っている。 気付けば相談できる相手は、気心の知れた薬研ではなくなっていた。
重荷に思うことが互いに多くなっていき、いくつも積み重なって今にも潰れてしまいそうな状態だ。
それでも待ち続けることしかできない自分が疎ましい。
自分も薬研のように戦場に出られたら、小夜のように遠征に出られたらと思わずにはいられない。
はあぁ、と溜息をついた春霞は、縁側の先に出ると空を見上げた。
ゆっくりと日が暮れていく空は、紺碧に染まりだしたばかりだった。西の向こうに見え隠れする残照は、今にも山の向こうに沈んでしまいそうだ。
初めて陸奥と出会って見た夕暮れのような美しい色をしている。
政府から委嘱を受け、審神者としてこの世界へやってきた春霞は初めて目にするものすべてが怖かった。未知の世界の夜は、特に訳もなく恐ろしい気がしたものだ。
だが陸奥はそんな春霞を笑うでもなく、優しく諭してくれた。明けない夜はないのだと、彼のあの独特のお国言葉で話してくれた。陸奥の優しくおおらかな声は、今も春霞の耳の中に残っている。
「陸奥……」
呟いた春霞の耳に、カサ、と葉擦れの音が聞こえてきた。
風は吹いていない。
目を眇めて薄暗くなった中庭をじっと見るが、何も見えなかった。
気のせいかと思って部屋に戻りかけたところで、城門のほうが騒がしいことに春霞は気付いた。
遠征に出ていた部隊が無事に戻ってきたようだ。
しばらくすると近侍の長谷部がやってきて、第三部隊の帰還を知らせてくる。
「どうぞ、労いの言葉をかけてやってください」
長谷部の言葉が終わるか終らないかのうちに、仲間たちのざわめきが広間のほうへと移っていくのが感じられた。皆、仲間の帰還を喜んでいるのだろう。
「皆、お腹も空いていることでしょうし、先に夕餉にしましょう」
春霞はそう言うと部屋を後にした。
一刻も早く小夜の無事を確かめたいところだったが、そうすることはできなかった。密命を授けた刀剣男士の名は、長谷部には伏せている。もちろん燭台切にもだ。
そそくさと広間に足を運ぶと、ちょうど風呂を使ってさっぱりとした様子の第三部隊の面々と鉢合わせた。
「お帰りなさい、皆。道中、怪我をしたり困ったことはなかった?」
何気なく声をかけると、隊長の平野は利発そうな表情を引き締めて言葉を返してくる。
今回の遠征も大成功だった。特に大きな問題もなく、全員が無事に帰還することができたというその言葉に、春霞はホッと胸を撫で下ろした。平野のことも心配だったが、小夜のことも同じぐら心配だったのだ。
ちらりと小夜のほうへと視線を向けると、無表情な眼差しに見つめ返された。
目は口ほどにものを言うということわざがあるが、まさにその通りだと春霞は思う。小夜はあまり余計なことを喋らないが、その瞳の微妙な変化から、何か言いたいことがあるのだろうということは見当がついた。
今夜、遅くなってもいいから秘密会議を開くべきだろう。小夜の報告を皆に知らせるべき時がとうとうやってきたのだ。
何食わぬ顔をして春霞は広間の自分の席についた。
ほとんどの刀剣男士たちが自分の御膳の前に腰を下ろし、全員が揃うのを待っている。
ちらりと薬研のほうへと視線を向けると、ひらひらと手を振って返された。
春霞の様子に気付いているのかいないのか、薬研はいつもと変わりなく、粟田口の一員として下座の席についている。
宴会の間中ずっと春霞は、こんのすけのことを考えていた。今すぐにでも小夜の報告を聞きたくて、居てもたってもいられない。
ちらちらと長谷部のほうへ視線を送ると、春霞の気持ちを察したのか、この几帳面そうな近侍はすぐにそばへとやってくる。
「手籠をください。第三部隊の刀剣男士たちと話をしてきます」
そう言うと春霞は「今夜、秘密会議を開きます」と素早く耳打ちをした。頷いた長谷部は顔色ひとつかえることなく燭台切に声をかけた。
「燭台切、手籠を」
昼の間に用意しておいた手籠には、春霞が選んだ飴や饅頭の包みが入っている。隊長の平野には、菓子を包む懐紙の模様をかえたものを用意してある。他は皆同じだが、小夜の分だけは端に折り目をつけておいた。
「どうぞ、春霞ちゃん」
春霞は礼を言うと、燭台切に手渡された手籠を持ってまずは平野のところへ行った。
「遠征お疲れ様でした」
声をかけながらいつものように手を取り、一人ずつ刀剣男士の様子を確かめていく。
怪我はないか、疲れてはいないか、顔色はどうか。ゆっくりと言葉を交わしながら、春霞は第三部隊の面々のところへ菓子を持っていき、労いの言葉をかけた。
最後に小夜のところに菓子を持っていくと、あの静かな眼差しでじっと見つめられた。
「後で遠征の話を聞かせてね、小夜ちゃん」
そう言うと、小夜はコクリと頷いた。
やはり何か言いたいことがあるらしく、しきりと春霞を気にかけているようにも見える。
「後で、春霞の部屋に行ってもいい?」
小夜が尋ねてくる。
「いいわよ。遠征の話、楽しみにしているわね」
そう返すと春霞は、自分の席へと戻っていく。
ちらりと長谷部を見ると、既に秘密会議の件は何らかの形で他の刀剣男士たちにも伝え終えたらしい。得意げな笑みを向けられた。
秘密会議の前に、小夜が春霞の部屋へとやってきた。
人目を忍んできたのだろうことはすぐにわかった。春霞は特に何も言っていないが、小夜はもしかしたら何とはなしに気付いているのかもしれない。
「遠征で疲れているのにごめんね、小夜ちゃん」
部屋に入ってきた小夜に声をかけると、この少年は黙って首を横に振った。
春霞のすぐ向かいで正座をすると、いつものようにまっすぐな眼差しで見上げてくる。
「向こうはどうだった?」
尋ねると、小夜は懐から一枚の紙きれを取り出した。
丁寧に畳んであったものを小夜は、春霞の前に広げた。それは布由の本丸の見取り図だった。 「これ……」
「どうやって手に入れたかは聞かないで」
小夜の言葉に、春霞は「わかったわ」とだけ返した。今は、小夜がどうやってこの見取り図を手に入れたのかを話している場合ではない。
「……ここが、冬湖のいる部屋。足を怪我してて動けないから、連れて来られた時からこの部屋で監禁されているらしい。部屋の外には見張りがいる。歴史修正主義者みたいな姿の短刀が二匹いたよ」
言いながら小夜の指が、冬湖の部屋を指でなぞる。春霞は慌てて朱墨を出してくると、筆で丸を書き込んだ。部屋の外には、見張りの印として小さなバッテンを二つ入れる。
「それからここが、叡拓の部屋。異形のものの中でも体の大きなやつが交代で見張りに立っている。春霞の部屋よりは広いけれど、広間ほど大きくはない」
小夜の報告は分かりやすかった。どこでどのようにして見取り図を手に入れたのかはわからないが、説明を聞いているとかなり詳細なもののように思われた。
「こんのすけは、叡拓からも異形のものからも姿を隠しているようだった。冬湖のそばについていたけれど、あれは春霞のこんのすけだと思う」
そう言って小夜は、ちらりと春霞を見上げた。
「あたしの……」
布由の本丸は当初、春霞が審神者だった。だから、布由の本丸にいるこんのすけは、春霞のこんのすけということを言いたいのだろう、小夜は。
と、言うことは、この波留の本丸のこんのすけは元々は冬湖のこんのすけだったと言えるだろう。
春霞の言いたいことに気付いたのか、小夜はこくりと頷いた。
「叡拓は、異形のものをたくさん作り出していたよ。よその本丸を乗っ取るためらしい。いくつもの本丸を手に入れて、それぞれの国で勢力を伸ばそうとしているって……冬湖が……」
「冬湖さんと話したのね」
責めるつもりはなかった。ただ、確認をしたかっただけだ。春霞が尋ねると、小夜は小さく首を縦に振る。
「……ごめんなさい」
躊躇いがちに小夜が言うのに、春霞はううん、と首を横に振った。自身の主がすぐ近くにいるのだ。声をかけずにはいられなかったのだろう。小夜の気持ちもわからないでもなかったから、それについては春霞は何も言わなかった。
それよりも、叡拓だ。よその本丸を乗っ取り、勢力を伸ばそうとしていると小夜は言うが、それはできないのではないだろうかと春霞は思った。本来、審神者は自分が居城とする本丸から動くことはできない。もちろん他の本丸を攻撃することも禁じられているはずだ。
それなのに叡拓は、そういった本来の動きからはかけ離れたことをしようとしている。
本当にそんなことが、可能なのだろうか。
「それから……」
小夜が言いかけたところで、春霞の部屋の向かいでガサッと大きな音がした。
一瞬にして二人の間に緊張が走る。互いに顔を見合わせて、息を潜める。
と、同時に部屋の外から声がかかった。
「主。つい今しがた、こんのすけがどこからか戻ってきたようなのですが……」
困惑気味の長谷部の声に、春霞は秘密会議のことを思い出した。そう言えば、そろそろ会議の時間だ。
「こんのすけがどうしたの?」
尋ね返しながら、そっと障子を引く。
縁側には長谷部が立ち尽くしていた。その腕には、傷だらけでぐったりとなったこんのすけを抱いている。
「こんのすけ……!」
慌てて春霞は長谷部に駆け寄った。
この本丸のこんのすけだということは、すぐにわかった。弱々しく薄目を開けたこんのすけは、苦しそうな息の下、すみませんと春霞に詫びた。
「こんのすけ、すぐに手当をするわね」
謝っている場合ではないのにと、春霞の胸の中に憤りが込み上げてきた。
それでも部屋の隅に常備してある薬や包帯を取り出すと、こんのすけの傷に丁寧に軟膏を塗っていく。
「申し訳ございません、春霞様……」
掠れた声でこんのすけが呟く。
「こんのすけは、冬湖様にお会いしたく布由の本丸へ行っていたのです……いつも使う隠し通路から出ようとしたところで、異形のものたちに姿を見られてしまいまして……こんのすけ、一生の不覚です……後をつけられてしまったようです……」
春霞はちらりと長谷部へ視線を向けた。彼はまだ、縁側の隅に立っていた。
「皆を呼んでください。ただちに秘密会議を始めます」
すぐに、秘密会議を開かなければならない。
小夜の報告だけでなく、こんのすけの報告も、洗いざらい話してしまわなければならないだろう。
春霞の言葉を受けて足早に長谷部は部屋を立ち去った。
その場に残っていた小夜が、春霞に視線を向けてきた。
「見張りを出したほうがいいよ、春霞」
※※※
小夜の言葉で、本丸内には厳戒態勢が敷かれた。
短刀たちを中心とした見張り隊が結成され、交代で城内を見回る間、春霞の部屋では秘密会議が開かれていた。
集まったのは、いつもの面々と小夜、それに手当を受けて今は座布団の上で丸くなって休んでいるこんのすけだ。
事情を説明された刀剣男士たちは、一様に複雑そうな顔をしている。
「なんでもっと早くに言わねえんだよ、あぁ?」
ムッとした表情で、同田貫が声を荒げてきた。
「言えるわけないでしょ!」
春霞も同じように言い返す。こんのすけが怪しいと思うだけで、事実確認はできてなかったのだ、あの時は。だが、黙っていてよかったと春霞は思う。自分の勝手な思い込みだけで、危うくこんのすけを悪者にしてしまうところだった。
こんなに酷い怪我をして戻ってきているのだから、こんのすけが春霞たちを裏切っていたというわけではなかったのだ。
「まあまあ。ちょっと落ち着いてよ、二人とも」
燭台切がのんびりとした口調で声をかけてくる。
「話は主から聞いていたが、皆に話すことを控えるように進言したのは俺だ。誰が情報を洩らしているのかわからない状態で、この本丸内に混乱を招きたくはなかったのだ」
低い、威嚇するような声で長谷部が告げた。
ぎろりと鋭い眼差しで睨み付けられ、春霞は慌てて背筋をピンと伸ばした。
「もともと冬湖殿はこの波留の本丸の審神者だ。俺たちだけで何とかできると思っていたんだ」
そう、長谷部は言い足す。
途端に同田貫が立ち上がり、どん、と畳を踏み鳴らした。
「馬鹿にしてんじゃねえぞ、長谷部! じゃあ、いったい何のつもりで俺たちをここに置いた? 名津の国の者も合希の国の者も、同じようにこの本丸で生活をしている。俺たちはあんたらと同じ、仲間じゃなかったのか?」
腹の底から出す同田貫の声が、部屋中に響き渡った。
春霞の背筋をつー、と一筋、脂汗が伝い降りていく。
「今はそのようなことで言い争っている時ではないと思いますぞ」
同田貫の怒りが静まるのを待って、一期一振が淡々とした調子で口を挟んでくる。
「こんのすけの話では、叡拓の……布由の本丸に巣食う異形のものたちがこの波留の本丸へ迫っているとのことですが、迎え撃つ準備は万端とは言い難い」
そうですな? と一期一振の眼差しが春霞を見つめてくる。
春霞は小さく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。
現在、布由の本丸から異形のものたちがこんのすけを追って、この波留の本丸へと押し寄せてきているところだ。敵の数はそう多くはないようだが、何しろ一匹いっぴきの力が大きすぎた。この波留の本丸の精鋭部隊でも、押し返せるかどうか難しいところのように思われる。
春霞は無意識のうちに親指の爪を噛み締めていた。
カリ、と音を立てて爪がふやけるまで噛み締める。
ふと顔を上げると、小夜がじっと春霞を見ていた。
「追い払おう。ここは春霞の本丸だし、冬湖が帰ってくる場所でもある。皆で異形のものを追い払わないと」
そうしなければ、どうなるのだろう。そこまで考えて春霞はブルッと全身を震わせた。
「そうね。小夜の言うとおりね」
そう言って春霞は、全員の顔を順に見回した。
長谷部と燭台切、それに小夜は、この波留の本丸の元々の住人だ。主である冬湖の帰りを待って、春霞をとりあえずの主と認めてくれている。同田貫と御手杵は、名津の国からこの波留の国へと移ってきた。冬湖の次の主には苦しめられたが、この本丸にはなくてはならない刀剣男士たちだ。また合希の国の出の一期一振たちもそうだ。皆、春霞のためにこの本丸を盛り立ててくれている。
そうして、最後に春霞は薬研の顔を見た。
布由の国から共に逃げ延びた、大切な春霞の仲間だ。
「何にしろ、やらなきゃなんねぇんだろ?」
ニッ、と薬研が笑う。
「大将の思うようにやればいいさ」
そう言われて、春霞はホッと詰めていた息を吐き出した。
いつも薬研のこの言葉が、春霞の背中を押してくれた。
布由の国から逃げ出す時も、この波留の本丸で初めて鍛刀をすることになった時も、いつもいつも、薬研の言葉に春霞は勇気づけられていた。
「そうね」
ホッとしたからか、春霞の口元には柔らかな笑みが浮かんだ。
部屋の空気を入れ替えるために立ち上がって障子を開けようとして……不意に春霞の体が撥ね飛ばされた。
ぶつかってきたのは、薬研だった。
「春霞を守れ!」
言いながら薬研は短刀を手に、障子の向こうにいる異形のものと対峙する。障子を突き破ったのは、敵の刃だった。小柄な薬研の体に対して、障子の向こうに見える影は大きかった。同田貫や長谷部と同じぐらい……いや、太刀である燭台切よりも大きく見える。
「薬研!」
同田貫と長谷部の二人に脇を固められた春霞は、不安そうに薬研の背中を見つめた。
小さい……春霞よりもわずかに小柄な薬研の肩は、他の刀剣男士たちよりも幼く、弱く見える。
短刀を握る薬研の横顔は、緊張のせいか青褪めて見えた。対峙したまま動かない時間がじりじりと過ぎていく。
春霞のすぐそばに、こんのすけを腕に抱えた小夜もいた。
隙ができたらすぐに逃げるように春霞は、小夜に耳打ちをする。
他の刀剣男士たちは無事だろうか。耳をすますと、城門のほうが騒がしかった。敵は二手に分かれて侵入したらしい。
異形のものが先に動いた。障子を突き破って飛び込んできた異形のものは、骨だらけの生き物だった。歴史修正主義者かと見まごうような姿は黒い瘴気を纏い、勢いよく部屋の中に飛び込んでくる。
と、同時に薬研と対峙していた異形のものが素早く動いた。
大太刀を一閃すると、薬研の体が飛ばされた。薙ぎ払われた薬研の体が、春霞たちのいるほうへと飛んでくる。
「薬研!」
駆け寄ろうとした肩口を、同田貫に押さえられた。
「ここにいな」
そう言うと同田貫が刀を手に、異形のものへと向かっていく。
御手杵も長谷部も、別の敵と戦っていた。こんのすけを抱えた小夜はと見ると、敵と仲間との間をうまく縫って部屋から脱出するところだった。
百合の花のようなにおいがふわりと春霞の鼻先に漂ってくる。
腐臭のような、瘴気のような……甘ったるいにおいに春霞は顔をしかめた。
不快なにおいから逃れようと後ずさりかけた春霞は、何かに肩を掴まれた。はっと息を飲む。仲間の刀剣男士たちは、それぞれ戦っている。小夜はこんのすけを連れてこの部屋を抜け出したから、ここにはいない。さきほどの衝撃からまだ立ち直っていないのか、薬研は部屋の壁に縋り付くようにしている。
「……薬研!」
名前を読んだ。
せいいっぱい大きな声を出したつもりだったが、恐ろしさで声は出なかった。
ちらりと背後に視線をやると、金色の槍の柄が見える。検非違使かと思ったが、そんなはずがないと春霞は頭の中で考える。叡拓が検非違使を、異形のものと同じようにして作り出せるはずがない。
「助けて……」
震える声は、この騒ぎの中では響かない。誰も、気付いてはくれないかもしれない。
ぎりぎりと掴み上げてくる手から逃れようともがくが、春霞の力では到底敵わない。それでも薬研に助けを求めて闇雲に敵の手から逃げ出そうとした。
すぐに薬研は気付いてくれた。
「春霞!」
腹の底から出す薬研の声は、頼もしかった。気付いてくれたのだとホッとして、春霞はさらに力を込めて敵の手から逃れようとする。腕を振り上げた時に春霞の肘が敵のどこかに当たったようで、肩を掴んでいた力がわずかに緩む。
「薬研、助けて!」
転がるようにして薬研のほうへと足を踏み出そうとした瞬間、奇妙な光が走った。
ガッ、と薬研の喉が鳴り、見ると脇腹のあたりに血が滲み出している。
「う、そ……」
ゆっくりと、薬研の体が畳の上へと沈んでいく。膝をついて、春霞のほうへと手を差し伸べてくる。脇腹の傷口からは血が滴り、畳を赤く染めていく。じわり、じわりと赤い染みが大きく広がっていく。
「春霞……」
掠れた声が、最後に春霞が耳にした薬研の声だ。
気付いた時には春霞自身は、敵に拘束され、波留の本丸からは遠く離れた場所へと連れていかれるところだった。
(2015.8.16)
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