『冷たい炎』



「それじゃあ、留守番よろしくね」
  麗しの航海士嬢にそう言われて、サンジが断れるはずもない。
  二つ返事で留守番を引き受けたものの、まさかエースもロビンから留守番を頼まれていたとは思いもしなかった。
  どうしても態度がぎこちなくなってしまう。
  意識……して、しまうのだ、エースのことを。
  不自然ではなかっただろうか。受け答えの仕方がぎこちないことはなかっただろうか。
  うかがうようにエースのほうをチラリと見ると、彼は素知らぬふりで街へと向かう一行に手を振っている。
  どうやら気にしているのは自分だけのようだと思ったサンジは、ホッと肩の力を抜いた。
  少し素っ気ないぐらいに皆に手を振ってからサンジは、キッチンへと足を向ける。
  仲間たちがいない間にも、することは山とある。のんびりとしている時間などサンジにはないのだ。
  それに、今は一人になりたかった。
  エースが近くにいるのだと思うと、それだけでサンジの心はざわめく。
  一日も早く忘れなければと思うのだが、なかなか気持ちの切り替えがきかないでいる。エースとの関係をこのまま終わらせたくないと、惨めたらしくしがみついている自分がいる。
  キッチンに入るとはあぁ、とわざとらしいほどに大きな溜息をつき、ジャケットの内ポケットへと手を伸ばす。シガレットケースを探し当てると、まずは一本、指に挟んで火を点ける。
  一服すれば、この気持ちもおさまるだろう。
  いつものとおり、苛々とした気持ちが鎮まっていくはずだ。
  はぁ、と溜息と共に紫煙を吐き出した。
  甲板にはエースがいる。居心地が悪いのは、エースのことを意識しているからだ。好きだし。気になる。だが、彼の重荷になりたくない。足枷になりたくない。そんなことを考えだすと、エースの側に自分がいてはならないと思えてくる。それに、二人の関係は微妙に歪んだままだ。もう、修復はできないかもしれない。
  こんなふうにナミやロビンが気を利かせてくれたとしても、無駄な時間を過ごすことになるかもしれない。
  少しずつエースのことを忘れていく練習をしなければと思いながらも、いつまで経っても始めることができない自分も、悪いのだ。
  優柔不断すぎて、どうしようもなく困る。
  いったいいつから自分は、こんなにも優柔不断な男になってしまったのだろう。
「……今夜は魚料理だな」
  気を紛らわすようにサンジは呟いた。
  甲板からは、物音ひとつ聞こえてこない。



  しばらくの間サンジは、キッチンに籠もっていた。
  在庫の確認に始まり、キッチンの掃除、日頃は手の回らない食器類の手入れなどを一通り済ませてしまうと、後はすることがなくなってしまう。こんなにも早くすることがなくなってしまうなんて、想定外だった。自分では、就寝時間がやってくるまでずっとここに籠もっているつもりをしていたから、大幅に予定が狂ってしまったことになる。
「やべえ……」
  することがないということは、甲板に出ていき、エースと言葉を交わすことも可能性としてはなきにしもあらずということだ。また、就寝時間が来たら速やかに男部屋に下りて、休まなければならないということでもある。
  エースと二人きりの船の上で、そんなのは耐えられそうにない。
  そして、意識せずにはいられない。エースという一人の男の存在を。
  口元を手で覆ったサンジの目元が、うっすらと朱色に色付いていく。
「──晩飯、どうすりゃいいんだ」
  ポツリと呟き、その直後に「あああ!」と叫んだかと思うと、床にしゃがみ込む。うずくまって頭を抱えるとサンジはまた、「やべえ、やべえ」と小さく呟きだす。
  エースと二人きりなのだと改めて認識した途端に、これだ。
  自分は興奮している。エースと二人きりだということに興奮して、体が反応しようとしている。そう、欲情しているのだ。
  互いの気持ちに歪みが生じているというのに、どうしてこんなに盛っているのだろう、自分は。
  どうして……と口の中で呟いた途端、キッチンのドアが静かに開いて、エースが入ってきた。
「晩飯、そろそろか?」
  飛び上がるほど驚くというのは、まさにこういうことを言うのだろう。
  サンジはヒッ、と声を上げて飛び上がり、慌てて何もなかったようにその場に立ち尽くした。ウソップがあちこちでよくやらかしているが、サンジ自身、自分がこんなふうにエースの前で醜態を曝すことになるだろうとは思ってもいなかった。
「どうかしたのか?」
  尋ねられ、サンジは首を横に振った。
「や、ちょっと考え事をしてただけだ」
  あまりエースの顔は見ないように告げた。見たら見たで、また要らぬことを考えてしまうに決まっている。
「悪いが晩飯は、食料庫の在庫処分品ばかりだ。すぐ用意するから待っててくれ」
  顔を背けたままサンジが言うと、エースの笑う気配がした。
「そこで待っててもいいか?」
  くい、と顎でエースはすぐそばのテーブルを示す。
「ああ、構わん」
  そう返しておきながらもサンジは、逃げるようにキッチンの奥へと足を向けたのだった。



  夕飯はサンジが宣言したとおり、足が早くすっかり傷んでしまった素材を寄せ集めた料理ばかりだった。
  航海中には貴重な食糧でも、ひとたび寄港することが決まれば、無駄のないように傷んだものはいつもさらえていた。明日の昼過ぎには仲間たちも船に戻ってくるだろうから、傷んだものはこうして使い切ってしまい、出港直前に新しい食材を仕入れる。いつもそのサイクルでサンジはやり繰りをしていた。
「……ウマい」
  目の前に並んだ皿を一つずつ空にするたびに、エースは嬉しそうに告げる。
  サンジは幸せを感じていた。
  体の関係があるものの、一度は離れてしまった相手が、またこうしてサンジに笑みを向けてくるのが嬉しかった。何のわだかまりもなかった頃のように喋りかけてくれることが、たまらなく嬉しい。
「……だろ?」
  ウマいのは当たり前だと、サンジも笑みを返す。
  ナミにもロビンにも、後で礼を言っておかなければとサンジは思った。こんなふうにエースとかつてのように親しくできるとは、思ってもいなかった。
  少し前の親しげな様子でエースは、サンジに喋りかけてくる。
  いつになく饒舌なのは、仲間が不在だからだろうか?
  もしかしたら、少しでもサンジの居心地がいいように、エースなりに気を遣ってくれているのかもしれない。
  そう考えると少し寂しいような気もしたが、それでも構わなかった。
  エースと二人きりで笑い合って食事ができるのなら、たとえ明日から口をきくことがなくなってしまっても構わないとサンジは思う。
  食事が終わりに近付いてくると、サンジはシンクの奥に隠し持っていたワインを出してくる。
  このワインは、バラティエを出る時に持ち出したもののひとつだ。ナミやロビンにはたまに出すことがあったが、男性陣にはこれまで一口も飲ませたことがない。
「俺のとっておきだ」
  そう言ってサンジは、ワイングラスをエースの前に置いた。
  どうせこの先、エースと元の関係に戻ることがないのなら、最後に美味いものを食べさせてやりたい。食事の面ではこの先も今以上のものを振る舞うことが可能だが、酒となると、また別だ。邪魔な連中がいないうちに、とっておきのワインを飲ませてやりたい。いつ別れの時がやってきても、後悔しないように。
「そりゃ、いい」
  気付いているのかいないのか、エースは脳天気な笑みを浮かべている。記憶を失う前の、屈託のない笑みだ。
「飲めよ。今夜は特別だ」
  多分、二人きりでいられるのは今夜が最後だろう。
  エースが、そういつまでもこの船に居続けるだろうとは思えない。
  だったら自分は、後悔をしないようにするだけだ。自分が思うまま、エースと最後の思い出を作るまでだ。



  二人してグラスを傾け、いい感じに酔いが回ってくる。
  しばらくすると、対岸の浜辺から花火の音が聞こえてきた。向こう岸では祭りか何かが行われているのだろう。
  キッチンのドアを開け、夜の海を眺めたままサンジが呟いた。
「いい夜だな」
  その声に重なるようにして、また花火があがる。
  じっとその場に佇んでいると、エースが立ち上がって近付いてくるのが感じられた。
「……サンジ」
  何かを決意した男の声は、低く真摯な声だった。
  聞きたくない、と、咄嗟にサンジは思った。だが、聞かなければならないこともまた、サンジにはわかっていた。
「サンジ」
  もう一度、今度はサンジの耳元に唇を寄せて、エースは囁く。
  まるで恋人同士のような甘い囁き声に、サンジはドキリとする。その声に、雰囲気に、縋ってしまいそうになる。今だけでいいから、エースに恋人のように扱って欲しいとねだってしまいそうになる。
「チョッパーから俺のこと、聞いたか?」
  抱きしめてくる腕が熱いのは、エースが炎の能力者だからだろうか? この腕に再び抱きしめられたいと望んでいたが、サンジの胸の内は複雑だった。
「何を?」
  聞いたのは、少し前、エースが過去のことを思い出したくないような気がするという話だった。そのことだろうか?
  もぞもぞと身じろいでサンジは、体の向きを変えようとする。
「そのままで」
  すかさずエースは言った。
  抱きしめる腕にさらに強い力が加わり、サンジの背筋にゾクリと震えが走った。
「この頃、おかしいんだ。記憶が戻りかけているみたいで、自分がどこにいるのかわからなくなっちまうことがある。チョッパーはいい傾向だと言っていたが……俺にしてみれば、よくわかんねぇんだ」
  エースの言葉は少しずつ小さくなって、掠れていく。
「……おかしいだろ?」
  そう言ってエースは、微かに笑った。吐息がサンジの耳たぶをくすぐり、唇がうなじを掠めていく。
「思い出す、ってのは……まるで……」
  そこまで言ってエースは、サンジの髪に唇を押し付けてきた。チュ、と音を立てて、唇が触れる。
「……まるで?」
  声が震えないように願いながら、サンジは先を促した。
「まるで、喰われちまうみたいな感覚だな、あれは。今の自分がなくなってしまいそうな感じがする。冷たい、暗い海の底へ落ちていくような感じがして、怖いんだ」
  ああ──と、サンジは喉の奥で低く呻いた。
  チョッパーが言っていた。エースは、過去の記憶を思い出すことを恐れている、と。その通りだ。エースは過去を思い出すことに対して、恐怖を感じている。
「アンタにも怖いもんがあるんだな」
  サンジは自分の体に回ったエースの腕を掴んで、からかうように言った。
「ああ。こえぇよ」
  それはエースの本心だろう。嘘偽りのない、エースの心だ。
「だから……」
  甘く掠れた舌っ足らずな声が、サンジの首筋にかかる。
「だから、抱かせてくれ、もう一度。俺がここでのことを忘れてしまう前にもう一度だけ、お前を抱きたい」
  都合のいいことを、とサンジは思った。
  と、同時に、これを逃せばもう二度とエースと触れあう機会はないだろうということも、何となくだが感じていた。
「……格納庫に先に行っててくれ。ここを片したら、俺もすぐに下りるから」
  そう告げるとサンジは掴んだ腕にぎゅっと爪を立てた。
  今、離れたら、もうエースには会えないかもしれない。不意にそんな不安がこみ上げてきて、離れたくないと思ってしまった。まだ、自分の知るエースはここにいるというのに。
「わかった。先に行って、用意しとくよ」
  用意なんて大したことをするわけでもないのに、エースは律儀にそう返した。
「じゃあ、後で」
  未練のようなものを断ち切るようにしてサンジは、口を開いた。
「ああ。待ってる」
  エースは抱きしめていたサンジの体を離すと、肩口に唇を押し当ててから地下の格納庫へと下りていった。
「エース……」
  抱かれたいのか、抱かれたくないのか、今のサンジにはよくわからなかった。
  今抱かれてしまうと、自分が知っているエースがいなくなってしまいそうで、怖くてたまらない。だが、行かなければ行かないで、やっぱりエースはいなくなってしまうような気がした。
  どちらにしても自分は、エースを失うことになるような気がする。
  だけど、それでもエースと触れ合いたい気持ちが勝っているのだ。
  いつものようにキッチンを片付けるとサンジは、軽くシャワーを浴びた。一日働いて汗だくだったから、さっぱりしておきたかった。
  それからゆっくりとした足取りでサンジは、格納庫へと下りていったのだった。



To be continued
(H25.8.14)



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