『冷たい炎』



  食後のコーヒーを黙って二人で飲んだ。
  喋ることは何もなかった。
  先ほどからずっとぎこちない空気が二人の間に流れており、どちらもそのことに気付いている。
  言葉がでてこないのは、どちらが原因なのだろう。
  サンジが目の端でちらりとエースを窺うと、目の前の男は困ったような顔をして明後日の方向を見つめている。その方向には何もない。ただ、壁があるだけだ。
「……そろそろ、宿に戻るか?」
  尋ねると、エースははっとしたように顔をサンジのほうへと向けた。
「そうだな」
  そう言いながらもエースの表情は今ひとつパッとしない。夕べからの苛々とした様子は薄れてきているが、今度は何か別のことが気にかかって仕方がないような顔をしている。
  どうしようかと思案しながら、サンジはエースに視線を向けた。
  もしかしたらエースは宿で一人になりたいかもしれない。誰とも接触をせず、一人きりで静かに考える時間が欲しいのかもしれない。しかしだからといって放っておくことも、サンジにはできなかった。一人になる時間なら充分にあったはずだし、放っておいてほしいなら、そうとはっきり言葉にしなければならない。
  悪戯っぽく口元を歪め、サンジは言った。
「雨もあがったし、時間もまだあることだし、帰りは岬のほうをぐるっと回って帰ろうか?」
  これでエースが断ったなら、また今度、何かの機会に声をかければいいことだ。嫌がることを無理にする必要はないのだと、チョッパーは言っていた。気分転換になるかと思ってあれこれ声をかけて連れ回すのもいいが、ほどほどにするようにと、サンジはあらかじめチョッパーから釘を刺されていた。おそらくクルー全員が、そういうお達しを受けているはずだ。だからこそ皆、普段通り振る舞おうとしているのだから。
  そばかす顔の男の目を覗き込むと、淡い笑みが一瞬浮かび上がったものの、さっと消滅した。
「ああ……そりゃ、いいな」



  地元の船がずらりと並んだ港の景色を眺めながら、二人は歩いた。
  どこの港も同じだ。賑やかで、活気があって、荒々しくて。
  のんびりとした足取りの二人のすぐそばを、子どもたちが何やら叫びながら騒がしく駆け抜けていく。ごっこ遊びの最中なのか、木ぎれを手に、時折立ち止まっては打ち合ったり相手を追い回したりしている。
  エースは黙って歩いている。だからサンジも、無理に喋ろうとはしなかった。煙草をふかしながら、港の景色を楽しむことにした。
「……こういう景色を見て育ったんだろうか、俺は」
  不意にポツリと、エースが言った。
「あ?」
  急に立ち止まったエースは、路地の向こうへ走り去っていった子どもたちの後ろ姿をじっと見つめていた。
「さあ、どうだろうな」
  同じように立ち止まったサンジは、さりげなく返した。
「戻ったらルフィに聞いてみようぜ」
  エースはコクンと頷くと、また歩き出す。
  その横を歩きながらサンジは、急に早鐘を打ちだした心臓を持て余していた。いきなり立ち止まったかと思えば、答えに窮するような問いを発するなんて、反則だ。
  ドキドキと騒がしい心臓の音を聞かれないように、サンジは心持ち歩く速度を速めた。
  港を通り過ぎると、道は緩やかな勾配になっていった。舗装されていない砂利道が続き、そのずっと先では比較的裕福な家が集まる区画へと繋がっている。途中の二股になった道を海の見える方へと折れると、島一番の景色が望めるという岬へと続く。
「海だ……」
  隣で、エースが呟いた。
  二人で岬の端から海を見た。
  普段、甲板や見張り台から見おろす海でもなく、港から眺める海でもない、別の顔をした海が広がっている。
  鮮やかな濃紺の海に、雲の隙間から差し込む陽の光が反射してキラキラと光っている。
「これが見たかったんだ、俺は……」
  呟いたものの、本心から出た言葉なのかどうかは、当のエースにもわからなかった。



  岬の端から海を覗き込む。
  迫り出した崖の上から海を見ると、随分と開けていた。下は、海。崖はもっと内側、自分たちの足もとよりもっとずっと内陸側に寄っている。
  一面海ばかりの景色は単調すぎた。島一番の景色と言うわりに自分たち以外に誰もいないのは、もしかしたら皆、別の景色を楽しむため移動したからなのかもしれない。
  それぐらい、殺風景な場所だった。
「──見たかったものは見れたのか?」
  新しい煙草に火を点けて、サンジが尋ねかける。
  エースは答えなかった。
  じっと崖の端から海を覗き込み、押し黙っている。
  いったい何を見ているのだろう。
  エースが見ているものを自分も見たいと思い、サンジは同じように崖の上から身を乗り出して、海面を覗き込む。
  どんよりと暗い海の縁めがけて、まだ少し高い波がザプザプと音を立ててぶつかっては逃げていく。
「高けぇ……」
  マストの上から覗き見るよりも、倍ほどの深さはあるだろうか。
  遠く下のほうにある水面に吸い込まれてしまいそうだと、サンジは無意識のうちに思った。
  すぐ隣ではエースが、海面へと向かって手を差し伸べようとしている。
「おい、あんまり乗り出すと……」
  サンジが言いかけた途端、目の前を横切るようにしてエースの体が海へと傾いでいく。
「エース!」
  咄嗟にサンジは手を差し伸べたが、エースは気付きもせずに海を一心に見つめていた。
  引きずり込まれるようにして、エースの体は波の間に消えていった。一瞬のことだった。
「クソッ……なんてこった」
  呟いてサンジは、海へと飛び込んだ。飛び込む瞬間、ふと煙草のことが頭をよぎった。せっかくメリー号からとってきたというのに。
  なんてこった。
  心の中でサンジは、海に落ちたエースを罵倒していた。



  沈んでいく。
  深く、深く、沈んでいく。
  海の中は青くて、静かで、冷たかった。
  体から力が抜けていき、呼吸ができなくなっていく。手足を動かしても体が浮き上がることはなく、どんどん深みへと沈んでいくばかりだ。
  エースは必死になって手足を動かしたが、どうにも体は動かなかった。
  ゴボッと音がした。
  自分の口から空気が……泡が出て、かわりに塩辛い海水が口の中に満ち溢れた。喉を塞がれ、呼吸ができなくなる。これが、溺れるということだろうか。自分は溺れている。間違いなく。海賊の自分が泳げないなどと、エースは考えたことがなかった。記憶を失っているから泳ぐことが出来ないのか、それとも元来からのものなのか。どちらにしても、このままでは遅かれ早かれ、呼吸もできないままに死んでしまうに違いない。
  ──このまま俺は、死んでしまうのか?
  考えたくはなかったが、記憶のない今、こんな形で死んでしまっても構わないかもしれないと、エースはそんなふうに思った。過去を思い出すのは面倒だ。新しい自分を作り上げるのも手間がかかる。だったらいっそ、終わりにしてしまえば楽かもしれない。
  自分の手で、自分を終わりにするのだ。
  観念して目を閉じると、体はさらにスピードをあげて海底へと向かって沈み始める。
  朦朧とした意識の中でエースは、最後の景色を脳裏に焼き付けようとするかのようにうっすらと目を開けた。
  青ではない、何か別の色が見えた。
  青い紗がかかったような波の向こうに、サンジの姿があった。
  ゴボッと、もう一度、肺の奥に残っていた空気が口から溢れた。金髪の男が、エースのほうへ手を差し伸べている。
  霞んでいく青い景色の中でエースは、力無く手を伸ばす。
  終わりにしようと思っていたのに、まだ自分は生にしがみつこうとしているのかと、エースは苦笑した。
  目を閉じると、力強いサンジの手がエースの腕を引っ張り、体に手を回してきた。
  自分よりも華奢な体格のサンジが渾身の力を振り絞って海面を目指して泳ぎ出すと、何故だかエースは安堵した。
  ゆっくりと、深い青一面の世界が、淡い青へとかわっていく。
  意識を失う寸前、サンジの手がしっかりとエースの指を掴んでくるのを感じた。



  気が付くと、メリー号の甲板にエースは寝かされていた。服が乾いているのは、照りつける太陽のおかげだろう。
  雲ひとつ無い空のおかげで、目が痛い。
  手庇しを作って太陽の光を遮ると、上体を起こした。
  ラウンジへと続くドアが開け放されており、中から香ばしくも甘いにおいとサンジの鼻歌が聞こえてくる。
「なんだ、サンジのやつ音痴じゃん」
  そう言ってエースは小さく笑った。
  喉がヒリヒリとしているのは、海水をたらふく飲んだせいだろう。
  立ちあがってラウンジに入っていくと、すぐに気配に気付いたサンジが振り返った。
「気が付いたか」
  心配のかけらも感じさせないような満面の笑みを浮かべて、サンジは焼き上がったばかりのスコーンと温かい紅茶をエースにすすめてくる。エースが気を失っている間に自分だけ着替えたのか、腕まくりをしたサンジのシャツは、今は淡いブルーのストライプだ。
  椅子に腰掛けると、テーブルの上に濡れてくしゃくしゃになった煙草の箱が置きっぱなしになっていた。サンジの煙草だと気付いたエースは、顔を上げた。サンジは、エースを軽く睨み付けると、口元をニヤリと歪めた。
「俺の大事な煙草を台無しにしてくれた分だけ、こき使ってやる」
  エースは何も言わなかった。
  サンジはカラカラと笑ってエースの肩を叩いた。
「当分の間、下働きをしてもらうからな」
  それから不意に真面目な顔になって、エースの目を覗き込んでくる。
「海に飛び込んだことについちゃ、不問にしてやる。他の連中には黙っててやるから、本当のことを今、ここで洗いざらい吐いちまえ」
  今の今まで笑っていたサンジの眼が、真っ直ぐにエースを見据えていた。
  答えなければ、問いつめられるだろう。そんな感じがした。エースはコホン、と軽く咳払いをしてからサンジの青い目を見つめ返した。
「溺れるなんて、思ってもいなかったんだ」
  正直に、エースは返した。海に沈むその瞬間まで、自分は泳げるものと信じていたのだ。
  サンジは、グルグルと巻いた眉をピクリと動かしただけだった。



To be continued
(H20.4.28)



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