いつ以来だろう。
あたたかな布団の感触に、春霞は深い安心を感じた。
清潔なにおいが鼻先をくすぐり、陸奥と薬研と自分の三人で過ごしていた時が戻ってきたような感じがする。
もっとこうしてゆっくり休んでいたい。そう思うのに、眩しくてたまらない。
誰かが障子を開けて、春霞の様子を見に来ているらしい。
「まだ寝てるよ」
聞き慣れない幼い声が聞こえた。誰だろう。
「寝坊助さんだね」
もう一人、別の誰かがいるらしい。障子の向こう側から声が聞こえたような気がする。
「ぅ、ん……」
腕で顔を覆うようにして春霞は、日の差さないほうへと寝返りを打つ。
「あ、狸寝入りだ」
「本当だ、狸寝入りだ……」
障子の向こうにいる二人は、春霞が起きていることに気付いているようだった。それでも春霞はぎゅっと目を閉じ、布団を頭からかぶり直そうとする。まだまだ寝ていたい。あたたかくて幸せな感覚に、包まれていたい。
「春霞……春霞、目が覚めたのか?」
ドタドタと縁側を駆けてくるのは、あれは薬研だ。本丸にいた時ですらこんなふうに慌てたことはなかったのに、いったいどうしたのだろう。布団の中で春霞は、ようやく薄目を開けた。
「春霞!」
パン、と障子が左右に開かれた。勢いがよすぎて、柱に当たってピシャリと音を立てた。
「起きたのか?」
枕元に座り込んで、薬研が声をかけてきた。
薬研がいる。そう思うと、それだけで安心できた。
そろそろと布団から顔を出すと、春霞はそこにいる少年の顔を見た。
本丸で暮らしていた時のように身なりを整えた少年が春霞の目の前にはいた。枕元で胡坐をかいた薬研は、心配そうにこちらを見下ろしている。
「薬研……」
名前を呼ぶと、気が緩んで涙が出そうになった。
「すまなかった、春霞。無茶させちまったみたいで……」
あの山越えのことを言っているのだろうか。それとも本丸を捨ててきたことだろうか?
春霞は勢いよく起き上がると、薬研にしがみついていった。
「薬研……薬研!」
しがみついた体はあたたかかった。身なりを整えた薬研からは、清潔なにおいがしている。自分よりも小柄な体が、あの山越えの一件で頼もしく思えるようになった。少年の肩口にぎゅっとしがみついた春霞は、自分が助かったことを改めて実感した。
生きている。
叡拓が牛耳る本丸から逃げ出し、雪の積もる山を越え、辿り着いたのだ、薬研が言っていた隣の国とやらに。
「……あたしたち、助かったの?」
恐る恐る薬研に尋ねかけると、彼は低く喉の奥で笑った。
間違いない。やはり自分たちは隣の国に辿り着いたのだ。もっとも強行軍の最後のほうは春霞は薬研の背に負ぶわれてうつらうつらと眠っていたのだが。
「大将は強運の持ち主だな」
そう言って薬研は春霞の背中をポン、と叩いた。
「そうかな?」
本当にそうかな? 口の中でボソボソと言い訳がましく呟くと春香は薬研の着ているものをぎっゅと握り締めた。
もし本当に春霞が強運の持ち主だと言うのなら、どうして陸奥は死んでしまったのだろう。どうして春霞は、陸奥を助けることができなかったのだろう。あの本丸に火をかけて、逃げ出さなければならなかったのだろう。
「おや。お邪魔でしたかな?」
不意に縁側から声をかけられた。
遠慮がちな声は穏やかで、優しい。顔を上げると、見知らぬ青年が部屋の前に立っている。背が高く、整った顔立ちの優しそうな青年だ。
「いつまで経っても戻ってこないからこちらから来てしまったよ」
青年が薬研にそう告げる。
「ああ、悪りぃ」
悪びれた様子もなく薬研は春霞の手を取り、立ち上がらせた。
「ここの刀剣男士たちが広間で待ってるから、行こう」
「その前にまず着替えですな」
青年がやんわりと口を挟んでくる。
言われてみれば、春霞は浴衣を身に着けていた。誰の浴衣かわからないが、上品な柄の女物の浴衣だ。履きなれない草履で山を越えた足には包帯が巻かれていた。きっとここの人たちが手当てをしてくれたのだろう。
「前の審神者のもので申し訳ないが、女物はこれしかないのです」
前の審神者、と青年は言った。とすると、ここはやはり隣の国なのだろう。
「あの……」
言いかけて、春霞は自分が青年の名を知らないことに気付いた。
「ああ……私は一期一振。藤四郎兄弟たちの長男です」
と、青年は障子の影からこちらを覗き込む二人の少年へと視線を向けた。
「……秋田藤四郎です」
「平野藤四郎です」
藤四郎兄弟。聞いたことがある。短刀たちの多くは、藤四郎の名を持っている、と。ちらりと青年を見上げると、彼は優しく微笑んだ。
「弟を守ってくださったと聞いています。ありがとうございます、春霞殿」
「弟……?」
一期一振の言葉に春霞は首を傾げた。
藤四郎兄弟の一人を自分はいつ、守ったのだろう。
「おいおい、春霞。まさか俺っちの名前を忘れちまったわけじゃないだろうな?」
少しムッとしたように薬研が春霞を睨んでくる。
「あ……ああっ、薬研藤四郎!」
目の前の少年を指さして春霞は声をあげた。そうだった。薬研も藤四郎兄弟の一人だった。
「そうです。弟を連れて、よくぞここまで辿り着いてくださいました。布由の国の噂を耳にした時には半ば諦めていましたゆえ」
無事で何よりと一期一振が言うのに、春霞はふと顔を曇らせた。
無事だったのは、自分一人だ。薬研は自分を守って戦い、たくさん傷を負った。陸奥に至っては、叡拓から春霞を守るために異形のものたちの手にかかって折られてしまった。
自分一人が助かって、皆にたくさんの心配と不安を与え、あげく裏切ってしまったのだ。
「あたし……」
守れなかったのに、こんなふうに優しい言葉をかけてもらう資格が、自分にはあるのだろうか。
春霞はちらりと一期一振の顔を見た。感謝の色を含んだ眼差しが、まっすぐに春霞を見つめている。
「……守れなかったんです」
春霞は喉の奥から言葉を押し出した。
「陸奥を、守れなかった。本丸も……焼けて、なくなってしまったんです」
これでは審神者失格だ。
帰るべき本丸を失った春霞に、審神者でい続ける資格はあるのだろうか。
「陸奥は、刀として最後の最後まであなたを守りきったのですな。私たち刀の本分を全うできたことは、彼にとっても幸せなことです」
そう言うと一期一振は、春霞の手を取った。見た目は華奢で穏やかそうだが、手にはしっかりと剣蛸があるのか窺われた。
「陸奥守が刀だった頃の主の話はご存じですかな? 彼は、主の最後に刀としての本分を全うできなかったのですよ」
一期一振に掴まれた春霞の手が、微かに震える。
陸奥の主が歴史上の偉人・坂本龍馬だったことは知っている。ことあるごとに陸奥は楽しそうに竜馬のことを話してくれた。だが、それ以上のことは聞いてはいなかった。竜馬の最後も、春霞は今の今まで知らなかった。
「知らなかった……」
もともと春霞は、歴史にはあまり興味がなかった。古臭い過去のことよりも、今自分が体験していることのほうが大切だった。自分が生きて、生活している現実の時間を春霞は何よりも大事に思っていた。 「それに本丸なら、ここにありますぞ」
すらりとした長い指が春霞の前髪に触れた。そっと掻き上げると優しく頭を撫でられる。
「審神者のいない本丸など、当主のいない城のようなもの。あなたがしばらくここで審神者として采配をふるってくだされば、他の仲間たちもきっと喜ぶでしょう」
そんな都合のいい話があるのだろうかと春霞は思った。
自分は本丸を奪われ、火をかけて逃げ出してきた。一方で審神者のいない本丸があり、刀剣男士たちが審神者の着任を今か今かと待っている。話がうますぎる。できすぎている。
ちらりと薬研のほうへと視線を向けると、彼は小さく頷いてきた。
様子を見ようということらしい。
「まずは着替えですな、春霞殿」
一通り話したいことは話してしまったのか、一期一振は手を引いて春霞の髪から指を離した。 「一人で着替えられますか?」
尋ねられ、春霞は頷いた。
審神者としてこの世界で生活を始めることになった時に、着物の着方は教えてもらった。過去の世界での暮らしを軽く説明され、現代日本との違いを知った。
現代的な生活がしたければそれでも構わないのだと政府の要人たちは口を揃えたものの、過去の時代に持ち込むにはいろいろな制限があり、春霞はすっぱりとそれらすべてを諦めることにしたのだ。
「すぐに着替えます」
そう返すと春霞はいったん部屋に引っ込んだ。
可ら障子を締め、衝立の陰で一期一振から手渡された着物に素早く着替える。手触りのいい正絹の布地は、春霞には少し派手目の柄のように思えた。
※※※
部屋を出たところで、一期一振が目を細めて春霞の品定めをしてきた。
「襟が緩んでいますな」
そんなことをはっきり言われると、恥ずかしい。春霞は俯いて「なおしてきます」とだけ返す。
「ここでなおしてしまえばよろしいかと。誰も見ていません」
そう言うと一期一振は、弟たち共々明後日の方向を向く。
春霞は素早く襟元を整えた。
広間につくまでの間に、一期一振自身のことを聞かされた。
一期一振はこの本丸の刀剣男士ではないということだった。別の本丸にいたのだが、ここと同じように審神者の不在が長く続いたため、風の噂を頼りにここまでやってきたのだと言う。その時に連れてきたのが秋田藤四郎と平野藤四郎、それに骨喰藤四郎の三人だ。一期一振と同じように、他の本丸からやってきた者は半数ほど、残りはもともとこの本丸にいた刀剣男士らしい。
「どうぞ、春霞殿。こちらにいるのがこの本丸に集いし刀剣男士たちにございます。今日からあなたの手足となり耳となり、口となり、各地の戦場へ駆けつけることとなるでしょう」
障子を取り払われた広間には、ずらりと刀剣男士が腰を下ろしていた。
きちんと身なりを整え、穏やかな表情をした刀剣男士たちがいっせいに春霞のほうへと視線を向けてくる。
「お待ちしていました、春霞殿」
真っ先に口を開いたのはへしきり長谷部だ。彼はこの本丸に元からいた刀剣男士で、長いこと審神者の近侍を務めていたらしい。。
「貴方がたのことは、そこにいる一期一振を通じてだいたいのことは聞きました。この本丸には、審神者がいない。集まってきた刀剣男士の半分ほどが、噂を聞きつけて他の本丸から移ってきた者です。そんな寄せ集めの本丸で、審神者としてやっていけるかどうか、まずは心構えをお聞かせ願えますでしょうか」
探るような鋭い眼差しが、ちらりと春霞を見据えてきた。
「厳しいことを言うようですが、皆を纏める手前、私には責任がありますので」
そう告げた長谷部の言い分もわかる。
きっと彼は、審神者のいないこの本丸を保つことに必死だったのだろう。
「あの……あたし……」
不意に春霞は、自分がしてきたことを思い出した。
鍛刀はしたくない。いや、できない。布由の本丸で自分がしてきたことを考えると、鍛錬所に足を踏み入れることすらしたくなかった。怖いのだ。ここで鍛刀をして、もしあの異形のものを作り出してしまったらと思うと、怖くて怖くてたまらない。
それに、こんなに穢れているのだ。もしかしたら刀剣男士たちにとって悪い影響を与えることになるかもしれない。今はまだわからなくても、時間が経てば毒のようにどこかしらから滲み出てくることもあるかもしれない。
そう考えると、審神者としてこの本丸で采配をふるうことすら恐ろしく感じられて、春霞は自分の手がカタカタと震え出すのを感じていた。
「春霞?」
薬研の怪訝そうな声すら、遠くから聞こえるような気がする。
顔が真っ赤になったり真っ青になったりして、春霞が自分がここにいること自体が間違いではないかと思い始めた頃に、誰かがすっくと立ち上がった。
背の高い、艶やかな着物姿の刀剣男士が歩み寄ってきたかと思うと、春霞の手を取った。次郎太刀だ。
「可哀想に、こんなに震えて。いきなり知らない場所で審神者になれって言われても、困っちゃうよね?」 だって、と春霞は言いかけた。
「だって……」
言っておいたほうがいいだろう、自分がしてきたことを。そうすれば、この本丸で審神者になって采配をふるえと言う者もいなくなるかもしれない。もっともそのかわりに、ここから追い出されるかもしれなかったが。
「あたし、鍛刀ができないんです」
言いながら、不意に全身の力が抜けるような感じがして、鼻の奥がツンと痛くなった。
「前の本丸では、あたしの後にやってきた審神者の手伝いで鍛錬所に入ることもありました。でも、あたしは……やっちゃいけないことをしていたんです」
異形のものを作り出す手伝いを、春霞はやらされていた。しなければ陸奥はもっと早い時期に折られていただろう。薬研だって折られていたかもしれない。だが、本当は気にしていてはいけなかったのだ。自分の身命を賭してでも春霞は、あの行為をやめなければならなかったのだ。
「どういうことだ、それは」
険しい表情をした長谷部が尋ねてくる。
次郎太刀はそんな長谷部から庇うようにして春霞の華奢な体を抱きしめた。
「叡拓の命令で……異形のものを……」
言いながら、声が震えてきた。掠れて、うまく喋ることができない。
「うちの審神者も同じだったよ。異形のものを作り出したいって躍起になってた。躍起になるあまり、アタシたち刀剣男士の扱いがひどく疎かになってね。結果、遠征と合戦の繰り返しで何本もの刀が折られることになった。兄貴の太郎太刀も、そのうちの一振りさ。アタシの元に戻ってきた時には……ほら、こんな」
と、次郎太刀は懐から小さな刃屑を取り出した。
「こんな姿になっちまってさ。それでも兄貴は、アタシたちの主を信じていたんだよ。いつか正気を取り戻して、元の優しかった主に戻ってくれる、って」
だから、と次郎太刀は続けた。
「アンタがこの本丸でそんなことをしようものなら、アタシはアンタを許さない。この刃でその体を切り刻み、肉の一片だって残さないように殺してやる」
不意に向けられた悪意のようなものに、春霞は思わず後ずさろうとした。しかし次郎太刀の腕がしっかりと春霞の体を抱きしめていて、逃げることもできない。
「それを決めるのは他所の本丸から移ってきたお前ではない」
言ったのは長谷部だ。次郎太刀の首筋に刀を当てた長谷部の眼光はさっきよりも鋭い。
「審神者に刀剣男士が必要なように、本丸には審神者が必要だ。まずはこの本丸が正しく機能するようにしなければ、何事も始まらない」
そうか、と春霞は思った。
望まれて審神者になるのとは少し違うかもしれない。自分は、ここでまた監禁されるのだろうか。前の本丸の時のように。そうして、今度は刀剣男士のために鍛刀をさせられることになるのだ。この本丸を維持するために。
「お二人とも、無粋ですな。弟たちが怖がっておりますゆえ、ここはお引きください」
様子を見ていた一期一振が、穏やかな声で二人の間に割って入ってくる。
他所の本丸から移ってきたとは言うものの、一期一振はなかなか信頼されているらしい。
そろそろと長谷部が刀をおさめ、次郎太刀は春霞の体からゆっくりと腕を離していく。
自由になった春霞は、よろよろとたたらを踏んだ。いつの間にか隣にきていた薬研が、春霞の腕を取って支えてくれる。
「私の弟の薬研藤四郎は春霞殿に助けられ、布由の国から無事逃げおおすことができました。本当に異形のものを鍛刀し得る悪しき者なら、弟を助けるようなことはしますまい」
いかがですかな、と一期一振が広間に集まった全員の顔をぐるりと見渡す。
「本当に大丈夫なのかよ?」
否定的な声をあげたのは、同田貫だ。
「二人とも、機会を狙っているだけかもしれない。ここを、第二の布由の国にしようとして、虎視眈々と隙を狙っているだけだとしたらどうするんだ」
何人かの刀剣男士が、同田貫に同調してボソボソと声をあげた。
きっと、いきなり現れた春霞を審神者として認めるには彼らには難しすぎるのだろう。
「その時には、私が全責任を取りますゆえ御心配には及びません」
涼しげな顔でそう言ってのけると一期一振は、もう一度ぐるりと広間に集まった刀剣男士の顔を見渡す。
「……本丸に審神者は必要だ。いくら元近侍の俺が頑張っても、審神者のように振舞うことはできないからな」
はあ、と重苦しい溜息と共に長谷部が吐き出す。
おそらくこの言葉は彼の本音に近いだろう。刀剣男士がいくら優秀だとしても、審神者の真似事をするのと審神者になるのとでは大きな違いがある。そこのところを長谷部は正しく理解している。自分の部をわきまえている。
「では……」
「しばらくは様子見とする」
考えた末の、と言うよりは、どうあっても長谷部は春霞に審神者となってもらいたがっているようだった。
「それから、春霞殿には定期的に手入れと鍛刀を行ってもらうこととする。これは、誰が審神者になってもしなければならない責務のようなものだから、勝手は許しませんよ」
しっかりと春霞に釘をさしておくことも忘れない。
有無を言わさない勢いでそう告げると長谷部は、広間にずらりと揃う刀剣男士のほうへと向き直った。
「今日、この時から春霞殿がこの波留の国本丸の審神者になられる。皆、誠意をもって接するように」
長谷部の言葉に、刀剣男士たちの感情がざわめくのを春霞は感じた。
純粋に好意を持って春霞を迎え入れてくれる者もいれば、そうではない者もいる。特に他所の本丸から移ってきた者の中には、次郎太刀のように懐疑的な目で春霞を見る者も少なくはない。
やっていけるのだろうかと春霞は不安を感じながらも、広間に集まる刀剣男士をぐるりと見渡した。
やっていくしかないと、胸の内で呟く。
審神者のいない本丸では、手入れもままならなかったらしいことが窺われたからだ。皆、身なりを整えて小ざっぱりとした様子をしてはいても、ところどころに傷が残っている。ほとんどは軽傷だが、中傷らしき様子の者も中にはいる。それに、こんのすけの姿が見あたらないことも気にかかる。
「後でこの本丸を案内しますから、それまでは部屋でお寛ぎください」
長谷部のきびきびとした物言いに、春霞は黙って頷いた。
自分はまだ、正式にこの本丸の審神者になったわけではなかった。そう思うと悲しいような、やりきれないような気持ちがする。
追い出されなかっただけマシということだろうか。
のろのろとした足取りで部屋へ戻ると春霞は、重苦しい溜息をついた。
(2015.7.26)
|