『冷たい炎』



  甲板の床はひんやりとしていた。
  寒かったが、それをエースは心地良いと思いもした。
  目を閉じると意識の向こうで何かがちらりと動いたような気がする。記憶の欠片がこの頭痛の向こうには潜んでいるような、そんな感じがする。
  目を開けようとしたが、痛みに目を開けることもできなかった。
  まるで赤子が丸まって眠るようにエースは背を丸め、両の拳を握りしめる。
  断片的に頭の中に浮かび上がってきては遠ざかっていくのは、あれはいつの記憶だろう。
  サンジがいた。パズルの断片のように記憶の中に散らばっているサンジは、いったいいつのサンジだろう。自分が記憶を失ってから出会ったサンジだろうか? それとも、記憶を失う前に出会ったサンジだろうか?
  甲板に上がったエースを出迎えてくれるのは、この船のクルーだ。ルフィがいる。ゾロもチョッパーもウソップもいる。少し離れたところではパラソルの下、ナミがのんびりとお茶を飲んでいる。ラウンジのドアが開いて、口の悪いコックが中から出てくる。手には、ナミのために特別に用意したデザートを乗せたトレー。途端にルフィの腹がぐぅ、と鳴り、同じようにウソップとチョッパーも腹を鳴らす。皆が笑っている。こちらへ、とサンジに手招きをされてラウンジに入ると、すぐに口当たりのいい冷たい飲み物がエースの目の前にさし出される。
「あいつらに見付かったらうるさいからな」
  そう言ってサンジは悪戯っぽく口の端に笑みを浮かべた。
  この景色はいつか見たことがある。不意にエースは思った。
  今、エースが持っている記憶とは別の、以前の自分の記憶の中でいつかあったことだ。
  ルフィと言葉を交わしたことを、薄ぼんやりとエースは覚えている。サンジとも言葉を交わしたような気がするが、よく覚えていない。だが、あの場所にいた面々は覚えている。ロビンは確か、いなかったように思う。違うだろうか?
  あまりにも気紛れで、断片的な記憶に自分は振り回されている。
  覚えていないものを思い出そうと必死になって、それがうまくいかないからと言ってサンジに八つ当たりをしてしまった。
  焦るな、とエースは自分自身に言い聞かせた。
  焦るな、ゆっくり思い出すんだ。
  この記憶は、自分の過去の一欠片でしかない。まだ、全てを自分は思い出したわけではない。
  自分が誰で、どういった人間かを思い出したわけでもないのに、全て思い出した気になってはいけない。
  焦るな──もう一度、自分自身に囁きかけた瞬間、エースの意識は現実に戻っていた。
  甲板に横になったまま、じっと眠ったふりをする。
  すぐ傍らに誰かがいた。
「こんなとこで寝て、風邪ひくなよ」
  頭上で低い声がして、パサリとタオルがけかられた。
  それから、遠ざかっていく足音をエースはじっと横になったまま聞いていたのだった。



  記憶の戻らないのがもどかしいのは、何も自分一人だけではない。
  しかし記憶が戻れば戻ったで、サンジとの思い出が失せてしまうのだろうと思うと、エースは何とも複雑な気持ちになる。
  サンジとはまだ、一緒にいたいと思う自分がいる。
  このまま離れてしまうことは……自分の記憶からサンジとの思い出がすっかりなくなってしまうことを思うと、腹立たしいような何とも言えない気持ちに駆られる。
  サンジを手に入れて、記憶も取り戻して……そんな都合のいいことは起こらないだろうが、エースはそれを望んでいる。
  自分が誰なのかを思い出したい。そしてサンジへの想いもまた、もう一度きちんと伝えたいし、まだまだこの関係を続けたいと思っている。
  我が儘だろうか? 欲張りだろうか?
  両方を望むことは、自分には許されていないのだろうか?
  甲板でサンジにかけてもらったタオルは、あたたかかった。サンジのタバコのにおいが微かにしていて、不覚にもエースはあの後、こっそりとマスターベーションをした。サンジのにおいだけで勃起する日がくるなど、あり得ないと思っていただけにショックだった。
  こんなにも自分はサンジを欲していたのだと思うと、一時的にでも彼を避けていたことが馬鹿馬鹿しく思えてくる。結局のところ自分はサンジのことを想っていて、以前のように抱きたいと思っている。少なくとも、今はまだ。
  狡いなとエースは思った。自分はこんなにも身勝手な人間なのだ。
  記憶を取り戻したいと思いながらも、記憶が戻ることを恐れてもいる。サンジとの思い出が失われてしまうことに怯え、憤り、駄々を捏ねている。
  どうしたら両方を手に入れられるだろう。
  過去の記憶と、サンジと。
  どちらも手に入れたい。
  どちらも、自分のものだとエースは思っている。



  船は穏やかな海を滑るように進んでいく。
  別れの時が近付くのも、こんなふうなのだろうか。
  静かに、ただ粛々とその時は迫ってくるのだろうか。
  できれば、サンジが辛い思いをしないようにしてほしいとエースは願う。過去の記憶もサンジも、両方いちどに手に入れることができないのであれば、できるだけサンジには悲しい思いをさせたくないと思っている。
  そして自分の記憶が戻ったあかつきには、サンジには今以上に幸せになって欲しい、とも。
  サンジが悲しまないように、自分はできる限りのことをしてやりたい。
  記憶が戻ってしまったら、無理かもしれないが。
  それでも今、エースは思うのだ。サンジが幸せでいられるのなら、二人の関係に未練を残すようなことをこれ以上してはいけない、と。
  どうすればいいのか、エースには思いつかない。
  ロビンに尋ねると、小さく、馬鹿にしたようにクスリと笑われてしまった。
「そんなこともわからないなんて、案外お馬鹿さんなのね」
  そう言って笑う彼女の目は、意味深に煌めいていた。
  本当はわかるような気がした。
  自分が本当はどうしたいのか、そんなことはいちいち言われなくてもわかっている。
  もう一度、サンジと抱き合いたい。互いの気持ちをぶつけ合い、確かめ合って、愛を交わしたい。
  自分自身の未練が残らないように、自分のエゴのためだけに、サンジを抱きたいと思っている。
  それで、いいのだろうか?
  そうすることで自分は納得するだろう。
  だが、サンジはどうなのだろうか。
  サンジはそれで納得してくれるだろうか? 二人の関係がそれで終わりだと、理解してくれるだろうか?
  物わかりのいいサンジのことだから、きっとこちらが誠意を持って伝えれば、わかってくれるだろう。だが、サンジの心の内側まではエースにもわからない。それが果たしてサンジにとってもいいことなのかどうかは、考えるところだ。
  おそらく同意はしてくれるだろうが……。
  あれこれと頭を悩ませたまま、時間は刻一刻と過ぎていく。
  日が沈み、月が出て、また日が昇り。夜明けと共に吹き付けてきた強い潮風が、エースの気持ちを急かしているかのように感じられた。
  ──早く、早く、早く!
  残された時間がわからない中で、焦りだけが大きくなっていく。それから、苛立ちと焦燥感とが。
  天候がいいことも苛立ちの一因となっていた。
  あまりにも航海が穏やかすぎて、考える時間がたっぷりとあるのも考えものだ。
  考えずにすむようになればいいのにとエースは思った。いっそ、自分勝手な思いをごちゃごちゃ考えている暇など微塵もないほど、忙しくなればいい。
  強い風が吹いて、嵐でもくればいいのに。そうだ、この前のように海が荒れればいいのだ。そうすれば皆、エースのことを気遣う余裕もなくなるだろう。自分だってそうだ。過去の記憶やサンジのことで頭を悩ませる必要もなくなるだろう。
  そうして……この前のようにサンジと二人で孤島へ流され、愛し合うのもいいかもしれない。誰も来ない二人だけの孤島で、昼となく夜となく、二人だけで抱き合うことができればいいのに。
  ずっと、二人だけだ。
  誰も助けには来ない。地図にもないような小さな小さな、隠された島。そんな孤島で二人だけで生きていく。ずっと。
「そして二人は永遠に幸せに暮らしました。めでたしめでたし……ってか」
  フン、と鼻で笑ってエースは呟いた。
  馬鹿馬鹿しい。
  自分はそんなガラではないし、サンジだってそうだろう。
  エースは自分が煮詰まっていることをはっきりと自覚していた。これ以上、同じ考えに囚われるのはよくないということも。考えずにおこうと思うのに、どうしても思考はサンジとのことに戻ってくる。
  自分が、今のこの生活を手放したくないと思っていることは明らかだ。
  この先、どうするのか。どうしたいのか。
  自分は、そしてサンジは、どうなりたいのか。
  ぐちゃぐちゃになった思考の向こう側で、誰かが手招いている。エースを、呼んでいる。
  早く本来の自分の居場所へ戻って来いと、呼びかけてくる。
  だが、まだエースの気持ちは不安定で、定まらない。このままでは帰れないとエースは、呼びかける声に耳を塞ぐ。
  顔を上げ、宙を仰ぐと真っ青な空が広がっていた。
  雲一つない、晴れ渡った空。海は穏やかで、それでいて時折吹き付けてくる風のおかげで船は滑るように海を進んでいく。
  航海をする者にとっては喜ばしい天候だというのに、エースは深い溜息を吐き出すばかりだ。
  真っ青な空が、目に痛い。
  いろいろと未練がありすぎて、エースには今の自分以外を想像することもできない。
  それでも、前へ進まなければならない。
  気の重い作業だと思った。
  今の居心地のよさを捨てて行かなければならない自分というものが、憎らしくてたまらない。
  過去のこと思い出したくない──そう思ったのは、今があまりにも穏やかで、幸せだからだろうか。
  サンジを、手放したくない。
  頭の中に浮かんだささやかな思いに、エースは苦い顔をするしか他はなかった。



To be continued
(H25.3.4)



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