『冷たい炎』



  肌を合わせ、体を繋げたからといって、二人の関係が大きく変化することはなかった。
  いつもどおりの朝がきて、いつもどおりの日常が始まると、二人の関係は元に戻っていた。
  メリー号のコックと、船長の兄で記憶を失った男は、適度に会話をして、他の仲間たちとかわらない関係を保っている。二人の隠された関係に気づいているのは、おそらくロビン一人だけだろう。
  朝食の席でもロビンは何か言いたそうな顔をしていたが、結局、口を開くことはなかった。夕べのことに気づいたのだろうか。それでも構わないと、サンジは思った。彼女なら、口の軽い他の連中と違って余計なことは言わないだろう。
  海も、いつもとかわりなかった。
  気まぐれな海は時折、悪戯をしかけてくる。
  それも、構わない。
  いつもと同じであれば、それで充分だ。
  ポケットの煙草を取り出し、口にくわえる。
  これから、どうしたらいいのだろう。口の端から思わず溜息が零れ出た。
  まるで、誰も答えてくれない答えを探して闇雲に尋ね歩いているかのようだ。このままでは、自分の気持ちがわからなくなってしまいそうだ。
  甲板に出て空を見上げると、真っ青な空の向こうに微かな雲の切れ端が流れていた。
  ふと見ると、麗しの航海士嬢は、お気に入りの場所にデッキチェアを置いてのんびりと新聞を読んでいる。
  船首にどんと陣取ったルフィは、そのすぐ近くで釣り糸を垂らすウソップやチョッパーとなにやら話し込んでいる。おそらく船尾では、緑色の短髪の剣士がトレーニングをしているのだろう。きっと、エースも一緒にトレーニングをしているに違いない。
  もうひとつ、溜息を吐く。
  目の前が見えなくなりそうだと、サンジは思った。
  今、自分の足下はこんなにも明るく、はっきりと見えているのに。それなのに、エースとの関係は、足下の覚束ない暗闇の中を歩いているかのようだ。好き勝手に歩き回ったら、思わぬところでつんのめりそうだ。
  どうすればいいのだろう。
  この暗闇の中を、いったいどうやって歩けばいいのだろうか。
  もうひとつ、溜息を吐く。
  暗闇の中でたった一人、取り残されてしまったような気分だ。
  目をしっかと見開き、サンジは空を、太陽を凝視する。
  真っ白な日差しの中、くらくらと眩しさを感じる。その向こうに、サンジは深い深い闇を見たような気がした。



  気紛れな海の天候に振り回されて、午後は全員総出で甲板を駆け回る羽目になった。
  通り雨だとナミは言った。
  雲が出てきたと思ったら、あっという間に空は真っ暗になり、雨が降り出した。
  ナミの言葉どおりに思っていたら、とんでもなく激しい勢いで大粒の水滴が空から落ちてきた。
  叩きつけるような勢いの雨粒は、衣服を通してさえも肌に痛いぐらいだった。
  一刻も早く雨雲の中から抜けるため、帆は張ったままにしていた。
  ナミの指示はいつも的確だ。皆、必死になって甲板を転がる樽を固定し、舵を取る。風の勢いが強く、船は右に左に大きく揺れていた。
  潮くさい雨のにおいと肌にまとわりつく湿度に、むせかえりそうだった。
  横波が何度か、仲間の全身を海水まみれにしていった。頭から海水をかぶり、全身濡れ鼠となりながら、船を走らせる。雨雲の向こうに抜け出すため、誰もが必死になって自分のすべきことをひとつひとつ丁寧にこなしていく。
  また、横波が襲ってきた。船が縦に、横にと揺さぶられ、大きく傾いだ。
「危ない!」
  誰かの声がした。
  甲板の隅に固定したはずのいくつかの荷樽が、たわんだロープをすり抜けて跳ね転がっていく。手すりにぶつかった勢いで、次は甲板の反対側へと転がりだしたところに横波が飛び込んできた。顔にかかる濁った波飛沫に視界を奪われながらも、サンジは顔をあげた。
  手すりをすり抜け、海へと落ちていこうとする樽を両脇にしっかと抱えるエースの姿が目の前にあった。
「エース、よせ!」
  叫んだ瞬間、またもや船が大きく揺れた。
  船全体がギシギシと軋んでいる。メリー号なら乗り越えられるだろうが、それにしてもいっこうに雨足は弱まる気配を見せない。
「その荷樽を捨てろ」
  どうせ、樽の中にはたいしたものは入っていないはずだ。
  いや、仮にたいしたものが入っているとしても、命には代えられない。
  早く捨てろと思いながらサンジは、エースのほうへと近寄ろうとした。雨風の抵抗を受けながらじりじりと足を進め、近づいていく。
  どこかで雷が鳴り始めた。
  目の端に煌めく閃光は青白く、一瞬、空に切り裂かれたような跡が走る。
「エース!」
  誰が叫んだのだろう。
  荷樽のひとつは、エースが渾身の力を振り絞って甲板へ投げ込んだ。ついでもう一つもと思ったようだが、襲いかかる横波に、荷樽は奪われていった。
  放っておけばいいのに、エースは荷樽を追って海へ飛び込んだ。
  止める暇もなかった。
「サンジ君!」
  促すようなナミの声に、サンジも続いて海へと飛び込んだ。



  海は、激しく荒れ狂っていた。
  サンジを拒むように海中へと引きずり込もうとする。
  先に海に飛び込んだエースは、海面でもたつくこともなく沈んでいった。能力者故なのか、ルフィにしろチョッパーにしろ、沈む時はあっという間だ。
  息を深く吸い、サンジは海中に潜った。
  濁った海水の中では視界はほとんどきかず、何も見えない。
  見当をつけてエースが落ちたあたりを探すのだが、沈む一方で潮に流されているらしい。どこにもエースの姿は見えなかった。
  何度目かに海面に顔を出した時には、手すりに身を乗り出すナミの姿が見えた。
  船は、流されている。いや、サンジが流されているのか。
  大きく息を吸い込んで、海中に戻る。見えない濁流の向こうに樽を抱える男の姿がぼんやりと見えた気がして、サンジは波を掻き分け進んだ。
  助けなければ。記憶を失ったまま死なすわけにはいかない。いつも脳天気なルフィに野望があるように、この男にもまた、内に秘めた野望があるはずだ。こんなところで終わらせていいような野望ではないはずだ。
  手と、足を動かした。
  なかなかエースのほうへと辿り着くことができない。
  おそらく、船からはもっと引き離されていることだろう。
  横波と、縦波と、大粒の雨と。油断すると、サンジをも海底へ引きずり込もうとする海水は冷たかったが、沈むにつれて波は穏やかになっていく。必死に手足を動かす。海水のしみこんだ衣服は重く、サンジを海底へ誘うために嬉々としてまとわりついてくる。
  ところどころに光が差しているのは、何故だろう。
  幾重にも取り巻く波を掻き分け、薄暗い水のヴェールの向こうに見えた男へと向かってサンジは泳ぐ。
  早く、助けなければ。
  なんとか男の腕に指をひっかけ、抱えていた樽を浮きがわりにして水面を目指した。
  息苦しくなってきたが、堪えるしかない。
  波立つ海面に顔を出した途端、二人して頭から大波に飲み込まれた。
  指先に力を込めて、エースを抱きかかえた。
  離してはならない。
  絶対に、この男を手放してはならない。



  少しずつ意識が戻ってくる。
  寝起きは悪い方ではないというのに、何故、こんなにも体が重怠いのだろうか。
  目を閉じたまま手を握りしめると、さらさら、ぷつぷつとした感触が手の中に残った。
  奇妙に思って、目を、あけた。
  砂浜が広がっていた。
  空は真っ青に晴れ渡り、さきほどの通り雨などこれっぽっちも感じさせない。
  少し離れたところに、壊れた荷樽の残骸が転がっている。
  ああ、助かったんだと、ぼんやりと思う。
  握りしめた拳を開くと、砂が零れ落ちていく。
  ゆっくりと起きあがり、体に異常がないか確かめた。まだ少し湿り気を帯びた衣服が気持ち悪い。
  それにしても、よく助かったものだと驚かずにはいられない。大波に飲み込まれたサンジは、錐揉み状態の海中を流された。自分より体格のあるエースを抱えて、よく助かったものだ……と、ここまで考えてサンジは、跳ね起きた。
  そういえば、エースはどうしたのだろう。
  立ち上がって、あたりを見回してみる。
  人の住まない小さな島なのだろうか、海岸沿いにぐるりを取り囲む木々は、好き勝手に伸び放題に育っている。人の作った道のようなものはなく、獣道かと思われる細道が、これも枝葉があちこちに突き出て伸びている。
  蔦の絡まる木々には、白い小さな花が咲いていた。何の花だろうか、近寄ってみると、いい香りがしていた。
「気がついたか」
  不意に、声がかかった。
  振り返ると、少し離れた獣道から出てきたエースが野兎を手に提げていた。
「……無事だったのか」
  ほっとしたように、サンジが呟いた。
「おう」
  にんまりと、歯を剥き出しにしてエースは笑った。



  サンジが兎の皮を剥ぐ間に、エースはどこからか薪を拾ってきた。
「我ながら惚れ惚れする手際の良さだな」
  ぽそりと呟いたサンジは、頬を緩める。
  充分な薪に、見知らぬ果実、魚。救助が来るまでは、野営生活だ。いつまで続くかわからないが、食べ物が手に入るなら問題はないだろう。
  それに、優秀な航海士嬢のことだ。すぐにこの島に気づいてサンジたちを拾いにきてくれるはずだ。
  着ていた服は、いつの間にか乾いていた。潮でベタついてはいるが、ないよりはマシだろう。ポケットに手を入れて、馴染みの感触がないことに愕然とする。どうやら煙草と一緒にマッチまで海に持って行かれてしまったらしい。もっとも、マッチが残っていたとしても、使えるかどうかはわからなかったが。
「ああ……クソッ」
  思わず舌打ちをして、ふと気づいた。
  エースがいるではないか。エースの能力があればどこにも問題などないではないか。
  声をかけようとして、エースを探す。
  少し離れたところで薪を手に、エースは人力で火を熾そうとしていた。これではダメだと、サンジは肩を落とした。彼の能力について、誰も何も話さなかったことが悔やまれる。せっかく火を扱うことのできる能力を持っているというのに、これでは宝の持ち腐れではないか。
  日の暮れかけた海岸で、サンジはがっくりと肩を落として、エースの後ろ姿を見つめていた。



To be continued
(H20.7.26)



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