『冷たい炎』



  誰もいない男部屋で、サンジは、エースに犯された。
  何が原因だったのかは、覚えていない。
  部屋に煙草を取りに戻ったところで、いきなり背後から羽交い締めにされた。
  記憶が完全に戻らないことへの苛立ちをぶつけるだけのためにエースは、サンジの体に触れた。おそらく、そんなところだろう。
  今にも発火してしまうのではないかと思われるほど熱い指が、性急にサンジの肌を辿っていく。
  耳の中に舌を差し込まれ、ピチャピチャと舐めあげられた。咄嗟に目をぎゅっと閉じたサンジは、体を硬直させ、じっと声を押し殺すしかなかった。
  抵抗しようとは思わなかった。
  記憶がなかなか戻らないエースの苛立ちや歯がゆさ、もどかしさは、側にいることで自ずと感じ取れるようになっていた。自分を犯すことで、エースがそういった煩わしさから解放されるのであれば構わないとも思っていた。もっとも、煩わしさからエースが解放されるのは一時的なことだ。記憶が戻るまでこういったことが繰り返されるのであれば、早いうちにやめさせなければならないだろう。
  体の中にねじ込まれた楔に動きを制限され、サンジは喉の奥で呻いた。
「…ぃ……」
  掠れた悲鳴があがる。
  なんと耳障りな声なのだろうと、サンジは、自分の声がどこか遠くで聞こえているかのように感じていた。
  突き上げられ、揺さぶられながらもサンジは、エースの熱に溺れていく。
  いつかは手放さなければならない温もりだとわかっていながらも、求めてしまう。手元に置いて、そのうちに、手放したくなくなってしまいそうだ。
  背後のエースに抱きかかえられるようにして、犯される。
  壁板に手をつき、エースのほうへと腰を突き出すと、激しいピストン運動が繰り返される。
  たくし上げられたシャツごしに、ポタリ、ポタリと落ちてくるのは、エースの汗なのか、それとも涙なのか。
  背後を振り返ろうとすると、髪の毛を鷲掴みにされた。
  壊れそうなぐらい強く揺さぶられ、だらしなく開け放たれた口の端からダラダラと涎が垂れていく。
  いっそう激しくなる突き上げに、サンジは無意識のうちに壁をガリガリとひっかいていた。
「あ……あ、あ……」
  言葉など、出てこなかった。
  何も考えられなくなって、それでも真っ白な頭の中で、押し殺した悲鳴を喉の奥に閉じこめようと必死だった。



  虚脱感の中で、サンジは意識を取り戻した。
  ほんのわずかな時間、気を失っていたらしい。
  いつの間にかエースはいなくなっていた。
  男部屋の片隅で、毛布を体に巻き付けてサンジは眠っていた。
  甲板からは、年少組の発する賑やかな声が聞こえてくる。
  まだもう少し、このままでいようとサンジは思った。疲労感がずしりと体にのしかかっているような感じがする。
  毛布の中で、自分が服を着ていないことに気づいた。汚れたままの裸の姿で、毛布にくるまっている。
  惨めだと思った。
  こんなふうに捨て置かれても、エースのことが好きだと思う自分が、情けなかった。
  床に散らばった衣服をかき集め、ひとつひとつ、身につけていく。
  シャワーを使いたかったが、それよりもひとまず、部屋を出ても大丈夫なように、服を着てしまわなければならない。
  よろよろと立ち上がり、羽織ったシャツのボタンを留めていると、ドアが開いた。
「あ──?」
  ドアが開くと同時に、声があがった。
  ゾロだ。
「何やってんだ、お前」
  怪訝そうに眉をひそめて、ゾロが尋ねる。
「ああ、いや、ちょっとな」
  ごまかすように微かに笑うと、ゾロは鼻をひくつかせた。
「ここは片付けておいてやるから、シャワー使ってきたほうがよさそうだぞ」
  小さな窓を開けると、ゾロは部屋の空気を入れ換える。
  サンジの姿を見てだいたいのことはわかったはずだろうが、ゾロはそれについては何も言わなかった。
  床の上の毛布を取り上げ、サンジの手にぐい、と押しつける。
「洗ってこいよ。後でナミに何を言われても知らねえぞ」
  そう言うと、お気に入りのダンベルを手に、また甲板へと戻っていこうとする。
  サンジは黙ってゾロの背中を見送った。
  余計なことは何も訊かないでくれるゾロの気遣いが、ありがたかった。



  このところ、食事時はひどく賑やかになってきている。
  無人島から戻ってからのエースは、かつてのエースのように、賑やかさを好む男になっていた。
  おそらく、記憶が戻りかけているのではないだろうか。サンジはそんなふうに思わずにはいられなかった。
  一方で、サンジとエースとの間には距離ができてしまっていた。あの日、男部屋で犯された日からエースは、サンジの目を見ようとしなくなっていた。気まずさを感じてか、今まで普通に交わしていた言葉すら、交わすことがなくなってしまったのだ。
  もしかしたら、自分は用済みなのかもしれないと、見張り台でぼんやりと星を眺めながらサンジは思った。
  記憶の戻りかけた男に、男の恋人は必要ないと、そういうことを意味しているのではないだろうか。
  口にくわえた煙草が、ぼんやりとした煙を立ち上らせている。
  いい知れないほどの喪失感が胸の内で暴れ回っている。
  自分が失ったものを思い、サンジは深い溜息を吐いた。
  もう、あの男は別の世界へと飛び立つ準備に入ってしまった。記憶は完全に戻っていないというのに、エースの体は、海を求めている。そして己の仲間のところへと、心は向かっている。
  別れのための準備を、自分もそろそろ始めてもいい頃ではないのだろうか。
  別れることができるかどうかは、その時になってみなければわからない。しかし、エースがあの調子では、遅かれ早かれ、自分の存在は必要のないものになってしまうだろう。それならば、一日でも早くサンジのほうから、エースを手放して自由にしてやったほうがいいのではないだろうか。
  じっと空を見上げていると、誰かが見張り台へとあがってくる気配を感じた。
  耳だけはそばだてながら、サンジはじっと空を見上げている。
  こうしてぼんやりと物思いに耽っていると、首を動かすことすら億劫に感じてしまう。
  そのままの姿勢で空の一点に視線を集中させていると、声がかかった。
「お前……何やってんだ?」
  ゾロの声だった。



  星を見上げながら、サンジは狭い見張り台の中でただ座っていた。
  ゾロは何も言わなかった。
  見張り台の中に入り込んでくると、無言で手にした酒瓶をサンジの鼻先に突き出した。
「おう。気が利くな」
  そう言ってサンジは、酒瓶を手に取る。
  歯で蓋をこじ開け、ぐい、と中の液体を口に含む。ほろ苦い味に、鼻の奥がツン、となった。焼け付くような熱さでもって、液体は喉を落ちていく。口の中に甘ったるい香りが残った。
  ゾロは、サンジからわずかに離れて腰を下ろした。
「何か、言いたいことがあるのか?」
  ポソリとサンジが尋ねる。
「いいや」
  ゾロが返す。
「じゃあ……何か、俺に訊きたいことがあるのか?」
  さっきより少し大きな声で、サンジが再び尋ねた。
「いや、別に」
  そう返して、ゾロは酒瓶を手に取った。ぐい、と一口煽り飲むと、瓶をサンジのほうへと押しやる。
「何しに、ここに来た?」
  酒瓶の中の液体が、たぷん、と音を立てて揺れる。
「別に。月見酒でもしようかと思ってここにあがってきたら、お前がいただけだ。お前がいるから来たわけじゃない」
  そう言ってゾロは、また、酒瓶を手にした。
  喉を鳴らしながら瓶に口をつけて酒を飲むゾロに、サンジは顔をしかめる。
  唇を噛みしめ、じっと声を出すのをこらえていたサンジだったが、そのうち、鼻を啜りはじめた。酒を飲みながらちらりとゾロがサンジの横顔に視線を馳せると、頬を伝い落ちる涙が月の光に反射してキラリと光ったところだった。
「……泣くな。後でナミに、何言われるかわかんねえぞ」
  ゾロの言葉に、サンジは咄嗟に歯を食いしばった。
「──…泣いてねえよ」
  言った瞬間、涙がポロポロと頬を伝い落ちていった。
  ゾロが酒瓶をサンジのほうへと押しやり、言った。
「飲め。飲んで、嫌なことは全部忘れちまえ」
  それだけ言うと、ゾロはおもむろに立ち上がり、見張り台を降りようとする。
「……どこに行くんだ?」
  心細さを感じたのか、サンジは引き留めるかのようにゾロのズボンの裾を掴んでいた。
  思いもしなかった事態に、ゾロの体がよろけて、見張り台の中に倒れ込んでくる。
「わっ、危ねっ……」
  肩で柱にぶつかることで、よろけた体勢をゾロは立て直そうとした。腹筋だけで起きあがろうとしたが、そのままサンジにぐい、とシャツの裾を引っ張られ、柱についた背中がずるずると床へ引き寄せられた。
「この間のことを、聞きたくないのか?」
  床に座り込んだゾロへと、サンジが尋ねかける。
「お前、それが人に話を聞いてもらう時の態度か」
  憮然とした表情で返しながらもゾロは、サンジの話を聞く気でいるようだ。もっとも、ここでゾロが話を聞かなくても、機会を見つけてサンジのほうから打ち明けようとすることは間違いないだろう。
  サンジはスン、と鼻を啜って、微かに笑った。
「俺……どうやら失恋したみたいなんだ」



  見張り台の中で一晩、二人きりで過ごした。
  結局、話を聞いてもらっただけでは飽きたらず、サンジはあれこれと相談まで持ちかけてしまったのだ。
  ちゃんとした言葉や答えが返ってこなくても構わなかった。
  ただ、話を聞いてくれる人が側にいるだけで、サンジには充分だった。
  話を聞きながら、ゾロは始終うつらうつらしていた。もともと、聞く気などなかった。先日のサンジの様子から、どうせそんなところだろうと予測はしていたのだ。今夜のことにしてもほんの気紛れで、たまたま自分のお気に入りの酒を差し入れてやっただけなのだから。
  この程度のことでサンジの気持ちが切り替わるのなら、安いものだとゾロは思っている。
  何よりも、サンジはこのメリー号のクルーなのだ。
  今回の一件で、船長は知らん顔を決め込んでいる。相手がエースとなると、やはりどこか身贔屓にも似た感情が沸いてしまうのかもしれない。それに、万が一にでもサンジがメリー号を下りるようなことになったとしたら、いったい誰が、この船の食事を賄っていくのだろう。
  そういった諸々のことを考えると、今のサンジが何を考えているのか、知っておいたほうがいいだろうという結論に達したのだ。
「言うなよ……誰にも」
  押し殺した声で、サンジが告げる。
  明け方の冷たい風に、ほっそりとした体が寒そうに震えている。
「言うかよ、んなこと」
  こんな話、誰にも話すことはできないだろう。多少なりとも呆れながら、ゾロはあくびを噛み殺す。一晩かけて聞いた話が、単なる恋ののろけ話だったとは、あまりにもあまりな話だ。女どもが耳にでもしたら、さぞかし騒ぎ立てることだろう。そんなことを考えながら、ゾロは小さなかけ声と共に見張り台の中で立ち上がった。こわばった肩の筋肉をほぐすと、ポキポキと音がした。
「朝飯、ルフィより多めに盛れよな」
  ニヤリと笑って、ゾロは告げた。
「は?」
  あんぐりと口を開けてサンジが尋ね返すのに、ゾロは「アホか」と口の中で呟いた。
「相談料だよ、相談料。一晩かけて喋り続けたのを親切にも聞いてやったんだから、気持ちも随分とスッキリしただろう?」
  これは、慰謝料でもあるのだと、ゾロは胸の中でこっそり呟いた。
  普段から、優秀なコックで戦闘員だと思っていた。戦いの中では信頼できる相手だとも思っていた。日頃、喧嘩ばかりで気が合わないように見えても、実のところ、二人は驚くほど気が合っていたのだ。
  恋愛感情とは違うものだったが、それでも、ゾロにしてみれば信頼のおける優秀な戦闘員を、エースが横からかっ攫っていったようなものだ。
「相談料だな、わかった」
  驚くほどスッキリとした表情で、サンジは告げた。
  エースとのことはまだ胸の内でしこりとなっていたが、一晩かけて話につきあってくれたゾロに敬意を示すため、サンジは明るく笑って言った。
「今日一日、ルフィより大盛りで給仕してやるから、覚悟しとけよ」
  言いながらもサンジの胸の中は、チクチクと痛んでいる。
  見張り台を降りたゾロが甲板にたどり着き、男部屋へと戻っていくのを朝靄の中で見届けてからようやく、サンジは嗚咽を洩らすことを自分に許した。
  ひとしきり涙が出尽くしてしまうまで、サンジは泣き続けた。



END
(H20.10.26)



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