部屋の片付けを終えたサンジは、ボンヤリと煙草をふかしていた。
  気分がささくれているのが自分でも感じられる。
  ゼフはそんなサンジに気付いているのかいないのか、今日は店の手伝いはいいとわざわざ声をかけにきた。
  そうか、それならとサンジは、部屋でゴロンと横になって、真昼間から煙草をふかして今に至る。
  ベッドに横になったまま、ぼんやりと窓のほうを眺める。
  少し前まで、サンジの部屋には年老いたガラス業者が来ていた。割れたガラスを修理するのに、三十分とかからなかった。窓枠に残るガラスの破片を取り除き、手際よく新しいガラスをはめ込む。その手つきにサンジは見とれた。ゼフが料理を作るのと同じで、無駄な動きはひとつとしてなかった。あれは、いったいどんな魔法を使っているのだろうかとサンジは思う。
  と、同時に、自分にはまだあそこまでの手際のよさは修得できていないと溜息をつかざるを得なかった。
  残念ながら自分には、まだまだ修行しなければならないことが山のようにあるようだ。
「……やっぱ戻るか」
  呟いて、紫煙を吐き出す。
  何より、修行途中で逃げ出すような真似はしたくはなかった。修業先に戻ってエースと気まずくなろうとも、自分には、やり遂げなければならないことがある。ゾロはきっと今回も、サンジに理解を示してくれるだろう。快くサンジを送り出してくれたように、今回もきっと、笑って送り出してくれるに違いない。
  何ほども吸わずにサンジは煙草を、灰皿の底に押しつけた。
  ゾロに話をしなければと思いながらも、そのゾロと顔を合わせるのが億劫で仕方がない。
  しかし会わなければ話は始まらない。
  エースが日本に来ているということ、サンジに気があり、ゾロと張り合うつもりでいることを、伝えなければならない。
  男三人の三角関係というのもある意味シュールだなと、サンジは溜息をついた。



  修行先に戻る準備に、サンジは余念がない。
  ゾロとのことは何とかなるだろうと思っておくしかない。そうでなければ、気にしすぎてそのうち神経がどうにかなってしまいそうだった。
  エースのことはまだ、ゾロには話せていない。
  このまま旅立ってしまったなら、きっと後悔するだろう。それにエースとのことをもっとちゃんとゾロに話しておかなければ、何とかなるものもならなくなってしまうかもしれない。
  はあ、と溜息をつくとサンジは、ゾロがやってくるのを待つ。
  夕方からゼフは出かけるらしい。ロビンと会うのだと聞いている。エロジジィめがとサンジは思った。いくら仕事の打ち合わせとは言え、ジジィが綺麗な女性と一緒に食事するのだと聞くと、あまりよろしくない想像をしそうになる。
  まったく、これだからジジィってのはと、店のカウンターに入ったサンジは溜息をついた。
  そうこうするうちに常連客がポツリポツリと増えてくる。これからしばらくは忙しい。腹を空かせたサラリーマンたちに食うものを食わせて店から送り出した後には、片付けものの山がシンクの中に積みあがっていた。
  いつも通りなら、あと一時間ほどでゾロがやってくるだろう。そうしたら今日は本当に店じまいだ。来れない時には、連絡がある。
  最後の客を送り出してしまうと、店内はひっそりとした空気に包まれた。ゾロが来るまでのんびり洗いものでも片付けようかと煙草を口にくわえたところで、チリン、とドアベルが鳴った。
「あ……？」
  ゾロにしては早すぎると入り口のほうへ顔を向けると、そばかす顔の若い男が立っていた。



「よ、サンジくん」
  口元にニヤリと笑みを浮かべて、エースが言った。
「エース……」
  ヤバいと、サンジは思った。
  ゾロにはまだ、エースのことを全部話しきっていない。それにゾロは、もう少ししたらここに来るはずだ。どうしよう、どうすればいいのだろう。エースに今日のところは帰ってくれと頼もうか。もしくは今すぐ修行先に帰れと言えば、彼は素直に聞いてくれるだろうか？　それともいっそ、店を臨時休業にしてしまおうか……。
  あれこれ考えているうちに、頭の中がいっぱいになって何も考えられなくなってしまった。
  カウンターに近づいてきたエースがさっと手をかざすと、口にくわえたサンジの煙草に火がついた。
「お疲れ、サンジくん」
  甘ったるい声がサンジを労わる。
「ああ……」
  深く吸うと、ニコチンがゆっくりと体の中に流れ込んでくるのが感じられる。
  ゆっくりと息を吐き出すとサンジは、エースにカウンター席に座るよう眼差しで示した。
「海老ピラフでいいから、食わせて」
  スツールに腰をおろし、エースが甘えた声を出す。
  フン、と鼻を鳴らしてサンジは冷蔵庫を開けた。小ぶりの海老、たまねぎ、にんじん、ベーコン、しめじ、彩りにパプリカ……。
「すぐに用意してやっから、おとなしく待ってろ」
  そう言うとサンジは、ピラフの用意を始める。エースのほうへはちらとも視線を向けなかった。



  料理をするのは楽しい。ごつごつとした自分の手の動きひとつで、料理の味が違ってくる。毎回、最高のものを作るつもりで包丁を手にするが、調味料の微妙な匙加減やコンロの火加減、下ごしらえの手順などで、味だけでなく見た目がかわってくることを長年の経験からサンジは知った。それはちょうど女性との恋の駆け引きにも似ているかもしれない。
  間違っても、自分とゾロではないなとサンジは思う。
  自分たちの恋には、こんな微妙な駆け引きは必要としない。もっと動物的なもののような気がする。
「楽しそうだな」
  不意にカウンターの向こうからエースが声をかけてきた。
  驚いてサンジは顔を上げる。
「そりゃ、楽しいさ」
  単なる野菜や肉でしかない食材から料理を作り出すこの手は、魔法の手だ。誰にも負けないだけのものを自分は持っていると思う。この手で作った料理を口にした人が喜んでくれることだけを考えて、サンジは料理を作っている。相手が誰だろうと、そんなことは関係ない。
「本当、楽しそうな顔して料理するよな」
  エースの声はどこか羨ましそうだ。
「アンタは楽しくないのか、料理を作る時ってのは」
  料理を作る時の顔というのは、人それぞれだ。ゼフなどはいつもしかめっ面をしているからか、喜怒哀楽がほとんどわからない。料理をしている時の表情は厳しいが、その反面で穏やかな優しさを見せることもある。コトコトと時間をかけて煮込んだスープが思い通りの味になっていた時のゼフのあの顔は、なんとも形容しがたい。口元を微かに歪めるだけの笑みだが、それでもゼフが喜んでいるということがサンジにはわかる。家族だからとか、そんなことではなくて、料理という媒体を通して、自分とゼフは繋がっているのだと思える瞬間でもある。
「俺は……」
  エースは言いかけて、ふと口を噤んだ。ちらりと上目遣いにサンジへと視線を向けてから、苦笑する。
「俺は、料理なんて大嫌いだった。なりたくもなかったが、できることがそれしかなかった。だから料理人の道に進むしかなかった」
  そう一気に告げるとエースは、グラスの水をぐい、と飲む。
「修行先に放り込まれて心底嫌気が差していた時に、サンジ、お前が入って来た。ちょっと生意気で自信満々の後輩は、そりゃもう、楽しくて楽しくてたまんねえ、って顔して料理を作るんだ。なんであんな顔して料理が作れるんだろうって、俺は不思議でたまらなかったね」
  そうだろうかと、サンジは思う。
  修行先で料理を作るのは確かに楽しかったが、過度の緊張と不安も伴った。怖かったのだ、本当は。この店で料理を作るのと同じようにしていてはいけないということだけははっきりとしていたが、それ以外にどうすればいいのか、サンジにはまったくわからなかった。
  昔からゼフに料理の筋がいいと言われていたが、それだけを頼りになんとかやってきたようなものだ。
  それを今さら、こんなふうに告げられても困るだけだ。
「俺はな、たぶん……お前のことが、羨ましかったんだと思う」
  ポソリと呟いたエースの声が、無機質なカウンターに冷たく響いた。



  今、この場でこんな話は聞くべきではないとサンジは思った。
  聞いてしまえば、今まで以上にエースに情が移ってしまいそうな気がする。
  一度でも情が移ってしまえば、自分はエースのことを気にするようになるだろう。これまでゾロにしていたように、エースを甘やかしたり抱きしめたりキスしたり、そんなことも平気でするようになるかもしれない。
  もともとの雰囲気が似ているのだ、ゾロもエースも。だから、サンジの気持ちはより強く意識させられた者に惹かれる。今のところは。
  それではいけないとサンジは思う。そうではなくて、自分がゾロを好きだというのなら、やはりエースになびくのはどう考えてもおかしいだろう。
  はあ、とサンジが大きな溜息をつくと、スツールに腰掛けたエースがニヤリと笑う。悪びれた様子もなく、エースはサンジをじっと見つめている。
「サンジくんが一緒なら、俺はもう一度、頑張れそうな気がする」
  修行には飽き飽きしているのだというふうに、エースは告げた。
  その瞬間、サンジの中の何かが大きな音を立てて壊れた。ムッとした表情を隠すこともなく、出来上がったばかりの海老ピラフをドン、とエースの目の前に差し出す。サラダとスープも同じようにして出した。
「ちょっと表で煙草吸ってくらぁ」
  そう言ってサンジは、ふらりと店を出た。