雪のない冬に物足りなさを感じながらも、日々の生活は飛ぶように過ぎていく。
サンジの気持ちが落ち着くのを見届けてから、チョッパーはバラティエへと戻っていった。
別れの時に、春まで待って、自分と一緒にバラティエに戻らないのかと尋ねると、笑ってかわされた。今の時期ならばまだ、帰ることができるとチョッパーは強い口調で言い張った。今でなければならない、とも。
ロビンのお墨付きがあるチョッパーのことだから、サンジも、春まで残るようにしつこくすすめることはできなかった。きっと、はしこいチョッパーのことだから、大丈夫だ。彼ならば、自力で何とかバラティエに帰り着くことができるだろう。
そう思った途端、自由にならない自分がひどく役立たずなように思われた。
自分一人では何もできず、じっと、誰かが手をさしのべてくれる自分は、なんとみっともないのだろうか。
ゾロに助けられ、エースやシャンクス、ベックマンに気遣われ、ゼフやロビンに守ってもらっている。
こんな自分が、バラティエ公国の後継ぎなのだと思うと、情けなくて、涙が出そうだった。
もっと、強くなりたい。
自分一人ででも立っていられるように、誰よりも強くなりたい。
そう思うといても立ってもいられなくなり、子どものようにサンジは自室へと駆け込んでいった。
後ろ手に閉めたドアにもたれると、背を預けてそのまま、ズルズルと床に座り込んだ。
膝を抱え、両手で顔を覆った。
目尻から涙が零れだし、サンジは嗚咽を洩らして泣き続けた。
無力さと、弱さと、幼さに押し潰されそうだった。
か細い嗚咽が口の端から洩れると、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
今にも、胸が張り裂けてしまいそうだ。
泣きながら、強くなりたいと、サンジは心の底から切に思った。
「ふむ。なかなか筋がいいな」
ぽつりと呟いたベックマンの言葉も、今のサンジの耳には届いていない。
年若い少年兵士たちに混じったサンジは、中庭でベックマンの指導を受けている。
武器の扱いを始めとする訓練は、サンジにとってちょうどいい運動になった。
バラティエ公国でも、こういった訓練は常時行っていた。エースとルフィの兄弟がバラティエに滞在していた頃には、サンジも一緒に訓練を受けていた。
訓練に出なくなったのは、補佐官がやってきてからのことだ。ちょうどあの頃から、サンジは補佐官の処方する薬を服用しだした。まさかあれが、媚薬のたぐいだとも気付かずに服用していたあの頃の自分はなんと馬鹿なのだろうと、サンジは思う。
薬のせいで訓練を途中でやめてしまったとはいえ、ひととおりの武器の扱いは心得ている。
幼い頃からゼフ王の近くにいて、彼のやり方を見てきたサンジだ。幸いなことに基礎は叩き込まれていたからか、だいたいのことは説明を聞いただけで理解することができた。少しずつ体力が戻ってき今は、体も何とかベックマンの指導についていっている。
目的も、ある。
あとは、この体力がどこまで続くか、だ。
傍目にどう映ろうとも、自分の思い通りに動かない体に、サンジは苛々していた。
どれだけベックマンやエースに褒められようとも、関係のないことだった。
武器を扱う訓練、体技を扱う訓練、そのどちらにおいても、持久力の続かない自分の体がもどかしい。
訓練中は淡々と言われたことをこなしながらも、その後で一人自棄を起こすことも少なくはなかった。
ゾロのように強くなりたい。
そう思う自分の気持ちは本物だが、何かが違うということもまた、サンジは理解していた。
ゾロと自分とでは、決定的に何かが違っている。
その違っている何かが、サンジにはわからない。
いちばん大切な、核心となる部分のものが、自分でもわからないのだ。
どうしたらいいのだろう。
どうすれば、自分はこの殻をうち破ることができるのだろうか。
自室へと続く廊下を歩きながら、サンジはぎゅっと両の拳を握りしめる。
比較的、気候の穏やかなフーシャでもいよいよ冬の寒さが厳しくなってきている。この寒さが過ぎれば、すぐに春がやってくる。
それまでに自分は、強くなることができるのだろうか?
バラティエに戻り、ゼフ王と共に戦うことはできるのだろうか?
唇を噛み締め、サンジは長い長い廊下を歩き続けた。
春になったら、フーシャを出る。
時折、サンジはそう口にするようになった。
どこか思い詰めたような、苦しそうな表情をしてサンジが言うのに、誰もがいい顔をしなかった。
まだ、早い。まだ、バラティエに無理を押してまでして戻る必要はないと、誰もが口々に返した。
それがさらにサンジの中で焦りとなった。
自分はそんなにも頼りないのかと、ひどく悲しくなった。
ゾロとの距離は、いまだに埋まらない。
出会った時からサンジは、ゾロとの間に距離を感じていた。
自分にはできないことを易々とこなしていくゾロに、憧れてもいた。
いつか自分もゾロのように強くなりたいと思いながら、彼のように思い切りのいい行動に出ることができないでいる自分に、そしてなかなか思うように体のついていかない自分に、もどかしさを感じている。
何故、ゾロにできて、自分にはできないのだろう。
同じ人間だというのに、自分はこんなにも弱い。どう足掻いても、守られる側の人間でしかないのだろうか。
一度考え出すと、思考は止まらなくなる。
悪いほうへ、悪いほうへと考えは向かいだし、どこまでいっても、気持ちが浮上してくることはない。
もう、駄目だ。
どれだけ頑張っても、自分は駄目なんだ。
そう思うと、ますます自分が何もできない人間になってしまったような気がして、何をするにも気持ちがついていかなくなってしまった。
自分は、どうしてこんなにも駄目なのだろう。
何もできず、ただじっと、誰かが手をさしのべてくれるのを待つだけの人間に、いつからなってしまったのだろう。
こんな自分に、いったい、誰が手をさしのべてくれるというのだろう?
ちらちらと舞い降りる雪の欠片を、サンジはじっと図書室の窓から眺めている。
自分には、何ができるのだろうか。
このままではいけないと理解していながら、体はしかし、なかなか思うように動いてくれない。
ひとたび焦りだすと、焦燥感に追いかけられ、息苦しくなってくる。
やはり自分には無理なのだとサンジは思う。
唇を噛み締めてじっと窓の向こうを見ていると、中庭に人が集まりだしたのが眼下に見えた。どこかの国の隊商が到着したらしい。正面門を抜けて、幌の張られた馬車が城の中庭へと入ってくる。
女性や子どもたちが、こぞって我先にと隊商へと駆け寄っていく。
ぼんやりと眺めていると、幌の中から、フードを目深にかぶった少女が姿を現わした。ちらりと見えた髪は、鮮やかなオレンジ色。ナミだ。そういえばここ最近、彼女の姿を見なかったような気がする。
慌てて椅子から立ち上がると、サンジは図書室を飛び出していく。何故だかわからなかったが、彼女に会わなければいけないように思えたのだ。
サンジが中庭に到着すると、ウェストランド産の地味な色の衣服を身につけた彼女は、人目を避けるようにして庭の隅で水を飲んでいた。
目立たないようにそっとナミのほうへと、サンジは近づいていく。
「ナミさん……?」
掠れた声でサンジが尋ねかけると、フードの下のオレンジ色の瞳が悪戯っぽくサンジを見つめた。
唇の動きだけでナミは、サンジにそれ以上の言葉を発するのを止めた。飲み干した水が伝う口元を手の甲でぐい、と拭うと、ナミは中庭を後にする。ナミの後を追ってサンジもまた、足早に歩きだしていた。
歩きながらフードごと上着を脱いだナミは、サンジに手渡した。
「戻ってきていちばん最初に会えたのがサンジくんでよかった」
そう言って彼女は、艶やかに微笑んだ。
「バラティエからの密書を預かってきたわ」
ウェストランドの色褪せた衣服姿のナミは、謁見の間へと向かった。
もちろんサンジも一緒だ。
密書の内容を、サンジも知りたいと思った。自分の知らないところで、誰かの手によって何かが勝手に進められるのはごめんだった。
「ジジィが怪我をしたって聞いたんだけど……」
言いかけたサンジを軽く一瞥すると、ナミは謁見室のドアを真っ直ぐに見た。
「その話は、部屋の中に入ってからよ」
そう言われると、サンジはおとなしく従わざるを得なかった。
ここではサンジは、賓客でしかない。謁見室に入ることさえ許されるかどうか定かではない。
ナミの後について入室することができたとしても、シャンクスの言葉ひとつでサンジはすごすごと部屋から出ていかなければならないかもしれないのだ。
ドアをノックしてから、ナミは部屋に入った。一呼吸置いて、サンジも部屋に入る。
部屋の中にはすでに、シャンクスとベックマンが揃っていた。エースとゾロの姿もある。
「呼びに行く手間が省けたな」
と、ニヤニヤと笑ってシャンクスが言うのに、サンジは怪訝そうな顔を向けた。
それにしても、シャンクス以外は皆、何やら難しそうな表情をしているのはどうしてだろう。
「バラティエから密書を預かってきました」
全員の顔をぐるりと見回して、ナミが低い声で告げた。
腰につけた皮細工の小物袋の中から、何やらごそごそと取り出す。何枚かの折り畳まれた紙の束をナミは、シャンクスに差し出した。
「お前、読んでくれ」
そう言ってシャンクスは、ベックマンに顎をしゃくってみせた。
黙ってナミの差し出した紙の束を受け取ったベックマンは、密書に目を通した。表情をかえることなく、規則的に目が文字を追いかけていく。
重たい空気の中で、サンジは息苦しさを感じた。
胃がキリキリと痛みだし、無意識のうちにサンジは、自らの拳で胃のあたりを押さえつけていた。
文書の内容が気になった。何が書かれているのだろうか。何か、バラティエで思いもしなかったような変化があったのだろうか。それに、ゼフ王の容態は?
不意に目の焦点が合わなくなり、サンジにはあたりがぶれて見えだした。
立ち眩みを起こすと同時にふらりと足下が崩れたような感じがしたが、咄嗟のところで誰かに腕を掴まれていた。
「しっかりしろ」
ゾロの声が耳元で聞こえた。
すぐにエースがどこかから椅子を持ってきた。
「ほら、ここに座るんだ」
そう言われて、よろよろとサンジは椅子に腰をおろした。
「……バラティエは、南からの攻撃を受けたが退けたらしい」
ぽそりとベックマンが告げた。よく通る彼の声は、サンジの耳にもはっきりと届いた。
「南……?」
眉をひそめてエースが呟きを洩らす。
バラティエの南というと、ウェストランドだ。しかしウェストランドには他国に戦を仕掛けていくほどの戦力はない。何かの間違いではないのだろうか。
「正確には、東の連中だろう。川を越えて、いったんウェストランドに入り込んでからバラティエに攻撃を仕掛けていったらしい」
いったい、どんな利点があるのだろうかとサンジは思った。
ウェストランドの方角から攻撃を仕掛けたとしても、そうたいした損害を与えるには至らないはずだ。なんのために東の連中がバラティエに入り込もうとするのか、それがわからない。
「バラティエが海戦術に秀でていることを知っているんだろう」
そう言ってシャンクスは、手にした酒瓶から酒を煽り飲んだ。
「くれぐれも、継ぎの王子をよろしく頼むと書かれている」
ベックマンの言葉に、サンジは胃の底から酸っぱいものがこみあげてくるのを感じた。
バラティエは、ゼフ王をはじめとする皆は、いったいどうなったのだろう。
不安そうにベックマンを見遣ると、眼差しで心配するなと制された。
「バラティエの女官長は、女にしておくにはもったいないな」
手紙の束を丁寧に畳み直すと、なくさないようにベックマンは懐にしまいこんでしまった。
あの密書は、いったいどこにしまわれるのだろう。不安そうにサンジはベックマンの手元をじっと眺めている。
「よかったな、お前ら。春までにやることができたぞ」
嬉しそうにシャンクスが、エースとゾロの二人に視線を向けた。
To be continued
(2009.1.11)