『冷たい炎』



「俺は、好物は最後までとっておく主義なんだ」
  そう言うとエースは乱暴に、肩に担ぎ上げたサンジをベッドの上に放り出した。
  シーツに転がされると同時にサンジは、大きく身を捩る。逃げられるものなら逃げようとしたものの、すぐに両手首を掴まれ、ベッドに縫い止められてしまった。
  覆い被さってきた男の力はサンジがその気になれば逃げられる程度の力だった。形ばかりの抵抗を示すと、頬を打たれた。口の中に血の味が広がった。それからエースは、躊躇うことなくサンジの首を両手で締め付けた。
「苦しいか?」
  ぐっ、と喉が締まり、一瞬、空気の流れが止まる。
「……苦しいだろ?」
  再び男が尋ねた。
  うっすらとサンジが目を開けると、男自身が苦しそうに眉をひそめていた。
「お前の苦しみは、俺がこの手に力を込めるか離すかすれば、終わるだろう。だが、俺の苦しみは…──」
  サンジの見ている前で、男の目に涙が溢れてきた。
  見る見るうちに盛り上がった涙の粒が、ポタリ、とサンジの頬に零れ落ちる。
  苦しいのは、痛いほどよくわかっているつもりだった。サンジはゆっくりと目を閉じると、体から力を抜いた。
  他人の痛みを想像し、共感することはできても、相手にかわってその痛みをこの身に受けることはできない。怪我なら、過去の自分の経験からおおよその想像をつけることはできる。しかし、これは……エースのこの怪我には、サンジだけでなく、さすがのチョッパーも舌を巻かざるを得なかった。
  なんと厄介な怪我──病気?──なのだろうかと、さしものクルーたちも持て余し気味だった。
  この、記憶喪失というやつは、時間が経てば全てを思い出すかもしれないと、チョッパーは言っていた。
  ただし、それがいつなのかということまではわからないところが、厄介な病だった。目に見える外見上の怪我とは違い、とてもデリケートな問題でもあるから、治る治らないは本人次第だと、チョッパーは言う。
  最初の何日かは黙って自分の置かれた環境に馴染もうとしたエースだったが、次第に焦燥が募っていった。
  端で見ていられないほど苛々しているのがわかったから、チョッパーに許可をもらい、外へ連れ出した。
  ちょっとした気分転換になればと思ってしたことだった。
  折しも、船はどこかの港に入ったばかりだった。
  買い出しの下見も兼ねて、エースと二人で港町の喧騒をのんびりと楽しもうと思っていたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
  サンジはぼんやりとした視界の向こうに見えるエースに、手を差し伸べた。



  親指の腹で、エースの目元を拭ってやる。
  涙は驚くほど熱かった。
  記憶を失い、エースという名前の器だけになってしまっても、根本の部分でこの男はエースなのだ。
  知らず知らずサンジの口元に笑みが浮かぶ。
  自分だけが知っている。エースが、こんなにも弱い男だったとは思いもしなかったことだ。
  そんなことを考えていると、不意に喉に回されたエースの手が離れ、急に肺の中いっぱいに空気が流れ込んできた。
  むせかえったサンジは体を丸めて必死になって息をした。もう少し長い時間首を絞められていたなら、死んでいたかもしれない。
  ひとしきり咳き込んだサンジは、薄目を開けてエースを見た。
  手を離したものの、どうすればいいのか戸惑ったような表情でじっとサンジを見おろしている。サンジは、エースの首の後ろに手を回すと、くい、と自分のほうへと頭を引き寄せた。そのままサンジの胸に額をつけてくる男は従順で、今はされるがままになっている。
「──…大丈夫」
  掠れた小さな声で、サンジが呟いた。
「大丈夫だ。チョッパーが、時間をかければ治ると言った」
  気休めなどではない。必ずこの男の記憶が元に戻ると、仲間たちは皆、そう信じている。
  身じろぎひとつすることなく、エースはじっとサンジの胸に顔を伏せていた。
  胸が熱く感じられるのは、エースが泣いているからだろうか。時折、洩れる吐息は、サンジの肌を焼き焦がしそうなほど熱い。その一方で縋り付く手の力が驚くほど弱々しいのは、何かを躊躇っているからだろうか。
  男の潮風に焼けた焦げ茶色の髪を優しく撫でつけながら、サンジは言った。
「俺を、信じろ。俺が必ず、お前の記憶を取り戻してやるから」
  シャツの裾を握り締めた男の手が、ピクン、と動いた。



  気付いた時のエースは、まっさらな状態だった。
  何も、覚えていない。
  自分が誰なのか、どこからやってきたのか、何故、この場にいるのか。
  何も、思い出せない。
  何も、覚えていない。
  いったいいつから自分は、ここにいるのだろう。
  どうして?
  ぼんやりとあたりの景色を眺めていると、いつの間にか人が集まってきていた。
  どうやらここはどこかの港で、自分は、漂着物と一緒に砂浜に打ち上げられたようだった。と、いうことは、自分は海で何らかの事故に遭ったのだろうか。それとも、何かもっと別の理由で自分はここにいるのだろうか?
  何にしても、ここは、居心地が悪い。砂の感触は嫌ではない。透き通る青い海水も、白い飛沫も、潮の香りすら好ましく感じるものの、何かが違うと頭の中で告げている。
  何が違うのだろうかとぐるりとあたりを見回すと、見知った顔なのだろうか、エースと目が合ったところでハッと息を飲んだ男が目に映る。
  ──知り合いか?
  黒いスーツの男は、港町には酷く不釣り合いな容姿をしていた。くわえタバコの口元が色っぽいなと、エースは一目見て思った。
  じっと見ていると、男のほうから笑いかけてきた。
「よ、何やってんだ、ルフィの兄ちゃん」
  そう言って男は、遠巻きに眺めている周囲の観客を押しのけ、エースの前にやってきた。
「どうした? 腹でも減ったか?」
  顔を覗き込んでくる青い瞳が、深い海のような光をたたえていた。
  エースは微かに頷くと、口を開け……それからすぐに、閉じた。
  言うべき言葉がわからなかった。
  自分にとっては初対面にも等しい目の前の男に、交わすべき言葉はひとつとして思い浮かんでこなかった。



  男に連れられ、エースは港に停泊している船のひとつに足を踏み入れた。
  覚えているか?と尋ねられ、エースは首を横に振るしかなかった。
  覚えているも何も、見たこともない船だと口にしかけて、慌ててエースはその言葉を喉の奥へと飲み込む。
  小柄な船の船首には丸い羊の頭。ところどころ傷んでいる部分が剥き出しになっていたり、継ぎ当ての状態になっているのは、修理に回す余裕がないからか、それともそれだけ困難な旅をしてきたばかりだからだろうか。
「ほら。あがった、あがった」
  男にせっつかれて、エースは縄ばしごを伝い甲板にあがった。
  甲板にいた船員たちが、怪訝そうな目でエースを見ている。
「どうしたの?」
  穏やかな女の声に、エースは振り返る。知らない女だが、声の調子とは裏腹にどことなく危ういその雰囲気に、エースは眉を寄せた。
「ああ……チョッパーを呼んでくれ」
  疲れたような様子で男が告げる。
  エースはその間にもあたりを見回し、甲板をうろついていた。
  甲板の舳先のほうから賑やかな声が聞こえてくる。他の船員たちが何事か話しているのだろう。楽しそうなその声に、内容までは聞き取れないもののエースはじっと耳を傾けてみる。
「なんで、あんなところにいたんだ……って尋ねても、わからないんだろうなあ」
  いつの間にかエースのすぐ隣りにやってきていた男が、ふーっと、紫煙を吐き出しながら呟いた。
「……そうだな。わからねえな」
  率直にエースは返した。
  気が付いたら、浜辺にいた。気が付くよりも以前のことは何も覚えておらず、名前は、浜にいた知らない誰かから教えてもらった。自分は、少しは名の知られた海賊なのだと言われても、ピンとこないのは何故だろう。そのままぼんやりしていたら、この、目の前にいる黒いスーツの男が親しげに声をかけてきたのだ。
  渡りに船とはこういうことを言うのだろうか。
  自分の記憶を取り戻すための手がかりになりそうな人物が、都合良く目の前に現れるとは。
  エースは、自分よりも少しばかり目線が下の男の金髪をじっと見つめた。左眉はくるりと巻いており、右側は長く伸ばした前髪に隠れていて眉どころか瞳すら見えない。
「……変な眉毛」
  ポソリとエースが呟いた瞬間、向こう臑を軽く蹴飛ばされた。



  甲板で、エースは診察を受けた。
  青い鼻をした狸のような小さな生き物は直立歩行をする動物で、頭には鹿の角らしきものが生えていた。本人はトナカイだと言い張っていたが、黒いスーツの男は「優秀な船医」だと言った。おそらく、どちらも本当のことなのだろう。
  確かにこの船医は、触診も問診も手慣れた様子でこなしていく。
  診察と軽い手当が終わると、さっきの黒いスーツの男がバスケットにスコーンとレモネードを入れて持ってきた。
「後でもっとちゃんとしたもの食わせてやるから、メシの時間になるまでこれでもたせろ」
  つっけんどんにそう言われ、エースは戸惑いながらもバスケットを受け取る。これからまだ、いくつかの問診があるらしい。
  大口をあけてスコーンを口の中に放り込むと、レモネードで流し込む。もうひとつ……とバスケットに手を伸ばしたところで、マストの影から物欲しそうな目でスコーンの入ったバスケットをじっと眺める少年と目が合った。スコーンをわけてやろうかどうしようかと躊躇っていると、どこからともなくオレンジ色の髪の少女が少年の首根っこをひっ掴んで、舳先のほうへと引きずっていってしまった。
  どうやらこの船のクルーはエースのことを知っているようだった。
  すぐにでも自分のことを教えてもらいたい気持ちに駆られたが、仲間たちにもそれなりの心構えの時間が必要だからと言われ、こうして甲板で診察を受けることになったのだ。
  自分はいったい、誰なのだろう。
  どうして、ここにいるのだろう。
  浜辺で気付いた時から、潮の香りは心地よかった。と、いうことは、記憶を失う前の自分は少しは名の知られた海賊だというだけに、きっと海が好きだったのだろう。
  じっと甲板の木目を眺めていたエースが顔をあげると、黒いスーツの男がこちらへやってくるところだった。
「どうだ、チョッパー。そろそろ皆を連れてきても大丈夫そうか?」
  男の言葉に、チョッパーと呼ばれた船医が大きく頷く。
  いったい自分は、この船のクルーにとってどんな存在なのだろうか。
  不安そうな顔をしていたのだろうか、男がエースに笑いかけた。
「すぐに思い出すさ。なにしろアンタは、海賊王になる男の兄貴なんだから」
  にやりと笑って、男はそう言ったのだった。



To be continued
(H20.3.9)



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