春遠く9

  ゆっくりと春が近付いてきている。
  いつの間にか本丸の中庭では、桜が咲いていた。少し前までは蕾だったように思っていたが、数日前には夜桜見物ができるほどの盛況ぶりだった。
  今は東風に吹かれて花も半分以上が散ってしまっている。
  花が散るのは思っていたよりも早い。こんなに早いものだったろうかと春霞は、自室の前の中庭を眺めながらぼんやりと考える。
  特別編成部隊での出陣は、順調なようだ。
  初日に加州があわやという状態になったが、それ以降は第一部隊も第二部隊も慎重な動きで進んでいるらしい。
  心配していた次郎太刀の手入れに関しても、加州が怪我をしてくれたおかげで何とか完遂することができた。怪我の功名というのは、こういうことを言うのだろうか。
  あれから春霞は鍛刀を三度、行った。
  そのたびに一期一振が近侍を務めてくれているが、そろそろ別の者に近侍をしてもらいたいと春霞は思っている。
  鍛刀で新たに波留の本丸に加わった刀剣男士は、宗三左文字に乱藤四郎、それににっかり青江だ。それぞれすでに堀川国広が指揮する第四部隊にて、戦場を回り始めている。第二部隊については当初の予定通り、堀川が抜けた後に次郎太刀を参入させた。
  特に何事もなく順調すぎることが、春霞には気がかりだった。
  あまりにもうまくいき過ぎてる。
  いや、唯一うまくいっていないことがあるとすれば、それはこんのすけからの報告のみだ。
  こんのすけは、よくやってくれていると思う。
  ただ、このまま信用し続けてもいいものかどうか、春霞の中に微かな疑問が生じてしまったのだ。
  政府との連絡係、審神者付きの水先案内人としてこんのすけは存在しているが、彼らはどこの本丸にも存在している。彼らが個々に意思を持って行動しているのであるのか、それとも機械的かつ集合体的な存在なのかが、春霞にはわからない。あの狐の姿を目にしてどうして機械的などと思ったりしたのかは自分でもよくわからないが、両手放しにこんのすけのことを信用するのは危険なことのように思われた。
  万が一にだが、波留の本丸のこんのすけが、他の本丸のこんのすけと意思の疎通ができるのであれば、春霞の考えていることは他の本丸の審神者にも筒抜けになるかもしれない。政府については言うまでもなく、だ。
  こんのすけにしかできないことをやらせておいて、それとは別にこんのすけが知り得る情報を別の経路から手に入れることができるなら、少しは安心できるだろうか。
  どうしたものかと春霞は考える。
  自分が動くわけにはいかないのが辛いところだ。
  審神者たる自分は、この本丸から動くことができない。自分が動けば、想定外の事象が起こるかもしれない。そんな危険を冒すことはできない。また、春霞がこの本丸を出ることで新な審神者がやって来ないとも言い切れなかった。だから自分は、ここから動くことができないのだ。
「鍛刀を行う間隔を、もっと短くして……」
  それから、刀剣男士の育成と配備。適切な部隊に参入させることで、あまり時間をかけなくても錬度が上がるようにする必要がある。
  春霞は親指の爪を噛み締めると、眉間に皺を寄せた。
  大太刀、太刀、槍、薙刀……春霞自身が鍛刀した大太刀は、蛍丸だけだ。この波留の本丸には大太刀はおらず、春霞が来るまでは名津の本丸からやってきた次郎太刀だけが大太刀だった。即戦力になり、力のある大太刀の数が少なすぎる。これまで以上に鍛刀に時間をかけて、丁寧に作業をしたほうがいいだろう。もしくは、近侍を別の者に頼んでみるかだ。
  もう一度ガリ、と爪を噛むと、爪の先がふやけて伸びたような気がする。薬研に見付かったら怒られるだろう。
  春霞ははあぁ、と溜息をつくとまた中庭へと視線を戻す。
  どこからやってきたのか、雀が餌を探して囀っている。
  こんな景色にも春を見出せるようになった。
  やることは山のようにあったが、少しずつ時間は過ぎていく。季節もだ。
  それと同じように自分も、少しずつ審神者としてこの本丸で必要とされてきているだろうか。
  必要とされる日がいつか来ればいいなと、春霞は思った。



  三度目の秘密会議は白昼、春霞の部屋で行われた。
  今回は長谷部と燭台切の二人だけにしか声をかけなかった。
  それは何もこの二人を特別扱いしているからというわけではなく、事情を知る者が少なければ少ないほどいいだろうと春霞が考えてのことだった。
「……それでは主は、この本丸の中に情報を洩らす者がいると。そうお考えなのですね」
  呼び出されたのが自分と燭台切の二人だけだと知った長谷部が、険しい表情で尋ねてくる。
「まだわかりません」
  誰が、とは春霞は言わなかった。
  こんのすけが怪しいと口にするのは簡単だったが、自分の気のせいかもしれないのに迂闊なことを告げるのは躊躇われた。証拠があれば、追及もできる。だが、証拠もないのにそのようなことを安易に口にしてはならない。そんなことをすれば、この本丸の中で誰もが疑心暗鬼になってしまうだろう。
「ところで、秘密会議に参加している他の刀剣男士たちには知らせなくてもいいのかい、このこと」
  燭台切が不安そうに尋ねかけてくるのに、春霞は静かに頷いた。
「知らせるには早計すぎるかと思います」
  こんのすけが怪しいと決まったわけではない。まだ、誰にもそれは伝えていない。
「では何故、俺たち二人にこのような話をされるのですか」
  聞きたくはなかったとでも言うかのように、長谷部が忌々しそうに言葉を吐き捨てた。
「それは……秘密会議に参加している者たちとは別に、あたしの指示で動いている者がいるということを貴方がたに知っておいてもらいたかったからです。おそらく次回の秘密会議では、詳細を伝えられるかと思います」
  今ここで全てを話してしまうことはできない。
  だが、春霞の密命を受けて動いている者が持ち帰る報告によっては、何もかも洗いざらい話してしまわなければならない可能性も出てくるだろう。
「何故、僕と長谷部くんの二人なのかは教えてもらえないのかな?」
  燭台切の隻眼が、怖いぐらい真っ直ぐに春霞を見据えてくる。
「長谷部さんは、この本丸で長いこと刀剣男士たちを纏めてきました。その長谷部さんが、波留の本丸が不利になるようにことはしないと思ったからお呼びしました。燭台切さんは、あたしたち二人の証人です。この秘密会議が長谷部さんとあたしの二人だけで話し合われたわけではないということを、皆に証言してもらうためのいわば人質のようなものです」
  刀剣男士たちは、審神者である春霞を傷付けることはできない。政府との契約締結時にそのように聞かされているから、おそらくそうなのだろう。だが、今のこの状況を考えると、この話をするにあたって春霞だって自分を守れるものが欲しかった。長谷部と春霞の二人だけで勝手に決めた話と邪推するものが出てきた時の、ちょっとした保険のようなものものだ。
「嫌だなぁ……長谷部くん、何かあってもうまくやってくれよ」
  嫌がるようなそぶりをしながらも燭台切のその一言は、場を和ませてくれた。彼が事情を知っている限り、何かあっても大丈夫だろう。そんな感じがする。
  春霞はほっとして息を吐き出した。
  後は、密命を受けた者がうまくやってくれることを祈るばかりだ。
  春霞には手は出せない。
  仲間の刀剣男士たちの協力を求めることも、密命を受けた者にはできない。孤独で、寂しい任務だ。
  もしかしたらその密命は、彼にとって辛い選択を迫るものになるかもしれない。
  それでも、と春霞は思う。彼だからそこ、そんな密命をうまくやりおおしてくれるだろう。きっと、春霞にとっては重要な情報をもたらしてくれることになるはずだ。

          ※※※

  遠征に出た第三部隊が無事に任務を果たし戻ってきたのは、その日の夕刻のことだった。
  戻ってきた部隊の面々を見れば、今回の任務がうまくいったことは一目瞭然だった。
  春霞は第三部隊の刀剣男士たちを労い、いつものように一人ひとりに飴や饅頭の小さな包みを手渡していく。
「遠征ご苦労様でした」
  顔を見て、目を見て、彼らが無事なことを確かめていく。
  遠征で怪我をすることはほとんどない。だが、ごくたまに出陣で怪我をしたまま手入れをせずに遠征に出ようとする者がいることに春霞は早くから気付いていた。
  まだこの本丸に慣れない春霞を気遣ってのこともあれば、ただ怠惰で手入れをしない者もいる。
  日頃から注意して様子を見ておけば、そういったことを減らすこともできるだろう。
  手を握り、声をかけて、春霞は菓子を渡していく。
  今回の遠征には、二つの目的があった。ひとつは、これまで隊長を務めていた小夜左文字から、平野藤四郎に役目を譲ったこと。これは、誰が隊長職に就いても滞りなく任務を果たすことができるようにとの配慮からだ。誰か一人を隊長にするのもいいが、誰もが隊長として任務を果たすことができるようになっているほうがいいに決まっている。そういう意味では、今回の遠征は刀剣男士たちの隊長としての経験を上げるための試験的な遠征でもあった。
  ふたつめの目的は、春霞の密命を受けた刀剣男士に、無事に情報を持ち帰らせることにあった。
  最後に小夜と平野が残った。
  平野には隊長としての初の遠征だったわけだから、特に気持ちを込めて労いの言葉をかけた。それから褒美の菓子を取らせ、春霞の部屋を下がらせる。
  小夜からは隊長としての平野の様子を報告してもらい、そのついでといった感じで遠征先のことへと話題は移っていく。
「遠征先は、どうだった?」
  今回、春霞が第三部隊の遠征先に選んだのは、遠江国、三河国、美濃国へと遠征隊を向かわせる「西上作戦」という作戦のためだった。小夜を隊長から外したのは、春霞の密命に重きを置いたからだ。
「まだ雪の残っているところがあったよ」
  小夜の瞳が真っ直ぐに春霞を見つめ返してくる。
「そう。寒い中、大変だったわね。我儘を聞いてくれてありがとう」
  春霞が言うと、小夜は黙って首を横に振った。
「布由の本丸の噂はあちこちで聞いたよ。前に山伏国広が言っていたとおりだった」
  布由の本丸が焼け落ちた噂は、各地に広まっていると小夜は告げた。そして新たに再建された本丸が、今では異形の巣窟となっていることも小夜は言い加える。
  驚くべき速さで再建された布由の本丸の支配者は、叡拓だ──あの時、焼け落ちる本丸の梁が叡拓の上に落ちてくるのを見たように思ったが、やはり無事だったのだ。
「頭の痛くなるような話ね」
  うぅっ、と小さく呻くと春霞はこめかみを押さえる。
  自分が相手にしなければならないのは、叡拓、政府、こんのすけ……考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。
「あと、布由の本丸の中で……」
  小夜がそう言いかけた瞬間、春霞はビクッと肩を揺らした。
  それから、いつになく素早い動きで小夜の両肩をがしりと掴むと、大きく揺さぶった。自分よりもほっそりとした華奢な体が、かくかくと揺れる。
「駄目よ、小夜。布由の本丸に入り込んだの? どうしてそんな危ないことを……!」
「春霞の命令だったから」
  小夜は静かに告げた。
「春霞が、布由の本丸がどうなったかを確かめてほしいって言ったんだ。僕はその言葉どおり、確かめてきた。噂だけでなく僕自身のこの目で、どうなっているのかを見てきたんだ」
  確かめてきてほしかったのは事実だ。だが、焼け落ちた布由の本丸がこんなに早く再建されるとは春霞は思ってもいなかった。
「綺麗だったよ。元の外観がどんなだったかは僕は知らないけれど、黄金色の本丸だった。中には異形のものがわんさといて、叡拓を守っているという話だった」
  春霞はゾクリと全身を震わせた。
  叡拓は、異形のものをいまだに鍛刀し続けているのだろう。
「それから、布由の本丸にもこんのすけがいたよ。僕が知っているこんのすけと同じかどうかがわからなかったから気付かれないようにしたけれど」
「こんのすけが?」
  波留の本丸のこんのすけだとしたら、春霞の予感は当たっていたことになる。だが、布由の本丸のこんのすけだとしたら、叡拓付きのこんのすけになるのだろうか?
  小夜は頷いて、話を続けた。
「少し前に、新しい審神者が布由の本丸に招かれたらしいよ。足の悪い審神者で本丸の一室に閉じ籠ったままらしいけれど、叡拓を手伝って鍛刀をしているのは間違いない」
  春霞のかわりに叡拓は、どこからか審神者を連れてきたのだろう、おそらく。
  叡拓自身は鍛刀ができないと言っていた。それは、彼がこの世界にいるべき存在ではないからだ。だから春霞たちのような正式な審神者を通して鍛刀を行う。ただしそれは、刀剣男士たちを顕現させるためではなく、異形のものたちを増やすためだ。
  しかし、増やしてどうするのだろう。
  異形のものばかりで本丸をいっぱいにして、叡拓は何をしようというのだろうか。
「その、新しい布由の本丸の審神者は何者だかわかる?」
  春霞が尋ねると、小夜は難しい顔をした。
  怖いほどに冷たい眼差しが春霞を見据える。小夜のこの視線だけで斬られるのではないかと、春霞はゾッとする。不安や不信、それに拒絶のような負の感情が、春霞のほうへと一気に押し寄せてくるような感じがする。
「──名前は、冬湖。この波留の本丸の審神者だった人だよ」
  全ての感情を押し隠した小夜の声は、暗く無機質のものだった。



(2015.8.13)


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