手入れの行き届いた本丸は過ごしやすく、刀剣男士たちは自主的に内番をこなしていた。
近侍の長谷部が審神者の代行として随分と頑張ってくれたのだろう。
本丸の中を案内されながら、春霞はそっと思った。
「鍛錬所と手入れ部屋も見ておくか?」
淡々とした声で尋ねられ、春霞は躊躇いながらも頷いている。
本丸を案内してくれているのは、薬研の兄弟でもある骨喰藤四郎と、小夜左文字の二人だ。小夜は長谷部と同じでこの本丸育ちだ。骨喰が知らないような細かいことを、いくつも教えてもらった。
「手入れ部屋にはこんのすけがいるよ」
ふと、思い出したように小夜が告げる。
骨喰も小夜もあまり表情が変わらないから、何を考えているのかわかりにくい。春霞は小夜のその言葉の意味を推し量ろうとして、眉間に小さな皺を寄せた。
「ああ……やっぱり今日はやめとこうか」
小夜とちらりと視線を交わして骨喰が言う。気を利かせてくれているのだろうか。
「いえ、せっかくなので覗いておきます」
これから自分が手入れを行うことになる場所を、見ておきたかったのだ。
「行かないほうがいいよ」
顔を逸らしながら小夜が言う。
「どうして?」
春霞は尋ねた。
何故、行かないほうがいいのだろう。小夜は、手入れ部屋が嫌なのだろうか。
「手入れ部屋はいくつあるの?」
布由の国の本丸では、ふたつある手入れ部屋は最後まで薬研と陸奥のためにしか使われなかった。叡拓は手入れ部屋を使うよりも新たな異形のものを作り出すことに力を注いでいたから、戦で傷ついた異形のものたちは腐臭を放ちながら本丸を徘徊することになった。不衛生極まりない状況だった。
「ふたつ」
小夜がボソボソと返してくる。
「だけどひとつは使用中だ」
何でもないことのように骨喰が告げた。
「使用中?」
どういうことだろうかと春霞は考えた。
審神者がいなければ、基本的に刀剣男士たちが遠征や合戦に出ることはない。せいぜいが演練に出るぐらいのものだろう。前の審神者が不在になるよりも以前に、手入れ部屋に入った者がいるということだろうか。春霞はさらに眉間の皺を深くする。
「ほら、ここだよ」
小夜の声がして、三人は部屋の前で立ち止まった。
手入れ部屋だ。
ひとつは障子を開け放たれて、中の空気を入れ替えていつでも使えるように整えてある。
もうひとつの手入れ部屋、締め切った障子の前には同田貫正国が座り込んでいた。
槍を手に、微動だにせずにじっと部屋の前に縁側に座り続けてるらしい。広間には顔を出していたが、ああやって長谷部に声をかけられない限りは一日中こうしてこの手入れ部屋の前に座るのが日課となっているそうだ。
「同田貫さん……」
春霞はそっと声をかけた。
同田貫の顔がこちらへと向けられ、厳めしい眼差しで睨み付けられる。
「何しに来たんだ?」
ぶっきらぼうな口調は、先ほど広間で聞いた時と変わりない。
「あの……手入れ部屋の様子を見ても構いませんか?」
おどおどと春霞が尋ねるのに、同田貫はふん、と鼻を鳴らした。
「見てもいいけど、逃げるなよ。そこの障子を開けるんなら、しっかりあんたの責務とやらを果たしてみせてくれよ。そうしたら俺は、あんたをこの本丸の審神者として認めてやってもいいぜ?」
できるとは思っちゃいねえがな、と同田貫は言った。
何が、とは言わなかったが、春霞にはこの障子の向こうがどうなっているのか、わかるような気がした。
ゴクリと息を飲むと、障子に手をかける。
息をひそめてそーっと障子を引く。
中から漂い出してきたのは、布由の本丸で嗅いだ覚えのある腐臭だった。死にゆく者のかおりは甘ったるい百合の花の匂いにも似ているような気がして、春霞は軽いめまいを感じた。
「……っ」
敷きっぱなしの布団の上には、重傷の刀剣男士が寝かされていた。そのそばには、こんのすけがいる。不安そうな表情をしてこの狐は、刀剣男士の様子を見守っていた。
「こんのすけ……こんなところにいたのね」
この手入れ部屋で刀剣男士の看護をしていたのだ、こんのすけは。だから広間には顔を出すことができなかった。そういうことだろう、きっと。
「……春霞様ですね。へし切長谷部から話は聞いています。ただちに手入れを行うことはできますか? この御手杵は先の審神者の時に重傷を負いました。訳あってこの本丸には現在、審神者がおりません。本日よりあなたが審神者として着任されたと聞いていますが……」
「し……資材は? 資材は、揃っているの?」
知らず知らずのうちに春霞の声は震えていた。
布由の国にいた頃に、薬研や陸奥の手入れをしたことがあった。だが、ここまでの重傷を手入れした経験は、春霞にはまだない。
「資材ならあるぜ、ここに」
縁側に座っていた同田貫がゆらりと立ち上がり、部屋に入ってきた。
手には何やら重そうな袋を持ってる。
「必要なものはこの中に入っているが……あんた、こいつを手入れすることができるのか?」
疑わしそうな同田貫の眼差しに、春霞は首を竦めた。
これまで春霞がしてきた手入れとは、これとは比較にならないぐらい軽いものばかりだったのだ。
「わからないけど、やってみます」
幸い、手入れの仕方なら覚えている。鍛刀とは違い、異形のものたちを作り出すわけではないから怖くはない。ただ、ここまでの重傷を手入れしたことがないというだけだ。
「あの……薬研を呼んできてくれる?」
小夜に声をかけると、小さな短刀は声もなく身を翻した。すぐに薬研を連れてきてくれるだろう。ただそばにいてもらうだけだったが、それだけでも安心できた。何もわからない春霞をここまで導いてくれた薬研だから、きっと今回も助けてくれるはずだ。
春霞は御手杵の枕元に腰を下ろすと、資材をひとつひとつ慎重な手つきで取り出しはじめた。
いったいどれだけ時間が過ぎたのだろう。
こめかみを伝う汗の滴を拭うこともせず、春霞は御手杵の手入れを続けている。
資材はそろそろ尽きそうだ。
ちらりと薬研のほうを見ると、彼はこれでいいとばかりに力強く頷いてきた。
春霞の手入れが適切だったのか、少し前に御手杵は本来の槍の姿に戻っていた。
そこからは薬研と同田貫の二人が春霞を手伝い、交代で手入れが続いている。
こんのすけは、春霞に必要なものを揃えるために一時的にこの場を離れている。
刀剣男士たちが入れ代わり立ち代わり、春霞の様子を見に来た。既に紹介を受けている藤四郎兄弟もいたし、まだ知らない面々もいる。誰もが興味深そうに、春霞のしていることを眺めては満足そうな表情で立ち去っていく。
前の審神者も御手杵を手入れする気はあったようだが、いかんせん資材が足りなかったらしい。その後、同田貫が何とかして資材を掻き集めてきたらしいが、その時には既に審神者は行方をくらましていた。
だから手入れ部屋に御手杵を入れることができたとしても、誰も手入れをすることができなかったらしい。
とは言うものの、長谷部は充分に代行を務めたと春霞は思っている。刀剣男士が仲間を手入れすることができないため、深手を負った者は御手杵のように放置されることになる。もちろんごくごく軽傷の者ならば自力で治癒してしまうことも可能だったが、それは滅多にないことだった。
それにしても、と春霞は手元の槍を見て思う。
間に合ってよかった。もう少し春霞たちがやってくるのが遅ければ、確実に御手杵は死んでしまっていただろう。今にも折れそうな状態で、彼はじっとこの場で一人、痛みや死の恐怖と戦っていたのだ。
「御手杵……よく頑張ったね」
最後にポン、と打ち粉を叩いて春霞は手を止める。
「同田貫さん、拭いてあげてください」
拭い紙を同田貫に差し出すと、彼は躊躇うように春霞を見つめ返してきた。
「俺が? いいのか?」
大丈夫なのかと同田貫の眼差しが尋ねてくるのに、春霞は柔らかな笑みを浮かべた。
「もう、大丈夫だから」
後は、御手杵自身の生命力にかけるしかないだろう。
※※※
御手杵の手入れをすませた春霞は、覚束ない足取りで部屋へと戻った。
本丸の案内どころか、手入れ部屋で一晩を過ごしてしまった。本丸の案内はまた改めてしてもらえばいいことだ。
ぐったりとなって疲れた体を引きずるようにして部屋に入ると、春霞は畳の上に倒れ込む。
「ああー、疲れた!」
手足をバタバタとさせていると、どこからともなくこんのすけが現れた。
「ただいま戻りました、春霞様」
音もなく現れたかと思うと、この喋る狐は春霞の顔を覗き込んでくる。
「今後、入用になりそうなものを仕入れてきました。それから……こちらはあまりよくない報告です。前の本丸でも噂ぐらいはお聞きになったことがあるかと思いますが、政府からの入電が完全に途絶えたようです。他の本丸も同様です」
「なに、それ」
怪訝そうに顔をしかめて春霞はこんのすけを見た。
そんな話、聞いたこともない。そもそも春霞のいた布由の本丸では、こんのすけとの接触も完全に断たれた状態になっていた。だからこんな話、知りようもなかった。
「おや。ご存じではなかったのですか?」
小首を傾げたこんのすけが、春霞の顔をさらに覗き込んでくる。
「知るわけないじゃない。布由の本丸ではほとんど監禁状態だったんだから」
こんのすけは、助けてもくれなかった。いや、おそらくは叡拓のはかりごとのせいで、春霞たちを助けることすらできなかったのだろう。
「それでは、後でお話いたしましょう。他に何か知りたいことはありますか?」
この国のことを知りたいと春霞は思った。
波留の国とはいったいどのようなところなのだろう。布由の国のように、雪と氷に覆われて、一年中ひんやりとした風が吹きすさぶような寂しい国なのだろうか。
「そうね。まずはこの本丸のことを聞かせて。こんのすけから見た、客観的な印象を知りたいわ」
春霞は起き直ると座布団の上に腰を下ろした。着物を着たままで膝を抱えるのは少し苦しかったが、正座をして聞くような気にはなれなかった。
「そうですね。この波留の本丸には、あなたが連れてきた薬研藤四郎を含めて総勢十七名の刀剣男士がいます。近侍のへし切長谷部を筆頭に、第一部隊は一期一振、次郎太刀、同田貫正国、骨喰藤四郎、小夜左文字。第二部隊には燭台切光忠、加州清光、蜂須賀虎徹、平野藤四郎、秋田藤四郎、堀川国広。今剣と愛染国俊の二人は前の審神者が出奔なさる直前に鍛刀されたばかりですので、まだ戦というものを知りません。手入れ部屋の御手杵と、それから遠征に出されたままの山伏国広がおります。他所から来た刀剣は一期一振と彼の連れてきた藤四郎兄弟たちのいた合希の国生まれの者たちと、名津の国生まれの同田貫一派とに分かれています」
聞き慣れない国の名に、春霞は「ふぅん」と呟く。
「後でそれ、文章に起こしてくれる? 覚えられそうにないから」
わかりましたと頷いて、こんのすけは言葉を続けた。
「同田貫一派というのは、同田貫、御手杵、次郎太刀、それから加州清光の四人です。彼らはそれぞれに個性的と言いますか……まあ、扱い難いと言いますか……」
なるほど、と春霞は頷く。
広間での一件と言い、手入れ部屋での一件と言い、次郎太刀も同田貫もちょっとやそっとのことでは春霞には心を開いてくれないかもしない。
「それで、何か大きな問題はありそう? 今すぐにでも表面化しそうな、厄介そうな問題は?」
審神者として自分は、ここで何をしなければならないのだろう。
政府との入電が完全に途絶えたということは、だ。自分をはじめ、審神者としてこの世界にいる者たちは現実の世界から取り残されてしまったことになる。どうにかして元の世界へ帰るか、もしくは連絡手段を見つけ出さないことにはそのうち大事に発展するかもしれない。
「いちばん大きな厄介事は、ついさっき貴女自身のお手で片付けてしまいましたから、他はしばらく放置しておいてもどうということはないでしょう」
畳の上でうぅん、と伸びをするとこんのすけは、尻尾をふさりと揺らしてみせた。
「それでは、話を元に戻してもよろしいですか?」
ちょこちょこと春霞の目の前に移動してくるとこんのすけは、しかつめらしい顔をする。
「その話も文章に起こしてくれる?」
この本丸では、いろいろと考えなければならならいことがあるようだ。
春霞は親指の爪を前歯で齧ると、じっとこんのすけを見つめた。
「少し前のことですが……政府からの入電にズレが生じるようになりました。貴女がた審神者は、政府の指示に従い、動いている。そうですね?」
「ええ、そうね」
「政府が指示を出し、わたくしどもがそれを審神者に伝える。それなのにズレが生じ始めてからは、審神者が行動を起こした直後に別の指示が下りてくることが多くなりました。最初はわたくしどもの伝え間違いかとも思われたのですが、どうもそうではないらしい。政府の中に、情報を錯綜させようとする者がいるということを掴むところまではいったのですが、犯人が見付からないのです。そのうち、各地に混乱がもたらされるようになりました。貴女自身が体験されたような目に、他の審神者たちも遭うようになりました。他所からやってきた審神者に本丸を奪われ、追い出された審神者もいました。作り出された異形のものの餌食にされた審神者もいます。そういったことの対処に当たっているうちに、政府からの入電は完全に断たれてしまいました。それが、ちょうど貴女が布由の本丸に火をかけた日のことです」
春霞は思わず身震いしていた。
自分が布由の本丸を後にしたあの日、政府は完全にこの世界との連絡を絶ってしまったのだ。蜘蛛の糸のように細い繋がりだったのに、それを断ち切ってまでして政府はいったい何をしようというのだろう。
「どうしたら元の世界に戻れるようになるの?」
春霞が尋ねると、こんのすけは少し困ったように鼻の上に皺を寄せた。
「戻れることはないでしょう、おそらく。もともと、審神者をこの世界へ送り込むのも危険な賭けのようなものだったのです。帰り道のない旅路へ送り出したようなものですよ、政府は」
こんのすけの言葉に、春霞は絶句した。
任期を終えたら元の世界に戻れると聞いていたから、春霞は審神者としてこの世界へやってきたのだ。一方通行で行くことしかできない旅なら、最初から断っていた。
「じゃあ……あたしたち審神者は、騙されたの? 政府やこんのすけに、騙されてここへ連れてこられたって言うの? それって、あんまりじゃない?」
一気に捲し立てると、今度はいろいろな想いが春霞の頭の中でグルグルと回りだす。
この世界へ春霞は、歴史修正主義者と戦うために遣わされたはずだ。それなのに気付いたらいつの間にか敵は増えているし、審神者同士の諍いは起こるし、政府とは連絡がつかなくなっているし──あんまりだともう一度口の中で呟いてから春霞は、こんのすけを睨み付けた。
「あたし、まだ検非違使とも戦ってないのよ。それなのに審神者同士の争いは起こる、政府とは連絡がつかなくなる、って……いったいどうなってるのよ? 職務怠慢なんじゃないの?」
こんのすけに言っても仕方のないことだけど、と唇を尖らせて春霞は言い捨てる。
「あの、春霞様。こんのすけには政府の意図まではわかりかねますが、春霞様が今、お考えにならねばならないことは、この本丸のことではありませんか?」
淡々としたこんのすけの言葉に、春霞はそれも一理あると考える。
現時点でいっぱいいっぱいの春霞にできることは、この本丸を維持することぐらいだろうか。 「ひとつずつ片付けていきましょう、春霞様。こんのすけは政府と連絡が取れないか、もうしばらく頑張ってみます」
そう言うとこんのすけは、素早い動きで起き上がって宙がえりをひとつした。
狐の尻尾がふさ、と揺れたかと思うと、その姿は忽然と中空に消えてしまった。まさに狐そのものといった様子だ。
逃げたわね、と春霞は肩を落とす。
あまり聞きたくない話まで聞かされてしまったからだろうか、憂鬱でたまらない。
机の上に突っ伏すと、春霞は大きな溜息をついた。
「あたしの本丸に、帰りたい……」
薬研がいて、陸奥がいて……三人だけの小さくてささやかな本丸に帰りたいと、春霞は思う。 叡拓のいない本丸は、居心地がよかった。楽しくて、賑やかで……何よりも、幸せだった。
「帰りたいよぅ……陸奥……」
広間で刀剣男士たちと顔合わせをした時に、ここに陸奥がいなくてよかったと春霞は心の底から安堵したものだ。もしここに陸奥がいたなら、きっと春霞の気持ちは負けてしまっていただろう。何に、かはわからないが、陸奥の言うとおりに何でも動く審神者に成り下がっていただろうことだけははっきりとわかる。 はあぁ、と春霞はもうひとつ溜息をつく。
陸奥のいない本丸は、居心地が悪い。それは陸奥がいないからという理由だけではなく、ここが自分の本来いるべき場所ではないからだ。
しばらくそうやって机に突っ伏したままだらだらしていると、バタバタと縁側を駆けてくる足音に気が付いた。
薬研ではないことはすぐにわかった。足音が、薬研のものよりも少し重く聞こえる。
「春霞!」
同田貫の声だ。
春霞はのろのろと顔を上げた。
「春霞、お手杵が!」
よほど慌てているのだろう。血相を変えた同田貫が、春霞の腕を掴み上げ、引きずってでも連れて行こうとする。
「待って……ちょ、痛いってば」
腕を振り払おうとするものの、刀剣男士である同田貫の力に敵うはずもない。だらんと座ったままの格好で引きずっていかれそうになり、さすがの春霞も慌てた。
「同田貫さん! 待ってください!」
力いっぱい声をあげると、ようやく同田貫は春霞の様子に気付いたのか、手を離してくれた。 「いったい何があったんですか?」
お手杵の手入れは終わったはずだ。それなのに同田貫は、どうしてこんなに怖い顔をしているのだろう。
「いいからちょっと来い」
唸るように歯の間から言葉を押し出した同田貫は、春霞の腕を掴んで歩き出す。
お手杵に何かあったのだろうか。手入れは終わったと思ったが、春霞の勘違いで本当はまだ終わっていなかったのだろうか。
自分の腕を掴む男の顔をちらりと窺い見ると、眉間に皺を寄せ、怒っているように見えた。
足音も荒く同田貫は長い長い縁側を進んでいく。いくつもの角を曲がり、いくつかの階段を上がったり下りたりして、春霞は手入れ部屋へと連れていかれる。
「あの……御手杵さん、は……」
言いかけた春霞の腕を、同田貫はぐい、と引いた。
よろけながら手入れ部屋に飛び込んだ春霞の目の前には、上体を起こした御手杵がいた。彼は片方の肩をぐるぐると回して、呑気な笑みを口元に浮かべてさえいる。
「早かったな、正国。その子が春霞ちゃん?」
気の抜けそうなほど軽い口調に、思わず春霞は泣き出しそうになった。
「なんだ……なんともないじゃない。すっかり元気なんじゃない……」
あれだけの重傷を負っていたというのに、御手杵はケロッとした顔で笑っていた。
「あー……あんたが手入れをしてくれた、って聞いたんだけど」
と、御手杵は春霞の目を見つめてくる。
優しそうな眼差しに、春霞はこくりと頷いた。
「じゃあ、あんたが新しいここの審神者なんだな?」
尋ねられ、今度は春霞も考え込む。
「ええと……正式に、ってわけじゃないんだけれど……」
ボソボソと春霞が返すのに、御手杵は怪訝そうな顔をした。
「手入れができるのに、審神者じゃない、ってことなのか? それっておかしくないか?」
なあ、正国、と御手杵が尋ねる。
春霞だっておかしいと思わずにはいられない。正式な審神者でもない自分が、手入れや鍛刀に関わらなければならないなんて、おかしすぎる。だが、自分は逃げてきた身だ。ここで匿ってもらう以上は、審神者としての責務を果たすしかない。
「……こいつがこの本丸の審神者だ」
不意に同田貫が言った。
今になって急に何を、と春霞は思う。広間では怖い顔をして、疑いの眼差しで春霞のことを見ていたくせに。
「審神者としての責務を立派に果たす者なら、そいつがここの審神者で俺たちの主だ。なあ、御手杵?」
同田貫の言葉に、御手杵も嬉しそうに頷いた。
(2015.7.26)
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