翌朝はホテルで朝食をとり、新しい制服に袖を通した獄寺を連れて並盛中まで二人して出かけていくことになっていた。それにしてもいつの間に制服を用意したものやら。どうも、ビアンキやフゥ太にしてやられたような気がしてならない。
「俺……一人で大丈夫っス、十代目」
ホテルの部屋を出る直前になって、獄寺がポツリと呟く。
本心から言っているのかどうかははかりかねたが、綱吉は黙って獄寺の肩を抱いただけだった。
「タクシーで行こう。帰りは校門前まで車を寄越すから、今日だけは真っ直ぐ帰ってきてくれるかな?」
昨日の今日で疲れているだろうと思ったのだ。それに、獄寺を手放すことへの恐れのようなものが綱吉の中にはあった。いちど籠の外の世界を知ってしまうと、綱吉の元へは戻りたくないと獄寺は言うかもしれない。
政略結婚だとか、獄寺の実家への融資を前提とした養子縁組だとか、そんな鬱陶しい言葉を耳にするぐらいなら、いっそ沢田家を飛び出したいと獄寺が思ったとしても不思議はない。
少しでも快適に獄寺に過ごしてもらいたいと思うのは、外の世界へ獄寺の目を向けさせないようにするためだということは、綱吉自身、わかっている。そうでもしないと獄寺が、自分の元から去ってしまうような気がしたのだ。
「……わかりました」
獄寺はおとなしく頷いた。
並盛中の通学路の少し手前、あまり目立たない場所で綱吉と獄寺はタクシーをおりた。
登校時間には少し早いようで、学生の姿はほとんど見かけない。
無言のまま二人で並んで歩いていると、綱吉の腕に獄寺の腕が軽く触れた。
「……っ、すみません」
慌てて身を引くと獄寺は、綱吉よりも一歩下がった位置につく。
意識されているのは、夕べのことがあるからだろうか。綱吉はこっそりと苦笑すると立ち止まり、獄寺が自分と並ぶのを待った。
「校長室で挨拶をしたら、オレは帰るよ」
目を見て、綱吉は告げる。
「帰りは裏門側に車を回すように手配しておくから、忘れないように」
淡い翡翠のような綺麗な瞳はじっと綱吉を見上げている。綱吉の言葉を一言たりとも聞き逃すまいと一生懸命だ。
「どうしても学校には行なきゃなんねーんスか?」
そう尋ねる獄寺の口元は、わずかに歪んでいる。なにが嫌なのだろう、と綱吉は考える。新しい学校に放り込まれたことが気に入らないのか、それとももっと他に理由があるのか。
「中学、高校、大学と行ってもらうよ。それ以上通いたかったら、それでも構わない。ビアンキとの約束に含まれているからね。それとも……獄寺君は、今日だけでも学校を休みたい、って、そう言っているのかな?」
ん? と問いかけると、獄寺は困ったように目を伏せた。
「俺は……」
躊躇いながらも獄寺は、なにかを口にしようとしている。
だけど、言葉が出てこないようだ。
「とりあえず、今日は学校へ行くこと。ここが気に入らないようなら別の学校へ通えばいいから、行って、自分で並盛中の雰囲気やなんかを見てくればいいと思うよ」
中学時代の自分は、惨めで情けない状態から始まっている。ダメツナと呼ばれていたのも今となってはいい思い出だが、あの頃は自分の部屋に引きこもって学校へは滅多に顔を出さないこともあった。
それでも自分は、山本や京子、ハルや雲雀たちと知り合って、少しずつかわっていった。殻に籠もっていた日々を抜け出し、仲間たちと共に過ごすようになっていった。
こういうのは、タイミングの問題なのかもしれない。
どうやって自分が引きこもりがちの不登校から抜け出したのか、綱吉自身、あまりよく覚えていないのだ。
気づいたら周囲に仲間が集まっていて、学校へ行くことそのものが楽しくなっていたのだ。
「……わかりました」
今ひとつ納得いかないといった表情ではあったものの、獄寺は頷いた。
綱吉は、獄寺の肩に手を置いた。
「どうしても嫌なようだったら、帰ってから考えよう」
並盛中は綱吉の母校だ。綱吉としては、獄寺には並盛中に通ってほしいと思っていた。
獄寺を校長室まで送り届けた綱吉は、校長と教頭、それに担任に挨拶をすませるとさっさと学校を後にした。
校長室のようなところは、綱吉にとってはいつまで経っても慣れない場所だ。居心地が悪くて仕方がなかったのだ。
出勤の時間にはまだ少し早かったが、通学路の様子を眺めながらのんびりと歩いていたら、いつの間にか出勤時間になっていた。
綱吉がそのことに気づいたのは、フゥ太から携帯に着信があったからだ。
「ツナ兄、今、何時だと思ってんの?」
珍しく険を含んだフゥ太の声に、綱吉ののんびりとした気分は一転した。腕の時計に目を馳せると、時刻はとうに午前九時を過ぎていた。
いきなり現実の世界が綱吉の目の前に突きつけられたような感じだ。
「わ、ヤバっ!」
腕時計を何度も見つめ返しては、顔色を赤くしたり青くしたりと綱吉は忙しない。もたもたしていると、携帯電話の向こうでフゥ太が溜息をついた。
「すぐに車を回すから、ツナ兄はそこにいて」
その言葉にホッと綱吉は脱力する。今の今まで気づいていなかったが、自分は随分と緊張していたらしい。自分の母校に獄寺を連れて行くことに対してある種の気まずさのような、気後れのようなものを感じていたのかもしれない。
とにもかくにも、フゥ太が迎えを寄越してくれるのなら安心だ。
振り返った綱吉は、並盛中の校舎を眩しそうに見つめた。
いろいろな感情が渦巻いていてうまく言い表すことはできないが、獄寺がこの学校を気に入ってくれればいいと綱吉は思った。
その日、出勤したものの綱吉はまったく仕事に身が入らなかった。
次の日も、その次の日も……綱吉は始終心ここにあらずといった様子で、これっぽっちも仕事に集中することができなかった。
自分でも原因はわかっていた。
獄寺だ。獄寺のことが気になって、仕事が手につかないのだ。
これではいけないと思いながら日が過ぎていく。
三日が過ぎ、四日、五日と日が経って、気づけば十日あまりが過ぎていた。
最近はフゥ太だけでなく、他の者たちも綱吉がおかしいことに気づいている。山本には、新婚ボケだろうとからかわれた。そうだとも、そうではないとも言えず、綱吉は苦笑するしかない。
綱吉自身、その原因をどうすればいいのかわかっている……つもり、なのだが、どうにもできないジレンマに悩まされているところだ。
どうすればいいのかなんて明らかなことだが、わかっているだけにその先の結果がどうなるかも予測できて、なかなか行動に出ることができないでいる。いつまでもこのままでいることはできないから、そろそろ動かなければいけないということはわかっているのだが、恐いのだ。自分が行動を起こすことで、獄寺がどう思い、どう行動するかがわからなくて、恐い。ただ、それだけのことだ。
とは言うものの連日、フゥ太からなんとかするようにせっつかれているのに加え、仕事すら手につかない以上、早急に対処しなければならないことでもある。
はあぁ、と溜息をつくと綱吉は、とぼとぼと自宅への道を歩いていく。
普段は車で職場から自宅への送迎を頼むのだが、このところ、綱吉は徒歩で通勤をしている。じっくりと獄寺とのことを考えようと思うと、車での送迎よりも歩くほうがいいように思えたのだ。それに、徒歩だと時間がかかる分、それだけじっくりと考えられそうな気もする。
なにも、獄寺との生活が嫌だというわけではない。
二十四歳の男がいきなり十四歳の幼妻とひとつ屋根の下で暮らすことになったとしたら、誰だって多かれ少なかれ悩むことはあるだろう。それはもう、いろいろと。
あいにくとそういったことを相談する相手は、綱吉にはいなかった。
親友の山本に相談するようなことではないし、家族に相談するような類のものとは少し違うような気がする。かと言ってフゥ太では役不足だし、ビアンキには絶対にできない相談だ。だったら同級生のよしみで笹川京子や三浦ハルなどに相談すればいいのかと言うと、噂話好きな彼女たちのことをどこまで信頼すればいいのか、綱吉にはわからない。結局、堂々巡りの輪の中に捕らわれて誰にも相談できず、一人で悶々と悩み続けなければならないのだ。
これでは、まったくもって事態を進展させることができないではないか。
他にも友人がいないでもなかったが、こういったプライベートな相談ができる友人ではないような気がする。
やはり自分自身でなんとかしなければならないのだと、綱吉は今日、何度目になるかもわからなくなってしまった深い深い溜息をついたのだった。
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