『冷たい炎』



  今の自分はいったい何者なのだろうと、エースは思う。
  新しい記憶と、時折、断片的に意識の下から蘇ってくる古い記憶とに挟まれ、苛まれる自分は、いったい誰なのだ?
  時々、自分が誰なのかを思い出しそうになることがある。
  だが、すぐに今の記憶に押し流され、手元に引き寄せようとしていた過去の記憶は霧散してしまう。
  いつまで経っても思い出すことができないのではないかという恐怖にも似た思いでいっぱいになって、叫び出したくなることがある。
  そんな気持ちを気付いているのか、いないのか。
  この船の連中はエースにはごく自然に接してくれる。
  自分が誰で、どういう人間なのか、彼らにとってはあまり関係ないのだろうか? それとも、どうでもいいと思われているのだろうか。
  いや、そんなことはないと、エースは思う。
  自分は、この船の船長であるルフィの兄……らしい。よく覚えていないが。彼らは、自分が船長の兄だから、親しく接してくれているのだろうか? それとも何か、腹の底で企んでいるのか?
  照りつける真昼の太陽の下にいてすらエースは、真っ暗な闇の中を歩いているような気がしている。
  記憶を失う前の自分と、記憶を失ってからの自分がせめぎあい、侵食しようとしている。勝ったほうが残り、負けたほうは消滅するのではないだろうかと思うと、この先へと一歩を踏み出すことを躊躇ってしまう。先へ進めばもしかしたら、今の自分はいなくなってしまうかもしれない。そう考えると、怖くてたまらない。
  自分がいなくなってしまうのだ。
  記憶を失ってからの自分との付き合いは、これまで生きてきた人生の中でもほんの短い期間でしかないが、それでも怖いものは怖いのだ。それまでの自分がどうであろうと、関係ない。今の自分のアイデンティティが失われてしまうのだと思うと、今のままでいいと思ってしまう。このままでいい。誰でもない、記憶を失ったただの一人の男でいい。
  せめてもう少しだけでも、このままでいさせてほしいと願わずにいられない。
  時折、記憶の底から揺らめきながら、過去の自分が甦ってくる。あれが自分なのかと思いながらも、どこかしら他人事のように、一歩退いた場所から過去の自分を見つめている。
  記憶を取り戻したくない理由は、他にもある。サンジだ。彼とのことをうやむやにしたままに、今の自分を失いたくはない。別れる時にはちゃんとケジメをつけて別れたいと思っている。いや、別れる別れない以前に、自分たちが恋人同士だと言葉にして認識し合ったわけではなかったが、体の関係があったのは確かだ。
  おそらく記憶を失う前の自分であったとしても、同じように思うのではないだろうか。さよならの言葉もないままに別れてしまうだなんて、それでは肌を合わせた者同士としてあまりにも寂しすぎる。
  サンジと別れたいと思っているわけではなかったが、自分の記憶のことを考えると、先へ進むのが怖かった。
  もうひとつの不安は、過去の自分はもしかしたら、男であるサンジに対して嫌悪感を示すかもしれないということだった。男色に走った記憶のない自分に、過去の自分は失望するかもしれない。
  もしかしたら……かもしれない……そんなことばかりを考え、頭の中であれやこれやと考えているうちに、思考はどんどん混乱していく。
  どうしたらいいのか、わからなくなっていく。
  だから……混乱したままに、サンジを犯した。少し前のことだ。
  あれ以来、サンジのほうからエースに喋りかけてくることはなくなった。
  このまま記憶が戻ってしまえば、二人の関係は永遠に気まずいままに終わってしまうことになるだろう。
  自分は、いい。
  自分はいつか記憶が戻るだろうから、気まずいことがあったとしてもその時には忘れてしまうことができるだろう。
  だが、サンジはどうだ?
  忘れることもできず、中途半端なままに気持ちが残れば、可哀想だ。
  せめてエースへの気持ちを整理できるような状況を作ってやるなりしてやらなければ。たとえその結果、ただひたすらにエースを憎むことになったとしても構わない。どんな方法でも、サンジの気持ちが自分からなくなるのなら、それで構わない。
  寂しいことだが、仕方がないだろう。



  甲板でのんびりと過ごす女性陣の傍らに、サンジの姿があった。
  くつろぐ二人の邪魔をしないように適度な距離を取りながら、まめに彼女たちにかしずく姿を見ていると、男の自分と体の関係があるようには思えない。
  ほっそりとした体付きをしているが、あれでもなかなかに手強い海賊だ。
  あんなふうに楽しげに言葉を交わし、なにくれとなくナミやロビンの世話を焼く姿を見られるのも、あとどれくらい許されているのだろう。
  記憶が戻れば、彼のそんな姿を目にしても何も思わなくなるのだろうと思うと、じりじりと焦燥感が込み上げてくる。
  今、言わなければ。
  今の自分でいるうちに、伝えるべきことは伝えておきたい。
  たとえサンジのことを忘れてしまう日がきたとしても、悲しまないでくれと言っておきたい。自分は、短い期間であったとしても彼と一緒に過ごすことができて幸せだった。だから自分の存在がこの世から消えてしまったとしても……。
  ふと顔を上げると、それまでパラソルの下で熱心に頁をめくっていたロビンと目が合った。
  もの問いたげな眼差しに、つい目を逸らしてしまったのは、決まりが悪いからだ。
  少し前にキッチンでサンジとの情事を目にしたはずの彼女だが、これまでのところ何もそれらしき素振りは見せていない。気にはなったが、自分からほのめかすのも癪で何もなかったように振る舞ってきたが、やはりこの視線は、サンジとのことについて詮索しようとしているのだろうか。
  日差しが眩しいふりで顔をしかめたエースは、どうしたものかと思案する。
  ごまかしはおそらく、効かないだろう。
  あの、眼。まるで品定めをするような感情のない眼差しが、気に入らない。仲間に対して不埒な真似をした海賊をどうしようかとあれこれ考えているのではないかと思えてくる。
  とは言え、サンジとはもう、関係はないのだ。二人が肌を合わせることはもう二度とないだろう。
  あの時はサンジに酷いことをしてしまったとは思うが、後悔はしていない。あの時、エースの記憶は混乱していた。今にも消えてしまいそうな今の自分と、自分が知らない過去の自分との間で気持ちが揺れていた。サンジならすべて受け止めてくれるだろうとの甘えからやってしまったことだが、謝るつもりはない。
  わかってくれるだろうか、サンジは。
  ロビンの突き刺さるような視線をやり過ごし、エースは甲板を移動する。
  魚釣りに飽きて大工仕事を始めたウソップのところへ行くと、見よう見真似で船の修理を手伝うことにする。
  体を動かしてさえいれば、この居心地の悪い状況から逃れられるはずだ。
  金槌と釘を手にすると、手元でトン、トン、と音をさせる。一心不乱に修繕に勤しんでいるうちに時間は過ぎ、いつしか日差しは傾いていた。



  サンジを見ると、甘えてしまいそうになる自分がいる。
  もう、彼に依存してはいけない。自分は彼にあんなに酷いことをしたのにと思いながらも、ついつい視線はサンジを追ってしまう。
  こんなに自分は弱い人間だったのだ。
  過去の自分もそうなのだろうか?
  誰かに頼り、甘えなければ生きていけないような人間だったのだろうか?
  それを訊きたいと思ったが、訊ける相手はいなかった。
  弟のルフィに尋ねるのは違うような気がしたし、ゾロやチョッパーやウソップ、ナミとそんな話はしたくない。
  それでは……と思った時に浮かんできた顔は、ニコ・ロビンの顔だった。
  彼女なら忌憚のない言葉で教えてくれるかもしれない。エースという人間がいったいどのような人間だったのかを、正直に話してくれるのではないだろうか。
  この船に乗り込んでからずっとロビンのことを苦手だと思っていたのは、彼女こそが的確に自分の状況を言い当て、現実を直視させられることが感覚的にわかっていたからかもしれない。
  そしてその現実というのは、おそらくは自分が逃げ回っている過去の自分と対峙することに他ならないからだろう。
  辛いなとエースは口の中で呟く。
  彼女のあの目が、苦手だ。何もかも見透かされてしまいそうで、恐くなることがある。自分が覚えていない過去のことまでほじくり返されそうな恐ろしさに、つい、声をかけることを躊躇ってしまう。拗れたサンジとの仲をきれいに終わらせようと思うと、彼女の力を借りるのがいちばんだろうということはわかっているが、それでもなかなか、声をかけようという気にはなれない。
  終わらせたくない自分がいるのもまた事実で、そうすればよりいっそう辛くなることはわかっている。
  それでも……それでも、サンジを最後にもう一度この腕に抱きしめたいと願うのは、これは自分のエゴだろうか?
  はあ、と溜息をつくと、空を見上げる。
  水平線の向こうに上がった星は小さかったが、確かに空の向こうに存在している。夕暮れの残照の中では今ひとつ力無く、弱々しい光だが、あれを目印にする者も少なくはない。
  今の自分には、導いてくれる者が必要だった。
  過去の自分と今の自分を理解し、認識してくれる者が必要だ。
  これ以上サンジに頼ることはエース自身のプライドが許さなかったが、それでも頼るなら、相手はロビンではなく、サンジであってほしいと思ってしまう。
  何にしても、自分が動かなければ事態は進展しないはずだ。
  ロビンに声をかけるか、それともサンジに声をかけるか。
  どうするべきだろうか。
  自分は、どうしたらいいのだろう。
  ロビンか、サンジか。声をかけるのか、かけないのか。このまま記憶を取り戻してしまったとして、その時に自分は後悔せずにいられるのだろうか。
  サンジとの関係に、中途半端な終止符を打ってしまっていいのだろうか。
  割れるように痛む頭を抱え、エースは甲板にゴロリと転がった。
  ひんやりとした風が吹いて、やけに肌寒い夕暮れのことだった。



To be continued
(H24.10.17)



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