『愛は、キマグレ! 1』
カラン、と音を立ててドアが開いた。
窓際の席でうつらうつらしていたゾロが剣呑な仕草で顔を上げると、入り口には見知った顔の男が立っていた。淡い金色の髪に、顎の下にうっすらと髭を生やして、男はゾロを真っ直ぐに凝視している。
「チビナス。おめぇ、なんでこんなとこにいるんだ」
すぐさまカウンターの向こう側から、しわがれた罵声が飛んだ。
「うっせぇ、ジジイ。一週間の休暇が出たから、帰ってきてやったんだよ」
と、凄んでみせながらもどこか嬉しそうな男の穏やかな表情に、ゾロまでもがつい口元に笑みを浮かべてしまった。
「……帰ってきたぜ、ゾロ」
ゆっくりとした足取りで、男は近づいてくる。
「おう」
それだけしか、こたえられなかった。
寡黙な男の頭の中では、めまぐるしく言葉の断片だけがぐるぐると飛び回っている。しかし、目の前の男に対していったいどんな言葉がふさわしいというのだろう。
じっと、男のぐるりと巻いた眉を見ていると、カウンターの中からやけに大きな咳払いが響いた。
「──少し、付き合え」
たった今、帰ってきたばかりの男が鷹揚に告げる。
言われてゾロは、黙って席を立った。
店を出たゾロは前を歩く男の背中をじっと見つめた。
ほっそりとした背中ではあるが、服の下にはしっかりと筋肉がついている。以前よりもさらにすらりとしているようにも見えるが、実際、どうなのだろう。
「なあ、どこに行く?」
尋ねられ、ゾロは困惑したようにサンジの顔を見つめ返した。
「どこ、って……」
少し付き合えと言ったのは、サンジだ。てっきり行く宛てがあるのだろうと黙ってついてきたのに、逆に、どこに行くと尋ねてきた。サンジと知り合ったばかりの頃のゾロならば、いったいどういうことなのだと喰ってかかっていたかもしれない。
しかし今は違う。
そんなことで時間を無駄にすることなど、今の二人には考えられないことだった。
「……どこでもいいなら、道場を覗きたい」
ぽつりと、やや遠慮がちにサンジは言った。
ゾロのテリトリーと認識しているからなのか、道場はサンジがなかなか足を踏み入れない場所のひとつでもある。
「ああ、別に」
──いいけど。
言葉尻は、途中で喉の奥に飲み込んだ。そうしておいてゾロは、黙って歩き出す。
「おいおい、どこに行くつもりなんだよ」
呆れたようにサンジは、ゾロの背中に向かって呻いた。歩いて道場まで行くのならまったく逆の方向だし──隣町の道場くんだりからこの店までゾロは、徒歩でやってくることがあるのだ──、サンジの車で行くのなら、店の裏手に回らなければならない。方向が違うだろうと、一人、サンジは呟く。
立ち止まったゾロは、サンジを振り返った。
鋭くすがめられた眼差しが、サンジの心を勢いよく鷲掴みにする。
「ああ、もうっ! 車取ってくるから、ここで待ってろ」
そう言うとサンジは、駐車場へと駆けだしていた。
道場の澄んだ空気が心地好い。
板張りの床に正座をして、サンジはじっとゾロの姿を凝視する。
この張り詰めた空気を感じたくて、サンジは留学先から帰ってきた。たかが一週間の休暇をもらったぐらいでいそいそと一時帰国をするほどの重度のホームシックにかかっているとは思いたくなかったが、それでも、会いたかったのだ、この男に。
竹刀を手に静かに練習を続ける男は、ただひたすらに打ち込みの練習をしている。
何者をも寄せつけない厳しい眼差し。ピンと伸ばした背筋。途中で上半身裸になってしまったゾロの、竹刀を振る腕の筋肉のうねり。
サンジは一心に、ゾロの姿を見つめている。
こんなにいい男が、サンジの恋人なのだ。一年ちょっと前までは、男の自分が同性に対して恋愛感情を抱くなど、思ってもいなかった。しかし男同士ではあるが、ゾロとはれっきとした恋人同士なのだ。
こんないい男が、恋人…──と、そこまで考えてサンジは、口元に誇らしげな笑みを浮かべる。自慢の恋人はようやく稽古を終えたのか、竹刀を片付け、床に雑巾がけを始めたところだった。
「先に部屋に行ってろよ。俺は、ここを片付けてから戻るから」
そう言われて、サンジは足を崩した。久しぶりに正座をしたからだろうか、足の感覚がなくなっている。そっと、指で足の裏を圧してみる。やはり感覚はない。どうしようかと考えたが、ここで正直に足の感覚がないことを白状するのも何となく悔しいような気もする。何食わぬ顔をして立ち上がりかけたその瞬間、体が大きく傾いた。
ドタン、と肩から床に沈み込んだサンジの姿を見て、怪訝そうな表情のゾロが駆け寄ってきた。
「大丈夫か?」
尋ねながらも口元が笑っているのは、サンジの足の感覚がなくなっているのに気付いているからだろうか。
「大丈夫……じゃ、ねえ!」
目の端に悔し涙を溜めたサンジは、唸るように食いしばった歯の間から言葉を吐き出した。感覚のなかった足に少しずつ感覚が戻ってくると、次はビリビリとした痺れが足全体を包み込んだ。あっという間にサンジの両足は痺れが切れて、動くことも触ることも、ましてや歩くことなどとてもじゃないができない状態になっていた。
結局、サンジの足の痺れがおさまるまで、ゾロは道場の床に雑巾がけをして時間を潰した。そうしながらも時折ゾロは、雑巾がけの最中に悪戯っぽくサンジの足をつつきに来た。サンジが涙目でヒーヒー言って逃げ回ると、ゾロは楽しそうに声をあげて笑った。
「てめぇ、後で覚えておけよ」
凄んでみても、今のサンジには迫力の欠片もない。
大口を開けて笑いながらゾロは、不意にサンジのほうへと近寄っていく。まだ痺れの残るサンジの足に触らないように気を付けながら、ゾロは、柔らかな髪に唇で触れた。
「…犬か猫の子みたいな髪だな」
低く呟いて、もう一度サンジの髪にキスをする。
「なんだ、そりゃ」
顔をしかめてサンジが問うと、ゾロは「なんでもねぇ」と、さらりと返した。
パチン、と、道場の引き戸が開け放たれた。
「……サイテー」
道場に一歩足を踏み入れるなり、不機嫌丸出しの声で少女が言い放った。
「神聖な道場で、男同士でイチャこいてないでください」
ショートボブの少女は、片手で眼鏡をかけ直すと、冷たい眼差しでゾロを睨み付ける。
おや、と、サンジは思った。以前、出逢った時とはえらく印象が違っている。あの時の彼女は、もっとこう、人好きのする娘だった。今のように冷たい表情をしていると、まるで別人ではないかと思えてくる。眼鏡をしているからだろうか。どうしたのだろうかと思っていると、少女の後ろから厳ついオヤジが道場に入ってきた。
「なんだ、稽古通いまで始めたのか?」
小さな声でゾロが呟くのが、聞こえる。剣呑そうなその声に、サンジはちらりとゾロの顔を見た。
「いつまでそんなところで抱き合ってるんですか!」
苛ついた少女の声に、サンジはビシッと背筋まで伸ばして板の間に立ち上がった。
「馬鹿マリモ、いつまでもじゃれてんじゃねぇ!」
言いながら、まだ床の上に座り込んだままのゾロの腹にひと蹴りくれてやる。
ふてぶてしい笑みを浮かべてゾロは、蹴りを受けた腹を軽くさすった。
「あ、スモーカーさん、煙草は厳禁ですから、葉巻はお預かりします」
そう言って少女は、男がくわえていただけの葉巻を素早く取り上げる。その動きの素早さにサンジが感心していると、くるりと振り返った途端に何もない板の間で蹴躓き、彼女は顔からすっころんでいった。
「アホか……」
ポリポリと頭を掻きながら、ゾロが呟いた。
to be continued
(H19.11.4)
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