春遠く4

  単身で遠征に出ていた山伏国広を呼び戻した波留の本丸は、賑やかな空気に包まれていた。
  御手杵の快気祝いと春霞の審神者着任祝いとを兼ねて、広間でちょっとした宴会を開くことになったのだ。
  燭台切光忠と加州清光の二人が中心となって、山のような料理を用意してくれる予定だ。
  春霞も手伝いを申し出たが、燭台切と加州の二人に拒まれた。まだ、厨に入れてもらえるほどに信頼されてはいないということだろうか。広間の準備の手伝いを申し出た時にも断られたから、きっと自分はまだ、この本丸には溶け込めていないのだろうと春霞は思う。
  仕方なく、短刀たちに本丸を案内してもらうことにした。初日の本丸の案内の続きだ。
  今日は、小夜左文字と秋田藤四郎、それに平野藤四郎の三人が案内薬を買って出てくれた。
  初日の続きとばかりに手入れ部屋から始めて、その続きで鍛錬所へと足を運ぶ。
  小綺麗に片付けられた鍛錬所には、道具が揃っていた。きっと長谷部がいつでも鍛刀ができるようにと、毎日手をかけてくれているのだろう。
「綺麗ねえ……」
  感心したように春霞は呟いた。
  叡拓がやってきて以来、布由の本丸の鍛錬所は寒々とした空気しか感じられなくなっていた。そこで作り出される異形のものたちの振り撒く悪意と瘴気のようなものがどんよりと淀んだ空気を作り出し、本丸だけでなく市中へも流れ出ていった。
  そんな印象しか持っていなかったから、ここの鍛錬所の清潔で整えられた様子が春霞の目には、とても好ましく映った。
「前の主は、ここによく籠っていたよ」
  小夜が言った。
「考え事をするにはここが一番だ、っていつも言ってた」
  小夜の言葉に、春霞は確かに、と頷いた。これだけすっきりとした場所なら、考え事には最適かもしれない。きっとここで一人になって、何時間でも考え事をしてたのだろう。
  道具の並べ方やいつでも鍛刀ができるように整えられた状態を見る限りでは、前の審神者は几帳面な人だったようだ。
「前の主はどんな人だったの?」
  春霞は小夜に尋ねかけた。
  長らく不在が続く中でも、混乱をきたすことなく波留の本丸は機能していた。長谷部のたゆまぬ努力も大きかったが、そうさせるだけの何かを前の主は持っていたのだろう。それはおそらく、信頼だとか愛情だとか、そういった感情が常にこの本丸を満たしていたことを証明している。
「主は……あまり笑わなかった。いつも怒ってばかりで、しょっちゅう癇癪を起こしてた。でも、優しい人だった」
  前の主のことを思い出しているのだろうか。小夜の背後でぶわっと桜の花びらが舞い散る。
  こんなふうに慕われていたのだから、本当はきっと優しい人だったに違いない。
「そう言えば、主様は鍛刀はしないのですか?」
  春霞が前の審神者に思いを馳せていると、不意に平野藤四郎が声をかけてきた。
「鍛刀をすれば、仲間が増えます。そうしたら、主様の味方になってくれる刀剣男士も増えます」
  平野は、彼なりに春霞のことを心配してくれているのだろう。
  秋田もそうだ。平野の言葉に頷くと、同じように「鍛刀すればいいのに」と言ってくる。
  確かに、鍛刀をして刀剣男士をこの世界に顕現させると、鍛刀した審神者に彼らはかしずく傾向にあるようだ。だが、春霞はそうまでして自分の味方を増やしたいとは思ってはいなかった。
  仲間ならこの本丸の刀剣男士たちがそうだし、味方なら薬研がいる。長谷部に小夜、それに一期一振とその弟たち。同田貫と御手杵の二人もそうだ。皆、春霞の言い分が正しい限りは味方になってくれるだろう。
「うーん……そういうのは、ちょっと……」
  春霞は口籠った。
  鍛刀をすることで、無条件で春霞のことを信じてくれる者が増えるというのは、あまりいただけないお話だ。少し狡いような気もする。
「鍛刀が怖い?」
  ちらりと、小夜が春霞のほうへと視線を向けてくる。
  確かに、怖くないと言えば嘘になる。自分がしてきたことを思うと、それだけで背筋に震えが走ることもある。どうしても布由の国でのことを思い出しそうになるから、嫌だったのだ。だが、審神者としての責務を果たすのなら、避けてばかりではいられないだろう。
「そうじゃないんだけど、まだその時じゃないような気がするだけ」
  近いうちに、そうも言っていられなくなるだろう。
  長谷部は、手入れ部屋の稼働と新しい審神者の手による鍛刀を望んでいる。
  刀剣男士が増えれば、当然戦力になる。新たな戦場へ出かけていくことができるようになるし、遠征だってこれまで行けなかったところへ行くことができるようになるだろう。
  だが、春霞はそういったこと以上に気にかけていることがあった。ここの本丸はまだ発展途上の小さな本丸だから、前の審神者が失踪した理由を、何より知りたいと思っていた。どうしていなくなってしまったのか、根本のところだけでも確かめることができたなら、と春霞は思う。
「その時、って、どうやったらわかるの?」
  またしても小夜が尋ねてくる。
「ええと……目が覚めた時の感覚だったり、虫の知らせだったり、縁起物だったり。そういったものを理由にして、鍛刀する人もいるわね」
  しかし春霞はそういったことに頼らずに鍛刀をしたいと思っていた。
  日々の日課のひとつのように、ただ粛々とこなしていく。気持ちを込めて鍛刀すれば、きっといつか……と、ここまで考えて春霞はドキリとした。
  自分はまだ、陸奥を求めている。初期刀として自分のそばにいてくれた陸奥を、再びそばに置きたいと思っているのだ。未練がましい思いは、持たないほうがいいだろうに。
「まあ、そのうちしなきゃならなくなるでしょうね」
  溜息をつくと春霞は、足早に鍛錬所を後にした。

          ※※※

  鍛錬所を後にした春霞たちは、中庭が騒がしいことに気が付いた。
  宴会の準備でざわついているというわけではなさそうな様子に、春霞は怪訝そうな顔をする。
「行ってみましょう」
  短刀たちを引き連れて、春霞は中庭へと出た。
  ちょうど、演練から戻ってきた者たちが言葉を交わしながらこちらへやってくるところだった。
「よう、春霞」
  春霞の姿に気付いた同田貫が、真っ先に声をかけてくる。
「お帰りなさい、同田貫さん。演練、ご苦労様」
  小さく手歩振って返すと、同田貫は嬉しそうにニカッと笑みを浮かべる。
  隣に立つ御手杵も、春霞のほうへと手を振ってくる。
  二人とも泥だらけの傷だらけだったが、楽しそうだ。
「随分とはしゃいできたのね」
  まるでどこかの悪餓鬼みたいにドロドロになって、それでも嬉しそうにしているところがなんだか可愛らしい。
「久しぶりに暴れてきたぜ」
  そう言って同田貫は、満足そうな笑みを満面に浮かべる。
「御手杵さんは、もう大丈夫なの?」
  春霞の手入れを終えてから御手杵は、手合せに演練にと、体を動かすことが楽しくて仕方がないといった様子をしている。まるで長いこと床に伏せっていた分の遅れを取り戻そうとしているかのようだ。
「大丈夫だよ。早いとこ勘を取り戻して、また戦に出なきゃな」
  そうね、と頷いて春霞は、ちらりと二人の向こう側を通り過ぎていく次郎太刀に視線を向ける。広間で姿を見た時から、彼の血色の悪さが気にかかっていた。今日、どこか歩きにくそうにしているのを目にして春霞はそれがいっそう気にかかるようになった。
  そう言えば、広間に集まった者の中には軽傷から中傷を負ったままの者も何人かいたはずだ。彼らの傷を放置しておいていいはずがない。
「手入れ部屋、解放しようか」
  ポソリと春霞は呟く。
  気持ちの整理がつくまでは鍛刀はまだまだ無理だったが、手入れならいくらでもできる。不自由を感じている者がいるなら、一日のうちで時間を決めて少しずつ手入れをしていったほうがいいだろう。
「え?」
  春霞の声を聞き取ることのできなかった御手杵が、「なに?」と尋ねてくる。
「手入れ部屋よ。同田貫さんも御手杵さんも、手入れしてあげる」
  半ば強引にそう告げると春霞は、二人の腕を掴んで手入れ部屋へと足を向けた。
  こうやって二人を手入れすることで、自発的に他の刀剣男士が手入れ部屋に足を向けやすくしようというのだ。
「御手杵さんは特に、手入れ後の様子も知っておきたいしね」
  春霞の言葉に、二人とも納得したように頷いた。



  ふたつある手入れ部屋を両方開け放ち、手入れをした。
  それぞれの部屋に同田貫と御手杵が入り、今日は平野と秋田の二人が春霞の手伝いをしてくれることになった。
  面白いことに、御手杵の重傷の跡は再び発現していた。薬研や陸奥を手入れした時にはなかった現象だ。
  もしかしたら元の審神者が異なると、完全に治癒するまでにかかる時間はより長く要するのかもしれない。
  二人の手入れを行いながら、春霞は彼らの状態などを平野と秋田の二人に書き止めさせた。後々、これが必要になってくることもあるだろう。
「御手杵さんの傷は、完治するまでにまだもう少しかかるかもしれないわね」
  手入れをしながら春霞が告げる。
「うえぇ……治ったわけじゃないのか?」
  うんざりとした様子で御手杵が返すのに、錬度が高くなるにつれて手入れに時間がかかるようになることはわかりきったことだからと春霞は言葉を濁すにとどめる。異なる審神者の手入れを受けても時間がかかるかと言うと、まだはっきりと確証を得たわけではないから、もうしばらく様子を見なければならない。
「ちゃんと治ってきてるわよ。ほら、さっきの演練での怪我はもう治ってる」
  一見すると、演練で受けた傷は綺麗に修復されたようにも見える。だがこれが、後になってどのような影響を及ぼすかはまだわからない。しばらくは御手杵の様子に注意を払うべきだろう。
「じゃあ、御手杵さんの手入れはこれでおしまいね」
  最後に叩いた打ち粉を拭い紙で丁寧に拭き取ると、春霞は隣の手入れ部屋へと移動する。
  同田貫のほうは大きな傷はないものの、春霞がここへ来る以前に受けた傷が放置されたままとなっており、これも手入れに時間がかかることとなった。それでも同田貫自身は、「御手杵の重傷に比べたら軽いもんだ」と豪語している。
  こちらでは秋田に手伝ってもらって同田貫の手入れを進めていく。
  途中で加州が部屋の様子を覗きに来ると、そこから他の刀剣男士たちの怪我の程度の話へと会話が移っていった。
  春霞が思ったとおり、刀剣男士の中には怪我をした状態のままで活動を続けている者もいた。軽傷、中傷の者なら急を要するわけではないだろうが、重傷の者で活動を続けている者もいるらしい。こちらはすぐにでも手入れ部屋に来てもらわなければならなかったが、春霞に反感を抱いている限りは無理強いはできない。
「ヤバいと思ったら自分から来るようになるさ」
  同田貫の言葉はあっさりしていたが、それでは困るのだ。
  もし、手入れが間に合わなかったらどうするのだと春霞は思う。
  春霞の初期刀だった陸奥は布由の本丸で、手入れする間もなく異形のものたちに折られてしまった。
  あの時のことを思い出すと、怖くてたまらなくなる。
  あの喪失感は、きっと刀剣男士たちには理解することはできないだろう。
「それよりさ、あんた。その、同田貫さん、ての、もうちょっと何とかなんねえか?」
  気持ち悪りぃんだよ、と正面切って告げられる。
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
  少しムッとしながら春霞は返す。
  呼び方が気持ち悪いだなんて言われるとは思いもしなかった。
「そうだな……」
  同田貫が口を開きかけたところに、燭台切がやってきた。
「たぬき君、内番の時間だよ。君、今日は畑当番だっただろう?」
  手入れ部屋の入り口からひょいと顔を覗かせて、燭台切が声をかけてくる。
  たぬき君、と燭台切に呼ばれた途端、同田貫の顔が真っ赤になった。
「おまっ……その呼び方はやめろ、っつってるだろう!」
  勢いよく立ち上がった同田貫は、燭台切に掴みかかっていく。
「……可愛い」
  手入れ道具の片づけは秋田に任せたまま、春霞が呟いた。
「そう思う? 俺たちの元の主は同田貫のことを『たぬ君』て呼んでたんだけど、やっぱり可愛いと思うよね?」
  嬉しそうに加州が同意を求めてくる。
「あたしも、たぬき君って呼んでもいい?」
  せいいっぱい可愛く見えるように小首を傾げて春霞が尋ねると、同田貫はばっさり切り捨ててきた。
「駄目だ。その呼び方をするのは許さねえ」
  厳めしい顔をさらにしかめて同田貫が言う。
「じゃあ……同田貫くん」
  譲歩して春霞が言うと、同田貫はしかめた顔を少しだけ緩めた。
「俺はたぬきじゃねえ。覚えとけよ」
  そう言って春霞にくどくどと説教を垂れかけた同田貫の腕を、燭台切が引っ張る。
「悪いんだけどね、たぬき君。畑から野菜を収穫してきてくれないかな。宴会の料理に使いたいんだ」
  言いながらも燭台切は、同田貫の背中をぐいぐいと押して手入れ部屋から連れ出してしまう。
「だーかーら、俺は、たぬきじゃねえ!」
  同田貫の雄叫びが響き渡る。
  部屋に残された春霞は秋田と顔を見合わせた。
  騒ぎに気付いた御手杵がこちらの手入れ部屋へとやってきて、春霞に愛嬌のある眼差しを向けてくる。
  どちらからともなく笑いが洩れた。
  燭台切に連れて行かれる同田貫はしきりと何事か叫んでいる。その声を聞きながら春霞は、御手杵と顔を見合わせて笑った。
  声を上げて笑うと、さらにお腹の中から新たな笑いが込み上げてくる。
  布由の本丸では笑うことを忘れたようになってしまっていたから、こんなふうに声を上げて笑うのは随分と久しぶりのような気がする。
「御手杵さんは、なんて呼んでほしい?」
  笑いながら尋ねると、御手杵は「何でもいい」と返してきた。
  次第に小さくなっていく同田貫の声を聞きながら春霞は、もっと他の刀剣男士たちとも言葉を交わそうと決意した。



(2015.7.29)


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