『冷たい炎』
そうして船は、また次の冒険を目指して海を越えていく。
甲板に出ていくとサンジは、夜空の星がチカチカと瞬く様を眺めながら、煙草を口にくわえた。
エースと別れ、GM号と別れ、いくつもの航海をやり過ごしてきた。たくさんの人々と出会い、別れ、また出会い、エースの死を知った。
あれから、二年が過ぎた。
ただひとつ心残りがあるとすれば、あの格納庫での夜に、エースの言葉に応えることをしなかったことだけが悔やまれてならない。応えてやればよかった。自分も愛していると一言、口にしていればよかった。
あの時は、エースに応えてしまえば自分の気持ちが全て持っていかれてしまうような気がしたのだ。記憶を失った男が過去の記憶を取り戻し、サンジのことなど知らないといった冷ややかな眼差しで見つめてきたらどうしようと、そんな馬鹿なことを考えていた。実際は、そんなことはなかった。エースは自分の記憶が戻るとそのまま姿を消してしまったのだから。
胸の内ポケット、シガレットケースの後ろに大切に折り畳んでしまってある紙切れを取り出すと、サンジは丁寧に紙を開いた。
暗がりのため文字を読むことはできなかったが、それでも、あの乱雑な字がうっすらと見えるような気がする。弟と恋人を一緒くたにするがさつなところが、エースらしく思えて、サンジはふっと口元に笑みを浮かべた。
愛していた。
心から、あの男のことをサンジは愛していた。
たとえ記憶を失ったままだったとしても、また過去の記憶を取り戻したとしても、エースのことを自分は愛しただろう。
空を見上げても、星たちの小さな光しか見えない。今夜の月は、分厚い雲の中に隠れたまま、顔をちらとも見せようとしない。
手にした紙切れを丁寧に折り畳むと、サンジはジャケットの内ポケットへと大切そうにしまい込んだ。
それから、口にした煙草に火を点ける。
あの夜のことは、もう随分と遠い昔のことのように思える。今はうっすらとしか覚えていない。
エースの体温も、汗のにおいも、今のサンジには朧気な記憶でしかない。
会いたい。一目だけでもいいから、会って、抱きしめたい。もう二度と叶わないことだということは分かっていたが、会いたくて会いたくて仕方のない夜がある。
絶対に忘れない。
そう思いながらも一つひとつ、エースとの記憶が薄れていくことが恐くてたまらない。
いつか、すべて忘れてしまうのだろうか?
エースという人間のことも、記憶を無くして途方に暮れた男のことも、抱きしめる腕の力強さや、優しい唇や、明け透けな笑顔までも、サンジの思い出の中で色褪せていってしまうのだろうか。
紫煙を吐き出すと、胸の奥底に空洞のようなものがポカリと空いているような気がした。
何故あの時、自分の気持ちを正直に告げなかったのだろうとサンジはいまだに不思議に思っている。
あんなにも好きだったのに。
二年も経てば人間の気持ちというのは、こんなにも簡単に変わってしまうものなのだろうか。
今の自分は、エースを失った痛みなどなかったようにしている。それは別に悪いことではない。人の死というものを乗り越えてこそ、得たものもあるはずだ。
だが、自分としてはやはり、納得がいかないのだ。
エースとの記憶が薄れていくにつれて、彼に対する自分の愛情はその程度のものだったのだと思えてきてならない。ふとした拍子に自分を責めてしまいそうになる。
そんなことはしなくてもいいと言ったのは、チョッパーだっただろうか。それとも、もっと他の誰かだっただろうか。
エースに会いたいと、サンジは思った。
このままエースのことを忘れていってしまいそうな自分に対する憤りと、もう二度と会えない人に伝えられなかった言葉を抱え込んだことに対する不満とで、サンジの胸の中はぐちゃぐちゃだ。
「エース……」
名前を呼ぶだけで、唇が震える。
せめて一度だけでいい。
あの時伝えられなかった言葉を伝えるだけの短い時間でいいから、エースに会いたい。
はあ、と息を吐き出す。唇の震えはまだ、止まらない。
悔やんでも仕方のないことだ。
エースはあの時、行ってしまった。サンジのいない場所で、ルフィの楯となって命を落としたのだ。海賊らしい……いや、エースらしい最期だとサンジは思っている。
だから自分は、エースを愛してやまないのだ、とも。
「──俺も、愛してる」
暗くて何も見えない海へとサンジは、呟きを零した。
それと一緒に涙が一筋、サンジの頬を濡らしていく。
吐き出す息は細く、今もまださざ波のように震えている。
エースへの愛の告白は、ちゃんと届いただろうか?
もう一本だけ煙草を吸ってから、サンジは甲板を離れた。
ラウンジでは仲間たちが思い思いの料理を口にしている。この馬鹿騒ぎは今夜も明け方近くまで続くのだろうか。
唐突に聞こえてきたルフィの威勢のいい声に、サンジは小さく苦笑した。
好きな男がいなくなったとしても、航海は永遠に続いていく。
仲間たちがいる限り、どこまでも果てしなく。
せめて自分が死ぬ時は、愛した男に恥じないよう、精一杯生き抜こう。サンジはそっと、自分自身に誓ったのだった。
END
(H25.8.22)
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