『冷たい炎』



  男の気配がゆっくりと遠ざかっていく。
  引き止めたいのにサンジの体は、指一本だって動いてはくれやしない。
  唇をぎり、と噛み締め、エースが格納庫を出ていくのを、サンジは毛布の下から薄目を開けてじっと見送るしか他なかった。
  控え目な足音が去っていくいく。
  自分はここにいるのに。体はこんなにもエースに抱かれてがっているというのに、呼び止めることのできない現実が酷くもどかしい。
  自分たちはもう、恋人でも何でもないのだとサンジは思った。
  ただの赤の他人でしかないのだ。
「エース……」
  掠れた呟きの向こうで、薄ぼんやりとした闇が揺らいだように見えた。
  寂しくて寂しくて、たまらない。頭がおかしくなりそうなほど、自分はエースに焦がれている。できることならば、今すぐに追いかけて縋りつきたかった。
  男の体と、汗のにおいを鼻孔の奥に感じたかった。「サンジ」と。甘い声で囁きかけてほしかった。
  抱きしめる腕なら、ここにある。体なら今すぐにでも差し出すことができる。それでも、サンジの中のプライドが、ギリギリのところでそうすることを押し留めている。自分は、麦藁海賊団のコックなのだから。
  エースとは、立つべき場所が異なるのだ。



  ノロノロと格納庫を後にしたサンジは、キッチンへと向かった。
  何も考えたくなかった。
  エースのことも、この先のことも、自分のことも。何もかも、だ。今日の航海のことだって考えたくない気分だ。気持ちが落ち込んで、これ以上は何も考えられないような気がする。
  もう、ダメだ。
  自分のしたいことが何なのかもわからない。エースとの関係を元に戻したいのか。それとも、エースとの関係を修復したいのか。船を降りたいのか、降りたくないのか。エースの記憶が戻ればいいのか、戻って欲しくないと願っているのか。
  いったいどれが正しいことで、どれが正しくないことなのかがわからなくなりそうだ。
  口にくわえた煙草をぷらぷらとさせながら芋の皮を剥く。
  エースの唇が触れた前髪の付け根が、焼けるように熱い。そして、胸の奥も。熱くて、痛くて、たまらない。
「……いてぇな」
  小さく呟いて、紫煙を吐く。
  ふう、と溜息を吐き出したところへ、トテトテと蹄の音がした。チョッパーだ。
「サンジ、ちょっといいか?」
  尋ねかけるチョッパーの声は、変声期前の子どものように可愛らしい。
「おう、なんだ?」
  おやつか? と尋ねると、違うと首を振ってチョッパーは返す。
  サンジの目の前までやってきたチョッパーは、背が低い。首を逸らしてサンジを見上げる様子は、まさに幼い子どものようだ。
「エースのことなんだ。アイツ……記憶が戻るのを怖れているみたいなんだ」
  不意に告げられた言葉に、サンジの胸の鼓動がドクン、と大きく脈打つ。
「そ…うか?」
  何でもない風を装って返すと、小さく睨みつけられた。知っているぞと、チョッパーの目が語っている。
「今のままがいいって……そんなふうに……」
「エースが言ったのか?」
  感情を交えないように気を付けて、サンジは問いかける。
「いいや、言ってない」
  だけど、と、チョッパーは小さな声で呟いた。
  今の生活をエースは心底楽しんでいた。何の責任も義務も必要としない生活を、もしかしたらエースは心のどこかで欲していたのかもしれない。白髭海賊団の一員という肩書きすら、もしかしたら心のどこかで重荷に思っていたのかもしれない。
  だから、G・M号での生活が心地よすぎて離れられなくなってしまったのではないだろうか。
「記憶……もう、戻らねえのか?」
  ポソリとサンジが尋ねると、チョッパーは弱々しく首を横に振った。
  本人が望もうが望むまいが、時がくれば記憶は戻るだろう。
  ただそれが、今日なのか明日なのか、それとも十年先なのか二十年先なのかがわからないというだけだ。
「戻るさ、きっと」
  そう返したチョッパーの声はしかし、力無く弱々しかった。



  一度は胸の奥底に想いを閉じこめようとしたけれど、無駄だった。エースへの想いは日を増すごとに募っていくばかりだ。日が経つにつれ、エースへの気持ちが大きく膨らんでいく。持て余してしまうほどに息苦しいこの感情は、いったい何と呼べばいいのだろう。
  どうしたらいいのだろうか、自分は。どうしたらエースへの想いを断ち切ることができるのだろうか?
  シンクの縁を力いっぱい握りしめ、サンジはきつく目を閉じる。目を瞑っているのに目眩がするというのも、おかしなものだ。体がぐらぐらと傾ぎそうになるのをなんとか踏みとどまる。
  今、自分は真っ暗な闇の中を、手探りで歩いているようなものだった。何も、見えない。一点の光すら、そこにはない。そうして歩くその先にあるのは、エースという名の、針の先ほどの小さな小さな光なのだ。
  馬鹿馬鹿しいと、サンジは口の端をくい、とつり上げる。
  エース、エース、エース。何もかもがエースでいっぱいだ。自分の頭の中は、エースのことだらけだ。こうしてキッチンに立っているというのに、エースのことしか考えられない自分は馬鹿だ。終わっているとサンジは思う。
  どうしたらいいのだろう。
  どうしたら、エースのことを忘れることができるのだろうか。
  エースとのことは、忘れなければならない。記憶を取り戻すことをエースが嫌がっているのだとすれば、それはおそらくサンジが原因だろう。彼が、記憶を失う前の状態に戻れるように、自分は快く協力してやりたいとサンジは思う。
  そのために自分は、何をしなければならないのだろうか。
  エースを突き放せばいいのだろうか? 冷たく素っ気ない態度を取ることで、今の生活のままではいけないのだとエースに知らしめてやればいいのだろうか。
  それとも……それとも、もっと何か、別の方法があるのだろうか?
  サンジの気付いていない別の方法が、どこかにあるのだろうか?
  そのためには自分は、何をしなければならない? 誰を頼ればいい? エースに、どう接すればいい?
  考えれば考えるほど、頭の中が混乱してくる。
  ──そして。
  自分はいったい、どうしたいのか。



  あれやこれやと悩んでいるうちにも、船は海を渡っていく。
  ここ何日か、好天続きで穏やかな航海が続いていた。
  のんびりとした船の揺れが心地よく、仲間たちはそれぞれにくつろいだ表情を浮かべている。ナミやロビンが思い思いに甲板で談笑している姿を見るにつけ、順調に航海が続いているのだとサンジは思う。
  そんな穏やかな昼下がり、エースの声は、サンジがどこにいても耳に響いてくるようだった。
  キッチンにいても甲板にいても、そして格納庫でこっそりと自分を慰めている時ですら、エースの声はサンジの耳に届いてきた。
  どうしてだろう。
  どうして自分は、エースのことを吹っ切ることができないのだろうか。
  あの男のことはやはり、忘れてしまわなければならないとサンジは思っていた。何よりも自分は、白髭海賊団の一員としてのエースに惚れていた。
  エースが記憶を失ったからと言って、それにかこつけて彼の気持ちを揺るがすわけにはいかないのだ。
  これ以上、あの男の足枷にはなりたくない。
  あの男の記憶が戻らない以上、自分はもうこれぽっちもエースに関わってはいけないのだ。彼が、本来の記憶を取り戻したがっていないのであればなおさらだ。
  ──…離れなきゃな。
  サンジは溜息をついた。ここ数日で溜息の数が随分と増えている。もちろん原因はエースだが、当の本人はそんなことにも気付きもしない。
  悔しいような腹立たしいような気持ちの裏側で、寂しさだけがジワジワとサンジの胸の片隅で膨れあがっていく。胃の中の不快感が、煩わしい。
  本音を言うなら、もう少し、エースとは恋仲でいたかった。
  恋人として甘やかせてやりたいと思っていた。
  もっともっと、抱きしめて、キスをして、言葉を交わしたいと思っていた。
  それももうお別れだ。
  自分から手放してやらなければ、きっとエースはずっと今のままだろう。
  サンジのほうから、エースを思いきらなければならないのだ──



To be continued
(H23.3.23)



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