『冷たい炎』



  しばらくすると、風が出てきた。
  嫌な風だとサンジは思う。
  幼い頃、ゼフと共に遭難した時のことを思い起こさせるような不穏な風に、サンジは眉をひそめた。
  雨のにおいがしていた。
  また雨が降るのだ。
  助けはいつ、来るのだろう。
  とりとめのない思いで頭がいっぱいになる頃、ようやく薪に火がついた。子供のようにはしゃぎながら、エースが雄叫びをあげる。我に返ったサンジは、肉と魚を手早くさばいた。
「おし、焼いてしまおう」
  肉は適当な大きさに切り分け、あぶり焼きにした。魚は、柑橘系の果実と一緒に大きな葉にくるんで蒸し焼きにした。思っていた以上の食事にありつくことができただけでも先行きがいい。
  兎を捕まえたあたりでエースは湧き水を見つけてもいた。海岸からは少し離れているが、壊れた樽を修理して、なんとか水をくんでくることもできた。
  このまま海岸で野営をしてもいいが、雨が降ってきた時のことを考えると、せっかく熾した火がもったいない。
  日が暮れかかる頃になって、ようやく海岸沿いに手頃な洞窟を見つけた。
  洞窟の一角に火を移し、水の入った樽を移したあたりで雨がポツリポツリと降り始めた。
  ホッとして二人で、洞窟に入った。
  外よりもひんやりとした空気に、サンジは小さく身震いをする。
「どうかしたか?」
  尋ねられ、とっさにサンジは首を横に振った。
「いや。外と違ってここは涼しいな」
  少し肌寒いような感じがするが、湿った服を着ていたからだろうとサンジは自分に言い聞かせた。火の前に座っていたら、少しはあたたかくなるだろう。
  せっかく点いた火を絶やさないように、寝ずの番を交代ですることにした。
  最初の当番はサンジだ。夜食用に確保しておいた果物を火から少し離れたところにある平たい小岩の上に置くと、焚き火の前に座る。小枝を手に、ぼんやりと炎を眺めた。ひらひらとオレンジ色の炎が踊っている。
  あの時よりもずっとマシだと、サンジは自分に言い聞かせた。
  食べ物もなく、じっと来るかどうかもわからない助けを待ち続けたあの頃に比べると、はるかにマシだ。
  膝を抱えて、唇を噛みしめる。
  パチパチと炎の爆ぜる音を聞いていると、瞼が重くなってくる。
  時折、うとうとと眠っていたようだ。はっと気付くと、エースが隣に座って焚き火が消えないように小枝で炎を掻き混ぜているところだった。



「あ……」
  掠れた声が出た。
  喉がカラカラで、声が出ない。
  困ったようにサンジはエースの横顔を見つめた。すぐに視線に気付いたエースは、微かに苦笑した。
「悪かったな。先に休ませてもらったから、ここからは俺が見張ろう」
  穏やかな声に、サンジは痛みを感じた。責めるでもなく、淡々とやり過ごしたエースが、もどかしい。いったいいつから自分は眠っていたのだろう。眠っていることに気付いていたなら、起こしてくれればよかったのに。そんなことを思いながら、ちらとエースの横顔を盗み見た。
  以前のエースも、こんな雰囲気なのだろうか。こんな、他人には興味のないようなあっさりとした態度をとるのだろうか。
「……──?」
  口の中で、サンジは呟いた。
  聞き取れなかったのか、エースが怪訝そうにサンジを見遣る。
「なに?」
  うたた寝をしていたことを咎めるでもなく、そのくせ何かに対して不満があるような、そんな表情のエースに違和感をサンジは感じる。やはりこの男は、記憶のない男なのだ、と。
「あ……いや、なんでもねえ」
  そう言うとサンジは、立ち上がって樽のほうへと寄っていった。水を掬って一口飲むと、自分が喉が渇いていたことに気付く。片手ではもの足りず、最後には両手で掬ってゴクゴクと喉を鳴らして水を飲む。手から伝い零れた水が、シャツの前を濡らした。
  うたた寝をしたせいで、眠たいのになかなか寝付くことができなくなっていた。焚き火を挟んでエースのちょうど真向かいに腰を下ろしたサンジは、膝を抱えてじっと炎を見つめる。
「眠れる時に、眠っておけ」
  低い声で、エースが告げる。
  そんなことはサンジにもわかっていた。
  ただ、眠りたくないだけだ。
  眠ってしまえば、今は見えていないものが見えてきそうな気がして、何となく気が進まないだけだ。
  深い溜息を吐くとサンジは、炎越しにちらりとエースのほうを見遣った。
  穏やかな表情で、男は炎を見つめている。
  いや、そうではない。エースは、炎越しにサンジを見つめていた。身じろぎひとつすることなく、じっとサンジを見つめている。
  深い、深い眼差しだ。
  記憶をなくした男の眼差しに、ドキマギしている自分が、そこにはいた。



「雨が止んだら、海岸で薪を焚こう」
  不意に、エースが言った。
  弾かれたようにサンジは顔をあげ、エースを凝視する。
「そうすれば、俺たちがこの島にいることがすぐにわかるだろう」
  エースの言葉に、サンジは小さく口元を緩めた。
「そうだな、それがいい」
  それがどれほどの効果をもたらしてくれるかは、神のみぞ知る、だ。
  それにしても、この洞窟は寒い。膝をぎゅっと抱きしめたまま、サンジは焚き火のほうへとにじり寄る。
  夜になって、気温が下がってきているのだろうか。
「日が昇れば、迎えにきてくれるさ」
  エースはこの状況を恐れてはいない。サンジに比べるとずいぶんと楽観的だ。
「……そうだな」
  言葉を返すのも嫌になるくらい、サンジは怯えている。目の前の男にドキドキしながらも、この状況に怯えてもいる。かつて孤島に取り残されたことをサンジの体が思い出して、怯えているのだ。
「そう、心配するな」
  抑え気味のエースの口調に、サンジは違和感を覚える。エースであってエースでない男の言葉は、どれをとっても曖昧で、いつまで経っても正体を掴むことができない。
「とりあえず、明日の朝……か」
  呟いて、サンジは煙草が欲しいと切に願った。
  今、この場に、煙草があればいいのにと思わずにいられない。
「そうだ、明日の朝だ」
  頷いたエースの口調が、こんな時だからだろうか、やけに頼もしくサンジの耳に響く。
  炎の向こう側でエースは力強く微笑んでいる。兄弟だからというだけでなく、雰囲気がルフィによく似ているのは、どちらも強い意志を瞳に秘めているからだろうか。
「……朝まで、まだしばらくある。眠っておけ」
  薄ぼんやりと霞みがちになる視界のずっと向こうで、エースが言った。まるで炎の中で、エースの姿が揺らめいているかのようだ。
  それぐらいわかっていると言いかけて、サンジは、自分の体がふらりと傾ぐのを感じた。
  ──…それにしても、寒い。



  ふと目が覚めたのは、寒かったからだ。
  何故、こんなに寒いのだろう。
  のろのろと目を開けて、サンジはぎょっとした。男の腕が目の前にあった。筋肉質な腕が、サンジの体をしっかりと抱きしめている。
「エー……ス……」
  呟いたサンジの声は、掠れていた。
  密着した部分から伝わってくるエースの体温は心地よかったが、それでもまだ、サンジは寒かった。
  きっと、この洞窟が悪いのだ。
  もぞもぞと体を動かし、エースの腕から抜け出したサンジは、火掻き棒に使っていた細身の枝を手にする。
  せっかくエースが点けてくれた焚き火が絶えないように、炎に勢いが出るように灰を掻き分けてやる。
  すぐに炎に勢いがつきだすと、サンジは樽のところで水を飲んだ。
  なんとここは、寒いのだろうか。
  夜明けが近いのか、空気が冷たく張りつめている。
  エースの傍らに戻ったサンジは、目が覚めた時と同じようにエースに体を寄せた。
  勢いの強くなった焚き火とエースの体温とのおかげで、サンジの寒気もずいぶんとマシになってきていた。
  規則正しい微かな寝息を聞きながらサンジは、エースの体にぎゅっとしがみついていく。肌に伝わるエースの体温が、サンジの不安を静めてくれる。
  女性至上主義の自分が、筋肉質な体格の男にしがみついているのかと思うと、サンジの口元に笑みが広がった。エースと抱き合って眠るのは、嫌ではない。さらに力を入れてエースにしがみついていくと、首筋にエースの唇が押しつけられた。
「こら。悪戯っ子め」
  そう言ったエースの前歯が、サンジの首にあたる。
「んっ……」
  一瞬、サンジはゾクリとした。
  サンジの体が小さく跳ねると、エースは舌先で白い首筋をペロリと舐めた。
「俺が眠っているから、しがみついてきていたの?」
  エースの言葉に、サンジは首を横に振る。
「ち、が……」
  寒かったからだ。だからしがみついていたのだと言おうとして、不意にサンジは口をつぐんだ。
「あ、んんっ……」
  エースの手が、ゆっくりとサンジの下腹部を伝い降りていく。



  エースの手は、すぐにサンジの性器に辿り着いた。
  抵抗らしい抵抗をする間もなく、エースの手がサンジの性器をまさぐり出す。
  違うのだ、今はそんなことをする気分ではないのだと何度も言おうとしたが、言葉は出てこなかった。
  口の中がからからに渇いていて、それなのに体は寒かった。
「二人きりのところでこんなふうにしがみついてこられたら、男としては理性が保たないの、わかるだろう?」
  悪戯っぽくエースは言った。
  サンジとて、決してわからないわけではない。ただ、今はこういうことをしたくないというだけのことだ。
「ちがっ……エース、違うんだっ!」
  悲鳴のような情けない声をあげると、エースの手がふと止まった。
「ん?」
  穏やかな眼差しで見つめられ、サンジの胸の鼓動がトクン、と高鳴る。
「このままじゃ、朝まで眠れねえ……」
  悪びれもせずにへらっと笑ったエースの口から、歯が覗く。
  まるで、記憶を失う以前のエースのようだ。
「あ…──」
  何かを言いかけて、サンジはふと口をつぐんだ。
  この男の記憶は、もしかすると戻りつつあるのだろうか?
  抵抗する手から力を抜いたサンジは、エースの肌に手を這わせた。厚い胸板をなぞり、肩の筋肉をなぞりあげる。くすぐったそうにエースが微かに笑う。指先で喉を辿り、顎の先から輪郭に沿ってを両手で包み込んだ。
「俺は、これ以上眠りたくはねえ」
  そう言ってサンジは、エースの鼻先にそっと囓りついた。



To be continued
(H20.8.18)



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