『冷たい炎』



  掠れ気味の甘ったるい歌声が、甲板の上から聞こえてくる。
  エースの声だと、サンジはすぐに気付いた。
  つい今し方、ナミとロビンの二人に寝酒がわりにブランデーをひと垂らしした紅茶を持っていったばかりだ。その時にはエースは、男部屋にいたはずだ。賑やかな笑い声が聞こえていたから間違いない。どうやらサンジが女部屋に行っている間に、エースは甲板へ出てきていたようだ。
  駆け寄って、あのがっしりとした肩を抱きしめたいとサンジは思った。あれ以来エースには触れるどころか、親しく言葉を交わすことすらしていない。寂しという気持ちなのだろうか、これは。胸にぽっかりと空洞ができたような感じがする。エースの声をもっと近くで聞きたい。あの目に見つめられたい。体温の高い皮膚に触れて、それから……そんなことを考えていると、ズクン、とサンジの体の奥が疼いた。
「やべっ……」
  呟いて、早々にキッチンへとサンジは戻っていく。
  エースのことを考えるだけで体が過剰に反応するのは、どうしてだろう。体の奥深いところで燻りだした熱をどうしようかと思いながらサンジは、キッチンのドアをそっと閉める。
  終わったことだと自分の中で決着をつけたはずなのに、体はまだ、エースを求めている。
  なんと浅ましいのだろうか、自分は。なんと淫らなのだろうか、自分のこの体は。
  はあ、と溜息をつくと、胸の内ポケットから煙草を取り出す。
  口にくわえたものの、なかなか火を点ける気になれず、サンジは目の前の椅子に腰をおろした。
  男が好きなわけではない。エースという人間に惚れて、焦がれて、体の関係を結んだ。ただそれだけのことだ。最初はそこには、複雑な気持ちはなかったはずだ。こんなに惚れ込んでしまうなど、考えてもいなかった。
  そもそもエースはルフィの兄だが、白ひげ海賊団の二番隊長でもある。この先、二人が敵同士にならないとは限らない。そうなった時、自分は潔く身を引くことができるだろうか。
  煙草をくわえたままサンジは、ニヤリと口元を歪める。
「……できるだろ」
  自分は、麦藁の一味、海賊だ。それぐらいできないようでは色恋に走るのは無理だ。そんな生ぬるい気持ちで恋なんてするはずがないとサンジは思う。自分は海賊だ。生半可な気持ちで海に出たわけではない。
  マッチを擦ると、流れるように手を動かして火を点ける。
  風に乗って時折、エースの声がキッチンにも流れ込んでくる。
  ふう、と息を吐き出すと、濁った澱のような自分の気持ちが宙に四散するかのように見えて滑稽だった。



「酒」
  ドカドカと足音を立ててゾロがキッチンに入ってきた。
  顔を見るなりそう告げると、男はどしりと椅子に腰をおろす。
  先日のことがあるからか、サンジはゾロに対してあまり強い態度に出ることができない。くるんと渦巻いた眉毛をピクリとさせ、サンジは顔をしかめた。
「ほらよ」
  ドン、と目の前に瓶のままの冷たい麦酒を出してやると、男はギロリとねめつけてくる。剣呑すぎる眼差しに、どうして自分が八つ当たりをされなければならないのかとサンジは小さく舌打ちをする。
  瓶の口を塞いでいた王冠を歯でこじあけると、ゾロは麦酒をゴクゴクと半分ほど喉の奥に流し込んだ。喉が鳴っているところを見ると、よほど喉が渇いていたのだろう。口の端から麦酒の汁が伝い落ちている。もったいねぇ、と呟くと、またギロリと睨み付けられた。
  何を苛々しているのだろうかとサンジはこっそりと毬藻頭の男を見遣る。頬のあたりについている黒い汚れは何だろう。煤だろうか?
「あー、わかった!」
  不意にサンジは声をあげた。
「お前、アレだろ。拗ねてんだろ」
  ニヤニヤと口元に意地の悪い笑みを浮かべて、サンジは言った。
  もう、ゾロがギロリと睨んできても不快には思わない。サンジは笑いを堪えてゾロの顔を覗き見る。
「エースと競争して……負けたんだろ?」
  ゾロのこめかみに青筋が浮かんだ。サンジの言葉が図星だったのか、はたまた気に食わなかったのか、青筋がピクピクとひくついている。
「さしもの剣士も、エースには敵わなかったってことだな」
  いい気味だ。口の中でサンジは呟く。だいたいこの男は、何をするにつけても態度が大きい。たまにはこうして打ち負かされることも必要なのだと、わかったような顔をしてサンジはうん、うんと鷹揚に頷いてみせる。
「……なんでわかるんだ?」
  覗き込んでくるゾロの仕草は、普段よりも幼く見える。エースと比べるからだろうか。
「そりゃあ…──」
  言いかけたものの、サンジはすぐに口を噤んだ。
  開け放たれたドアを潜ってキッチンに入ってきたのは、エースだった。



  足音が、苛ついている。
「俺にもなんか飲み物くれよ」
  甘えるようにエースが声をかけてくる。甘える気なんてこれっぽっちもないくせにと、サンジは思う。ゾロの斜め向かいの席に腰をおろしたエースは、サンジの顔をちらとも見ようとしない。相変わらず拒絶されているのだろう。
「ゾロと一緒のでいいか」
  平静を装ってサンジは尋ねた。
「それでいいぜ」
  ムスッとした声が返ってくる。
  極力、互いに相手の顔を見ないようにしている。ウソップやチョッパーあたりが一緒にいたら、居心地の悪さに耐えかねてさっさと甲板へ逃げ出していることだろう。
  サンジは黙って冷蔵庫から麦酒の瓶を取り出した。パタン、と少し強めの音を立てて冷蔵庫のドアを閉めた。
  ゾロはまだ、椅子に座っている。これでもエースを牽制しているつもりだろうか。
「どうぞ」
  素知らぬ顔をしてサンジは、麦酒の瓶をエースの前に置いてやった。ゾロと同じでキャップの王冠はそのままだ。エースも、ゾロと同じように王冠を歯でこじ開けた。金色のキャップは床にぺっ、と吐き出された。カラン、と音を立てて、キャップが転がる。サンジは黙ってキャップを拾った。
  ふと顔を上げると、エースがじっとサンジを見つめていた。しかしサンジは、何も見なかったかのようにすっと視線を逸らした。シンクに向かうと、中断していた食事の下ごしらえを再開する。
  背中に感じるエースの視線は、鋭く冷たかった。



  背中にエース視線を感じながらもサンジは、黙々と野菜の皮を剥いていく。向けられる視線が痛かった。見ないでほしい。恋人としての付き合いをやめたのであれば、これ以上は関わらないでほしかった。眉間に皺を寄せ、サンジはジャガイモの山を片付けてしまう。次は人参だ。それがすんだら鍋で煮込んでいるスープの具合を見て、それからまた野菜の皮剥き。デザートの準備。料理人がやることは、いくらでもあるのだ。
  何度目かの溜息をついたところで、ゾロが席を立った。
「ウソップと魚釣ってくっから、晩飯時に刺身にしてくれ」
  ポソリと告げると、ゾロはそそくさとキッチンを出ていく。さしものゾロも、どうやらこの空気には耐えられなくなったらしい。
「おう」
  振り返りもせずに、サンジは応える。
  エースは黙って麦酒を飲んでいる。ゾロと違ってチビチビと飲むものだから、時間がかかって仕方がない。その間にも、刺すような視線がサンジの背中を貫いてくる。
  怒っているのだろうか? それとも、男の恋人など気持ち悪いと思っているのだろうか?
  居心地の悪さを感じながらもサンジは、大鍋の中をちらりと覗く。野菜の芯はくたりとなっていたが、まだまだ煮込まなければならない。蓋をして、火の様子を確かめてからシンクを離れる。次はオーブンの用意だ。鶏肉の下ごしらえをする前に、オーブンを温める必要がある。火を点けて、ドアを閉めようとした途端、ボン、と乾いた音がした。
  目の前が、炎の赤でいっぱいになった。
  熱いとか痛いとか、そんなことを思うよりも、あまりにも突然だったのでただ呆然となってしまっただけだ。
  赤い赤い炎が、サンジの目の前で踊っている──



  強く腕を引かれるのを感じた。
  はっと我に返ると、エースに腰のあたりを抱えられていた。
「じっとしてたら、こんがりいい焼き色がついてるところだったぞ」
  真面目な顔をしてエースが言う。
「ああ……」
  しわがれた、年寄りのような声が出た。げほげほと咳き込んで、それからサンジはエースの腕の中から身を捩って逃れた。
  服越しに感じたエースの腕は熱かった。体温が高いように感じられるのは、やはり彼の能力に関係あるからだろうか。
  ふらふらとオーブンのほうへと近付こうとすると、今度は肩をぐい、と引かれた。
「危ないからここにいろ」
  その声に、サンジの体がビクリと震える。耳元で囁かれた時のような甘い声色に、サンジの心臓はドキドキと鳴り響きだす。
  見ている間に、エースはシンク周りに飛んだ火の粉を消していく。
  いったいあれは何だったのだろう。いきなり炎の勢いが増したような感じがしたが。
  ガタン、と音を立てて床の上に置き直されたのは、炎の勢いで跳ね飛んだオーブンのドアだ。ドアが跳ね飛ぶようなことは何もしていない。ただ、火を点けただけだ。火の気も何もなかった。そんな状況で、いきなり炎が噴き上がる──サンジにはあの炎が、いきなり噴き上がったように見えた──ようなことがあり得るだろうか。
  慎重な面持ちでオーブンの中を覗き込むエースの後ろ姿をサンジは、じっと見つめている。
  エースの能力をもってしたら、炎を噴き上げることぐらい、どうということはないだろう。能力者であるエースになら、それぐらい朝飯前だ。もちろん彼がそんなことをする理由はどこにもない。しかし何故、エースがいる時にオーブンの中で炎が噴き上げ、ドアが跳ね飛んだのだろうか。
  このG・M号にサンジが乗り込んで以来ずっと、他の誰かがキッチンを好き勝手に触るようなことはなかった。皆、そんなことをしたらどうなるかよくわかっているはずだ。もちろんルフィをはじめとする男共が食べ物や酒を求めてキッチンを出入りすることは多々あったが、彼らはキッチンの一部に妙な細工をするようなことはしなかった。命に関わる危険に繋がるようなことを、この船のクルーの誰がするというのだろう。
  握りしめた拳に力を込めて、サンジはじっとエースを見つめている。
  オーブンの内部を覗き込んだり、時折、コン、コン、と手の甲でオーブンを叩いたりと、エースは熱心に見える。しかし本当は、どうなのだろう。
  疑いたくはない。
  しかし今のサンジには、エースを信じるだけのものは何一つとしてなかった。



To be continued
(H22.9.13)



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