『冷たい炎』



  暗がりの中でじっと空を見つめる。
  狭苦しい見張り台の中で顔を上げると、何重にもなった厚い雲の向こうに頼りなげな月の光が微かに見えた。
  今のサンジにとってはこの場所が、唯一安心できる場所だった。
  自ら進んで寝ずの番を買って出れば、たいていは一人にしておいてもらえた。男部屋で皆と一緒に眠るのは苦しかった。エースのことを妙に意識してしまい、夜の間はほとんど眠ることが出来ない。エースとの関係が拗れに拗れた現状を何とかしたいと思いながら、どうにもできずにただその場に留まることしかできない自分が嫌で嫌でたまらない。
  それ以上に、エースの記憶が戻らなければいいと心の奥底で願っている自分が厭わしくてたまらない。
  記憶のない男と恋人同士でい続けたいと思う自分こそは、軽蔑すべき存在だ。
  男部屋にいても眠れない。眠れないからキッチンへ行く。キッチンで酒を飲んで、エースから逃げるために格納庫へと下りていき、人がこないのを見計らっては自分を慰める。そんな日々が続いている。もうたくさんだとサンジは思う。
  こんなふうに何かから逃げ回ろうとする自分は、どうかしている。
  こんなのは、自分ではない。
  これではいけない。自分がダメになってしまう。いや、それよりも周囲が先に気付くのではないだろうか。サンジの状態が妙なことに。
  気付かれてはならないとサンジは思う。
  自分の状態は、自分がいちばんよく理解している。
  気付かれてはならない。見抜かれてはならない。
  あくまでもこれまで通り、いつもと同じように振る舞い続けなければ。誰にも気付かれないように日々を過ごし、この胸の奥に潜むドロドロととしたどす黒い感情に気付かれないようにしなければならない。
  はあ、と溜息を吐き出すとサンジは、胸の内ポケットに手を伸ばす。
  ニコチンがほしい。それから、アルコールもだ。
  夜のうちにすべて忘れてしまえば、またいつものように笑って皆と言葉を交わすことができる。



  ──俺が必ず、お前の記憶を取り戻してやるから。
  そう言ったのは、自分だ。
  エース本人に、面と向かってサンジはそう告げた。
  それが、どうだ。
  いつの間にかほだされて、骨抜きにされて、記憶が戻らなければいいとまで思う始末だ。親切面をしてよくあんなことが言えたものだと自分でも思っている。
  惚れた相手を手放すことができず、挙げ句、自分の元に縛り付けようとする自分の傲慢さに、自分でもほとほと呆れてはいるのだが、かと言ってこの気持ちを変えることができるのかというと難しいところでもある。
  それだけ真剣に、自分はエースのことを愛している。
  だが、愛しているからと言って彼を自分の元に縛り付けたままでいていいわけではない。それこそ自分のエゴでしかない。
  手放さなければならない。思い切ることも、時には必要なのが愛だ。
  夜空を眺めながらサンジはぼんやりと煙草をふかす。
  手放すなら、今だ。エースとの関係がぎこちなくなっている今なら、まだ……。別れたとしても、傷は浅い。エースの記憶は戻っていないし、自分が受けるダメージもそう大きくはないだろう。
「これもひとつの潮時、ってやつかね」
  くぐもった呟きと共に、白煙がゆらゆらと漂う。
  自分と同じ男であるエースを愛して、彼から離れられなくなる自分を想像するだけでゾッとする。互いの本来あるべき立場を考えると、そんなことは初めから無理なことだったのだ。
  片や白ひげ海賊団の二番隊長だ。麦藁海賊団の自分とは、状況次第では味方にも敵にもなる、曖昧な存在だ。そんな男に惚れて、肌を合わせてしまった自分の落ち度ではないか。
  離れなければと思う。
  エースがすべての記憶を思い出す前に、エースから離れてしまうのだ。
  傷付かずにすむように、要らぬ気遣いをしなくてもすむように、何もかもすべて自分一人だけの胸に納めて、なかったことにしてしまえばいい。
  そうしていつか、エースは記憶を取り戻して自らの属する白ひげ海賊団へと戻っていくのだ。その時にはきっと、わずかな期間ではあったがサンジという名前の男の恋人がいたことも忘れているはずだ。
  サンジのことは、弟であるルフィが率いる麦藁海賊団のコックだと覚えていてくれれば、それでいい。
  それで、充分ではないか。
  名前だけ覚えてもらえていればいい。
  サンジという名のコックがいて、エースにとっては少しだけ、何か特別な存在だったようなそんなことをぼんやりと覚えてくれていれば、それで充分だ。
  空を見上げたままサンジは、ははっ、と力のない笑い声を洩らした。
  上を向いているのに、どうして頬が冷たいのだろう。
  目の前がぼんやりとして、星も月も、よく見えない。
  今夜は雲が厚いせいだ。きっと空も、開店休業中なんだろうよとサンジは口の中で呟いた。
  それにしても頬が冷たい。
  目元が濡れているのは、どうしてだろう。



  朝焼けを見てからサンジは見張り台を下りた。
  朝釣りのために甲板に出てきたウソップとチョッパーの二人が、目敏くサンジを見つけて声をかけてくる。
「おはよう、サンジ!」
「おう。早いな、お前ら」
  他愛のない言葉を交わしながらサンジは、一度下におりて身支度を整える。それからキッチンへと足を踏み入れた。
  朝釣りの釣果次第では、今朝は腹を空かした連中にたらふく食わせてやることができるだろう。まあ、せいぜい頑張れよと心の中で呟いてからサンジは、朝食の支度に取りかかる。
  目元の腫れぼったさが気になったが、これぐらいならそのうち引いてしまうだろう。
  寝ずの番の後だから、今朝の食後の片づけはチョッパーとウソップがしてくれる約束になっている。昼食の用意を始めるまでの間に少し休んでおきたかった。夜の間、特に男部屋にいると眠れないくせに、昼間、仲間の声が聞こえるところでは眠気が差してくる。だからまだ、自分は大丈夫だとサンジは思う。
  今ならまだ、大丈夫だ。
  エースと別れた後も自分は、そんなにダメージを受けることはない。仲間たちがいるのに、惚れた相手と別れたぐらいでどうして自分がダメージを受けるというのだろうか。レディ至上主義の自分が、男と別れたぐらいでそんな大きなダメージを受けるはずがない。
  それに……メリー号には、ナミさんとロビンちゃんという美女が二人も乗っているではないか。あの二人がいるというのに、男と別れたぐらいでいつまでも引きずっていたら、それこそ彼女たちに失礼極まりないだろう。
  気持ちを切り替えて、まずは彼女たちのためにおいしい朝食を。それから、他の連中にも。
  食べて、眠れば、自分のこのささくれてごちゃごちゃになった感情も落ち着くだろう。
  そうしたら、少しずつ元の自分に戻っていけばいい。
  エースをただのルフィの兄だと思っていた、出会った当初の頃の自分に戻ればいいのだ。
  それだけだ。
  ただ、それだけのことだ。
  簡単なことだろう、とサンジは自分自身に問いかける。
  できないことはない。
  自分は元々、レディ至上主義だった。エースに惚れて、彼と体を繋ぐようになった今でもそうだ。だから、レディたちのために元の自分に戻ることぐらい、いつだって容易くできるはずだ。
  忘れるのだ。
  記憶を失っている間のエースのことは、偶然この船に乗り合わせた別の誰かだと思えばいい。
  エースの記憶が戻ったなら、記憶のない今の彼はどこにもいなくなってしまう。
  胸の奥底に閉じこめて、忘れてしまえばいい。
  そうすれば自分の気持ちも楽になるだろう。
  元の関係──いわゆる赤の他人というやつだ──に戻れば、この狂おしいまでの感情もなりを潜めてくれるだろう。気持ちが楽になるはずだ。
  それがいつになるのかはわからないが、とにかく自分はそうすることを決めたのだ。
  今すぐにでもエースの記憶が戻れば、その時期はもっと早まる。記憶が戻ってほしいような、戻ってほしくないような、そんな複雑な気持ちを抱えながらサンジは朝食の支度に余念がない。
  手元の懐中時計をちらりと見ると、そろそろ皆が起きてくる時間だ。
  甲板で釣りをしていたチョッパーとウソップの二人の声にルフィの声が加わって騒がしいところを見ると、どうやら釣果はあったようだ。
  これからしばらくは賑やかになるぞとシャツの袖を捲り上げ、サンジはひっそりと口元に笑みを浮かべる。
  こんな時でも料理のことを考えると、気持ちは穏やかになっていく。それ以外の時はエースのことで頭の中がいっぱいだというのに、不思議なものだ。
  フン、と鼻で笑うとサンジは、キッチンのドアを大きく開けた。
「チョッパー、それにウソップも! 魚が釣れたんなら、とっとと持って来やがれ! いつまでヒトを待たせんだ!」
  わざと大声を張り上げると、久々に気持ちがよかった。腹の底がスカッとしたような感じがして、清々しい。
  視界の端に入ってくるエースの姿に胸がズキンと痛んだが、それには知らん顔を押し通すことにした。
  これから少しずつ、忘れていく練習をするのだ。
  もう、彼とは肌を合わせることもないだろう。
  キスも……甘い声で名前を呼ぶことも、ないのだ。



To be continued
(H24.10.15)



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