『冷たい炎』
見張り台でゾロと過ごした日から、何日かが過ぎた。
今やエースは、サンジの手の届かないところにいってしまっていた。
ルフィやウソップ、チョッパーと冗談を言い合い、ふざけ合っては歯を剥き出しにして笑うエースは今までにないほど楽しそうにしている。どこから見ても記憶を失う前のエースだと、サンジは思った。
「あれで記憶が戻ってない、って言うから、不思議よね」
ポツリとナミが呟く。
遠巻きにエースたちを眺めるナミは、お茶の用意をしているサンジの横顔をちらりと見遣る。
「戻ったのなら、それはそれで……」
言いかけたサンジがふと顔を上げると、ゾロが黙ってじっとこちらを見ていた。
「ああ、何だ?」
尋ねると、ゾロは淡々とした表情でサンジのほうへやってくる。小振りのダンベルを片手に、トレーニングの最中らしい。
「喉が渇いた。何かあるか?」
尋ねられた途端、サンジは視線を逸らした。
口の中でボソボソと呟くと、決まり悪そうにサンジはキッチンへと逃げこんだ。そそくさと冷蔵庫へと向かう。特製ドリンクはよく冷えていた。ひんやりとして喉越しもよさそうだ。
甲板で待つゾロのところへ行こうとして勢いよく向きを変えると、入り口のところに当の本人が立っていた。
「あ……」
手にしたコップを突き出してゾロに渡す。
サンジの態度を気にするでもなくゾロはコップを受け取り、その場でドリンクを飲み干した。
見られていると、サンジは不意に思った。
少し離れたところから、エースの視線がサンジをじっと捉えているのが感じられた。
エースのほうから離れていったくせに、何を今頃と思わずにいられない。何故、エースがサンジのことを気にかけるのだろう。それとも、誰かと一緒にいるところを見ることすら鬱陶しいと言うのだろうか、エースは。
視線をやり過ごすとサンジは、何事もなかったかのようにゾロが飲み干した後のコップを受け取った。
「後でシャワー使えよ。レディたちに失礼だ」
しかつめらしくサンジが告げると、ゾロは片方の眉をピクンと跳ね上げた。
「ああ、まあ、気が向いたらな」
そう言ってニヤリと笑うとゾロは、ダンベルを上げ下げしながらトレーニングに戻っていく。
それでもエースの視線はまだ、サンジの上を彷徨っていた。
翌日の分の仕込みが終わったところで、サンジの一日も終わる。
さあ、これでゆっくり休めるぞとキッチンの椅子にドサリと身を預けると、サンジは大きな溜息をついた。
疲れているのは、エースとの関係がかわってしまったからだ。あれ以来ずっと、この疲れのような空虚さが胸の内から消えてくれない。
いったいどうして、こんなことになってしまったのだろう。
自分とエースは、いい感じにきていたはずだ。
男同士ではあったし、色々と問題もあるにはあったが、それでも、うまくやっていたはずではなかったのだろうか? それともあれは、全てサンジの勝手な独りよがりな思いこみだったとでも言うのだろうか。
好きだったのだ、心の底から。
男同士だろうと、エースがルフィの兄だろうと、エースの記憶が戻ればもしかしたら敵同士になってしまうかもしれない立場だろうと、そんなことは関係ない。それでも好きだったのだ。
──好き……だった。
はあ、と溜息をつくと、シンクの下へとサンジは視線を向ける。
シンク下には、自分用の酒が隠してある。表に出してしまうとゾロに持っていかれてしまうから、とっておきの酒やどうにもやりきれない時に飲むための酒が隠してあるのだ。
「一口だけなら、いっか……」
言い訳のように呟いて、サンジはのろのろと立ち上がった。
特に飲みたいというわけでもないのだが、どことなく手持ち無沙汰な感じがして、眠れそうにもない。
シンクの開き戸を引いて中から酒瓶を取り出すと、グラスに氷を二つ、三つ入れる。
テーブルに向き直って椅子に腰かけようとしたところで、キッチンのドアが開いた。
顔を上げてドアのほうへと視線を向けると、エースがいた。
怒っているのだろうか、無表情にじっとサンジを睨み付けている。
こんな表情をさせてしまうぐらいに自分はエースから嫌われているのだろうかと思うと、どうにもやりきれない。口の中の唾をゴクリと飲み込んでからサンジは、口を開いた。
「なんだ、喉でも渇いたのか?」
何気ないふりを装って、うまく尋ねられただろうか?
エースの眼差しは無機質で、感情の色は一切あらわれていない。
「お前は……」
なにを言おうとしているのだろうか、エースは。
サンジは呆けたようにじっとエースを見つめている。自分のどこが、エースの気に入らなかったのだろうか。そればかりがサンジの頭の中をグルグルと回っている。
言いかけたエースは頭を一振りすると、ふう、と息を吐き出した。それから大股に部屋を横切り、テーブルを挟んでサンジの向かいにある椅子に腰かけた。
「酒!」
久しぶりに耳にするエースの声は、怒っていても甘く掠れているように聞こえる。
ああ、この声が聞きたかったのだとサンジは思った。嫌われていようが何だろうが、エースの声を聞きたかった。久しぶりに彼の声を聞いたような気がする。ホッとしたのだろうか、サンジの口元が微かに緩んだ。
「同じのでいいか?」
尋ねると、鷹揚にエースは頷く。
新しいグラスを用意するとサンジは、氷をいくつか落とし込む。カラカラと氷がグラスに当たる音が響く。
「水はいるか?」
サンジの言葉にエースは、首を横に振る。
ウイスキーを注いだグラスを差し出したサンジは、エースの手がグラスに触れる前にさっと手を引っ込めた。
エースはグラスを手にすると、ぐい、と一息に煽り飲んだ。まるで水のようにグラスの中身を飲み干す。
どこか、エースらしくないような気がする。
サンジは眉間に皺を寄せた。
エースはかわってしまった。
いいや、ただ単に元のエースに戻っただけなのかもしれない。
大口を開けて皆と笑い合い、食べて、飲んで、騒いで……やはり兄弟だからだろうか、ルフィとエースは驚くほどよく似ている。
グラスをテーブルに戻したエースは、ギロリとサンジを睨み付けた。
何か言いたそうにしているのも気にかかる。
「ツマミはいるか?」
サンジは尋ねた。時間も時間だからたいしたことはできないが、少しぐらいなら用意することはそう難しくない。ちらりとエースの顔に視線を走らせたものの、気まずさを感じてサンジは顔を背ける。
この男が悪いわけではない。
記憶を失ったのも、記憶を取り戻すのも、この男が悪いわけではない。どうにかしようと思っても自分ではどうにもならないことを、この男のせいにすべきではない。
「いらねえ」
ぶっきらぼうな口のききかたはゾロを思わせる。サンジが覚えている限り、エースはもっと大らかな男だったはずだ。と、いうことは、まだエースの記憶は完全には戻っていないということなのだろうか?
サンジは黙って二杯目の酒をグラスに注いでやった。
「ツマミがいらねえなら、俺は休ませてもらう。飲み終わったグラスはシンクの中に置いといてくれ」 そう言ってサンジは、エースに背を向けた。
嫌われているのがわかっているのに同じ空間で顔を合わせているのは辛いものがある。酒瓶をシンク下の元の位置に戻すと、サンジはそそくさとキッチンを出て行こうとする。
「お前……」
低い声でエースが何か言いかけた。
ドアのところで立ち止まったものの、エースがその先を口にすることはなかった。
「いや、いい」
投げやりな感じがして、気にはなった。しかしあかの他人でしかないサンジが口を挟めることではないような気がした。
キッチンから出ると、ドアを閉じる。
パタン、と控え目な音がして、それまでエースと共有していた空間から切り離されてしまった。
不意にサンジの胸の内は、喪失感でいっぱいになった。
男部屋に戻ったもののサンジが眠ることはなかった。
妙な具合に目が冴えてしまい、寝付くことができなかったのだ。
暗がりをじっと見つめていると、影の中に何かが見えてきそうな気がしてくる。
サンジが好きだったエースは、もうどこにもいないのだろうか?
何も言わずにいなくなってしまうところは、なるほど彼らしいと思わずにいられない。それとも、まだ記憶は完全には戻っていないのだろうか。
エースと言葉を交わすこともなくなってしまったから、何もわからない。
先ほど、キッチンで言葉を交わしたのは、あれは何日ぶりのことだっただろうか。
聞きたいこと、言いたいこと、何もかもひっくるめて、喋ることはできなかった。あの場所から逃げ出すのが精一杯で、必要なことは何一つとして聞き出せていない。
いったいどうしたらいいのだろう。
まだ、自分はエースのことが好きなのに。
この気持ちにケジメをつけることもできず、だらだらと惰性でエースのことを好きでいるのは思っていた以上に辛い。自分が駄目になってしまうとサンジは思った。
だから、自分はどうしたいのだろう。
だから自分は、どうしたらいいのだろう。
ハンモックの中で体をもぞもぞと動かすと、無理に目を閉じる。
程なくして足音が聞こえてきた。エースが男部屋に戻ってきたのだ。ドアを開け、手探りで自分のモックのところへ向かったらしい。
それからすぐに、他の連中の鼾に混じってエースの鼾も聞こえてきた。
眠らなければとサンジは思った。
少しだけでも眠って、明日はいつもと同じように振る舞わなければと思った。
胸の奥底、エースの気持ちが離れてしまったためにぽかりと空いてしまった部分が、ジクジクと痛んだ。
エースの記憶が戻ったのなら、自分は彼から離れなければならない。それははっきりと理解している。しかし、記憶が戻ってもいないエースから離れるのは、何かが違うとサンジは思う。
まだ、サンジの心の中にはエースのための場所が空けてある。ぽっかりと空いたその場所に、エースのための居場所は残されているのだ。
目を閉じたままではあったがうっすらと明るみ始めた空の気配を感じて、サンジは強く目を閉じ直した。
夜が明けるのは、まだ早い──
To be continued
(H22.7.18)
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