『冷たい炎』



  船底を叩く波の音で、エースは目を覚ました。
  この音には覚えがある。この揺れは、知っている。
  今の自分ではない、過去の記憶を持っていた頃の自分には、馴染みのある音であり、揺れだった。
  この音で目を覚まし、雨風の中、仲間たちと共に船を守ったこともある。今ここにいる面々ではなく、過去の自分が仲間と呼んでいた者たちのことだ。
  懐かしい気持ちがこみ上げてくるのは、寝惚けているからだろうか。
  甲板の様子を見に行かなければと、エースはその場に飛び起きた。
  甲板からは、ナミの声が途切れ途切れに響いてくる。やはり嵐だ。いつの間にか船が、嵐の中に入ってしまっていたのだろうか。
  一緒に眠っていたクルーが次々と目を覚まし、身支度もそこそこのまま甲板へと駆け上がっていく。
  自分も、とエースも男部屋を後にすると、甲板へと飛び出していた。
  ドアの向こうは狂ったように吹き荒れる風と、雨の世界だった。激しい勢いで横殴りの波が襲いかかってくると、メリー号のような小さな船ならひとたまりもないだろう。それでも航海士の指示がいいのか、はたまた操舵手の位置についたチョッパーとウソップの腕がいいのか、船は海原を必死に抜けていく。
  自分にできることは、とエースは甲板を見回した。
  皆、船が無事に嵐の中から抜け出すことができるように、何かしら忙しく立ち働いている。自分だけがすることのない役立たずになってしまったような気がして、エースは甲板を手持ち無沙汰に歩き回った。
  波が高く、船は大きく縦に、横にと揺れている。
  こんな小さな船でこの嵐を抜けること可能だというのが、エースには不思議でならない。先の嵐──いや、あれは通り雨か──の時もそうだったが、この船の航海士は随分といい腕をしている。
  うちの船にも欲しいぐらいだ。そう思うと同時にエースは、ドキリとする。うちの船。メリー号のことではなく、自分の乗っていた船のことを今、エースは思い出しかけていた。
  眼前の嵐の向こうに、懐かしい仲間たちの姿が見えるような気がしてエースは、フラフラと足を踏み出した。
  戻らなければという索漠とした気持ちがこみ上げてきて、エースの胸を締め付ける。
  仲間たちのいるところへ戻るのだ、自分は。
  海を渡り、大切な仲間たちのいるところへ……



  エースがぼんやりと過去の記憶に浸っていると、いきなり背後から誰かに突き飛ばされた。
「阿呆か、ボーっとしてんじゃねえ!」
  サンジだった。
  横からの波に攫われた樽がいくつか、甲板の上を転がっていた。いつの間にか、括り付けていたロープが切れてしまったらしい。それが、ゴロゴロと音を立てながら転がってくる。突き飛ばされた直後に船尾へと転がっていった樽のうちのひとつが、押し寄せる波に引き戻され、今度はこちらへと、半ば波に押されるようにして水浸しの甲板をこちらへと向かってくる。
「これぐらい、どうってこと……」
  言いかけたエースの腕を掴むとサンジは、ぐい、と自分のほうへと引き寄せようとした。
「カナヅチのお前がこんなところでフラフラしてっと、迷惑なんだよ!」
  することもなく、てんで役立たずだったのを指摘されたような気がして、エースはカッとなった。フラフラしたくてしていたわけではない。この船は、自分の船ではないから……だから、戸惑うのだ。どうしたらいいのか、悩んでしまうのだ。
  そう言いかけたエースの視線は、サンジの背後に迫る別の樽を捕らえた。
  船首近くにあった樽もまた、ロープが切れて海に散ったかこうして甲板を転がっているかのどちらからしい。
  叩き付ける雨の音と、耳が痛くなるほどの風の音、それに四方八方から押し寄せてくる波の音が入り混じって、樽の転がる音は聞き取りにくくなっている。
  このままでは確実にサンジに直撃するだろう。
「……け、ろ」
  掠れる声で、エースは呟いた。
「あ?」
  この嵐で気が短くなっているのか、サンジは不機嫌丸出しでエースを睨み付けてくるばかりだ。
「避けろ、サンジ!」
  そう言うとエースは、サンジの体を突き飛ばし、転がってくる樽を片腕で弾き飛ばした。
  ガッ、と鈍い音が雨の中に響き、衝撃で樽はバラバラに壊れてしまった。中に入っていたものが何だったのかは、わからない。飲み水が入っていたのか、それとも雨水だったのか。どちらにしても、壊れてしまったのだから今さら惜しんでも仕方のないことだ。
「バ…カ……」
  吹き付ける雨と海水でぐしょぐしょになったサンジが、剣呑な眼差しをエースに向けた。
「お前は、中に入ってろ!」
  そう言うなりサンジは、エースの腕を掴み上げてくる。
「カナヅチのくせに、うろちょろしてんじゃねえよ」
  低い声でサンジはそう言った。真剣な眼差しが、じっとエースを見付めている。自分のためにサンジは、怒ってくれているのだ。
  仲間でもないのに、過去の記憶を失ったエースをこんなふうに心配し、気にかけてくれるこの船の連中が、そしてサンジのことが、愛しく思えてならない。
  そして悲しいかな、ここではエースは船長の兄でしかない。ここにいる面々は、過去にエースが共に海を渡ってきた仲間たちとは違うのだ。
「あ…あ、そう、だな」
「下に降りてろ」
  宥めるようなサンジの言葉に、渋々ながらではあったもののエースは今度こそ素直に頷いた。



  外の音が穏やかなものへと変わってくるにつれて、船の揺れも落ち着いてきた。
  まだ雨は降り続いていたが、風の勢いも徐々におさまり、甲板にいた男たちが軽口を交わしながら部屋へと戻ってくる。
「あー、腹減ったー」
  ルフィの一言に、ウソップとチョッパーも一斉に「腹減ったー、腹へったー」と唱和しだす。賑やかな様子に、エースは一瞬、自分の船の仲間たちのことを思い出していた。
  今頃、彼らはどうしているだろう。元気にしているだろうか。
  白髭の船を後にしたエースは、常に自分に課せられた使命と共にあった。今の自分がなかなか失った記憶を取り戻そうとしなかったのは、もしかしたらそんな日常へと戻っていくことを心のどこかで拒んでいたからではないだろうか。
  男部屋に戻った面々はまず、びしょ濡れになった衣服を着替えた。それからサンジ一人がキッチンへと行ってしまうと、チョッパーがエースの傍へとやってくる。
「腕の傷、大丈夫か?」
  部屋の片隅ではゾロがダンベルを手に、トレーニングをし出した。ルフィとウソップは二人して額を寄せ合い、何事か熱心に語り合っている。
「ああ、どうってことはないさ」
  そう言ってエースは、腕を見せた。肘の近くがうっすらと赤くなっているのは、割れた樽の木片が腕を掠めたからだ。子どもの頃は擦り傷だらけで毎日を過ごしていたのだ、このぐらい、大したことはない。
「念のため、消毒だけしとこう」
  チョッパーは素早く医療カバンから消毒液を取り出して、脱脂綿に含ませた。エースの腕の傷に押し付けられた消毒液はじんわりと傷に染み、エースは密かに眉を潜めた。
  こんな傷、すぐにでも治ってしまうだろう。
  能力者なのだから、これしきの傷で死ぬはずがない。
  それでもエースは、チョッパーの気遣いが嬉しかった。
「ありがとな」
  ぽつりと礼を告げると、チョッパーは照れ臭そうに「よせやい」と笑った。



  波の向こうからカモメがやって来ると、メリー号はこれまで以上に船足を速めたように感じられた。嵐から逃れて喜んでいるのは、何も人間だけではないのだろう。
「島が見えるぞー!」
  見張り台に上がっていたウソップが声を上げると、思い思いのことをしていたクルーたちが手を止め、顔を上げた。
  すぐに甲板へと皆が集まってきて、船首のあたりからまだうっすらとしか見えない島影をもっとよく見ようと、目を凝らしている。だんだんと見えてくる島の全貌を皆で並んで眺めた。
  自分もかつて、仲間たちとこんなふうに並んで、少しずつ大きくなってくる島影を眺めた覚えがある。なんとなくだが、エースは覚えているような気がした。あの時、傍にいたのは誰だったのだろう。マルコだろうか?
「島に着いたら買い物に行かなくちゃ」
  海の向こうをじっと見つめながらポツリとナミが呟いた。
  誰かが船の番をしなければならないから、上陸組と居残り組とに別れることになるだろう。
  不意に、エースの肘のあたりに誰かの指が触れた。
  ちらりと振り返ると、ロビンが物言いたげな眼差しでエースを見つめている。
  いったい何の用だと思いながらも皆から少し離れたところへ移動すると、ロビンは悪戯っぽく瞳を煌めかせた。
「あなたからもらい忘れていた口止め料を、今、請求しようと思って」
  低く落ち着いたロビンの言葉に、エースはぎょっとした。
  口止め料とは、また随分と前の話を持ち出してくるものだ。遅すぎやしないかとエースは思った。
  この船のキッチンで初めてサンジに触れた。二人ともその気になっていたにも関わらず、最後まで体を繋げることがなったのは、あの時、ロビンが邪魔をしたからだ。あれは完全にアクシデントだと思っていたが、あの瞬間にも狡猾な彼女はいろいろと計算していたのだろうか。バロックワークスで司令官を務めていただけの女だから、一筋縄ではいかなくても不思議はない。
「今頃になってか?」
  探るようにエースは尋ねる。
「今だから、よ」
  意味深に彼女は囁いた。
「今だから?」
  尋ね返すエースにロビンは、島に着いたら船に残って留守番をしてほしいと告げた。
  それが、口止め料のかわりだと彼女は言う。
  留守番ぐらい安いものだと、エースは二つ返事で引き受けた。
  彼女が何を企んでいようが企んでいまいが、エースには関係なかった。



To be continued
(H25.3.8)



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