『冷たい炎』



  記憶を失った男を、メリー号は快く受け入れた。
  それは、記憶を失う前の男が船長の兄だからというだけで、自分自身を受け入れてくれたのではないということを、エースは何となく肌で感じ取っていた。
  周囲の妙な気遣いが、日を追うごとに気に障るようになっていく。
  始終苛々として、いつも海を眺めて過ごした。海賊だという自分は、記憶を失う前にはいったいどんな日々を送っていたのだろうか。
  メリー号のクルーたちは、海賊らしくない海賊だ。平均しても二十歳になるかならないかのクルー。しかしたった七人でこの海を渡っていくのだから、そこそこの実力はつけているはずだ。とまれ、記憶を失ったエースにとって、そんなことはどうでもいいことだった。
  エース自身、自分が海賊なのだと聞かされても何の感情も沸いてこなかった。
  今の自分が知らないことを他人から聞かされるのは、何と奇妙な感じがするのだろう。
  日が沈み、暗くなった海をエースは一心不乱に眺めていた。
  船の上で、エースはお客だった。何もしなくていい。皆がにこやかに声をかけてくれる。目の前で繰り広げられる和やかな雰囲気は、羨ましくはあっても、失った記憶を思い出す手助けにはこれっぽっちもならなかった。
  どうすればいいのかもわからず、手探りで闇の中を歩いているような感覚。
  浜辺で助けられたあの日、別段大きな怪我もなかったエースだが、たったひとつ、気付いたことがある。
  事情を知ったばかりの男が、低い声で驚いたように呟いた。「無事でよかったな」と。その言葉に、何故だかエースはホッとした。
  何にホッとしたのかは、わからない。
  無事だったことにホッとしたのか、それとも自分では覚えていないが知り合いらしき人物が現れたことにホッとしたのか。
  何でもいいと、エースは思った。
  自分の存在を認めてくれる者がいてくれるなら、それでいい。
  海賊のエースでもなく、ルフィの兄のエースでもなく、ただのエースでいい。
  ただのエースの記憶が、今、無性に欲しかった。
  記憶を失う前のエースに戻るのではなく、今のエースとしての記憶が。
  これからそれを、作っていけばいいではないか。
  ただのエースとして。



  メリー号の不寝番を買って出た。
  鼻の長いウソップは、狙撃手としてはいい腕をしているが、臆病だった。それに、今夜は何やら作業をしたいらしく、夕飯の時から工房のほうへとちらちらと目を馳せていた。
  夕飯時、ラウンジにやってきたエースはすぐにそのことに気付いた。
  だから、今夜の不寝番をかわってやったのだ。
  どうせ自分には、何もすることがない。
  日がな一日、ぼんやりと海を見て過ごす。昼下がりともなれば、チョッパーの診察を受け、記憶を取り戻すための手がかりを探るためのちょっとした会話を交わした。
  それでも記憶は戻ろうとはしない。
  もしかしたら、自分がただのエースになろうとしているからかもしれないと、エースはそんなことを胸の内で思っていた。
  自分を自分と認めてくれる人がいれば、それで充分だった。今、ここに存在しているエースを知ってほしい。自分の向こうにある海賊のエースの影を見ないで欲しい。しかしただのエースになろうと思うと、海賊のエースの影が邪魔をする。海賊に戻ることが幸せなのかどうかすら、今のエースにはわからなかった。しかし自分の後ろに亡霊のように佇む海賊のエースの影は、どう足掻いても拭い取れない染みのようにエースにつきまとっている。
  自分を、自分として認めてほしい。
  思い出すことのできない記憶に縋るよりも、今の自分を認めてやることのほうが大事なのではないか。
  物見櫓の上に上がりながら、エースはぼんやりとそんなことを思った。
  吹き付けてくる潮風は、少し肌寒かった。



  月の光がやけに明るい夜だった。
  紺碧の空には雲もなく、暗がりでも晴れているのがはっきりとわかる。
  見張り台の中で手をかざし、指の間から月を見た。
  自分はいったい何者なのだろう。皆が言うように本当に海賊なのだろうか。もしかしたら自分はエースなどという名前ではなく、ごくごく普通のどこかの港町に住む漁師なのではないだろうか。たまたま、自分がエースという名の海賊と似ていたということはないだろうか。
  指の隙間の向こうに見える月は、だんまりを決め込んでいた。
  エースは息を潜めて月を睨み付けている。
  しばらくそうやってじっとしていると、縄梯子を上ってくる気配がして、すぐに見張り台の縁に黄色い頭が見えた。
「夜食、持ってきたぞ」
  バスケットを差し出され、エースは黙ってそれを受け取った。指と指とがさっと触れ合い、離れていく。サンジの指先は乾いており、少しカサカサとしていた。
「酒も入れておいたが、寝るなよ」
  からかうようにサンジが言う。
  エースはバスケットの中身とサンジの顔とを何度か見比べた。
  どう返せばいいのかが、わからなかった。
「なんだ、疲れてるのか?」
  顔を覗き込まれた途端、煙草のにおいが鼻をつく。相手が近付いた分だけ、エースは後退った。その時には煙草ではなく、ふんわりと優しい卵焼きのにおいがした。
  怪訝そうにエースを見やったサンジは、すぐに口元に淡い笑みを浮かべた。
「食い終わるまで待っててやるよ」
  そう言ってエースから少し体を離して、柱に背をもたせかける。
  受け取ったバスケットの中にはホットサンド。パンの隙間にぎゅうぎゅうに挟んだチキンカツがうまそうだ。隅っこに詰め込まれた、申し訳程度の小瓶が酒なのだろう。バスケットとは別のポットには、おそらく紅茶かコーヒーかが入っているはずだ。
「…──記憶がなくなる、ってのは、どんな感じなんだろうな」
  ポツリと、サンジが呟いた。
  あまりにも微かな声だったので、危うく聞き逃してしまうところだった。
  エースは顔を上げて、首を巡らせた。
  互いに柱を背にして座っているため、表情はわからない。わずかに見えた肩口からサンジの考えていることがわかるはずもなく、エースは「さあな」と、返した。
  ホットサンドを食べ終えると、ビールを飲んだ。勢いよくごくごくと飲むと、口元からビールから零れて顎の先から滴り落ちた。
「……自分でも、よくわからねえ」
  だいぶん経ってから、エースは先の問いかけに答えを出した。
「だけど……真っ白だったところに皆のエース像が押し付けられ、無理矢理組み立てられていくような感じは、最初の日からしている」
  おかしくないのに鼻で笑った。馬鹿馬鹿しい。本当の自分が誰かなんて、自分にすらわからないのに。それなのに周囲は、「エース」という男の過去を、べらべらと喋り立てている。
  おそらく、見張り台にやってきたサンジが「疲れてるのか?」と尋ねたのは間違いではないだろう。エースは疲れていた。肉体的にではなく、精神的に。自分自身の過去を探すことに、嫌気が差していた。
「俺が何者かなんて、もう、どうでもいい」
  煌々と輝く月を見つめて、エースは言った。
  同じように真っ暗な空を見ていたサンジは、何も返さなかった。



  翌日の昼過ぎから、ポツポツと小雨が降りだした。
  しとしとと降りつける雨のせいで、元気の有り余っているルフィは、ラウンジと男部屋とを行ったり来たりしながら何かすることはないか、何か興味を引くことはないかと時間を持て余している。他のクルーたちはめいめい好きなことをしていたが、ひとたびナミの声がかかればすぐに行動を開始出来る体勢はとっているようだった。
  することもなく手持ち無沙汰なエースはラウンジのテーブルにつき、キッチンで忙しそうに立ち居振る舞うサンジの後ろ姿をじっと眺めていた。
  あんなに忙しそうに動いているのに、包丁を使う手つきは優しい。少し猫背になったくわえ煙草の男は、見るからに華奢な体つきをしている。
  機嫌がいいのだろうか。それとも集中しているから周囲が見えなくなっているのだろうか。時折、ちらりと見える横顔にうっすらと笑みが浮かんではすぐにまた真剣な表情に戻っていく。リズムをとるように肩先が揺れ、満足そうに口元が笑っている。
「楽しそうだな」
  つい、そんなふうにエースは呟いてしまった。
  工房で作業をしていたウソップは、顔をあげることなく「そりゃ、楽しいんだぜ」と、聞いているのか聞いていないのかわからないような言葉を返した。
  トレーニングを終えて一風呂浴びてきたばかりのゾロが、冷蔵庫からサンジお手製のドリンクを勝手に取り出すとエースの向かいに腰掛けた。
「島が見えてきたら忙しくなる」
  言葉少なにゾロは告げる。
  エースは顔を上げ、ゾロを見た。
「上陸するのか?」
  おずおずとエースが尋ねる。以前、メリー号を尋ねたきた男とは似ても似つかぬ様子に、ゾロはこめかみをピクリとさせた。
「そうだな……おそらく、アンタは上陸することになるだろう」
  何の拍子に記憶が戻るか、そのタイミングは神のみぞ知る、だ。上陸して港の様子を眺めていれば、何かを思い出すかもしれない。思い出すことができなくても、何かのきっかけを手に入れることが出来るかもしれない。元のエースに戻るまで、出来ることは何でも試してみるつもりだとチョッパーは言っていた。エースの一件については、ルフィはチョッパーに一任しているようだった。サンジがエースを連れて戻ってきたあの日、ルフィはチョッパーと何かしら話し込んでいたようだから、きっとそうなのだろうとゾロは想像している。
「そうか、上陸するのか……」
  溜息と共に、エースは言葉を放った。
  力無い弱々しい声は、以前の生命力に溢れたエースのものではなかった。



  夕方になって雨足が強くなってきた。
  マストを畳み、荒波を掻き分け、真っ暗になる前にどうにか見えた小さな島影に逃げ込むことが出来たのは、不幸中の幸いだろう。
  港町は小さいもののそこそこ栄えていた。先に立ち寄った島で散財をしたために予算が足りないとぼやきながら、ナミは仲間を引き連れて安宿へと向かった。
  あまり芳しくない天候のせいか宿では部屋が不足しており、二人部屋を三つあてがわれる羽目になった。宿の部屋はどこも汚く、狭かった。女性二人はともかくとして、男三人が二人部屋に押し込められると、空気がぐっと淀んだような感じがする。
  エースにとっては他人にも等しい者たちと、同じベッドでぎゅうぎゅう詰めになって寝起きするのかと思うと、神経がピリピリとなった。仲間でもない者と一緒の部屋に押し込められるのは、我慢ならなかった。
「心配すんな」
  ポン、とエースの肩に手が置かれた。
  部屋の割り振りでエースは、ルフィとサンジの二人と一緒の部屋になっていた。しかしルフィは、どうやらゾロやウソップ、チョッパーと話をしているほうが楽しいらしく、隣の部屋に入り浸ったままで戻ってくる気はこれぽっちもないようだ。
「あいつらなら慣れてるからな」
  そう言ってサンジは、小さく笑う。
  何もかもわかっているのだと言いたげなサンジの様子に、エースは胸の隅っこにモヤモヤとしたものを感じた。二人部屋を三人で使うことは気に入らなかったが、こういった気遣いをされるほうがもっと気に入らない。
  自分が、まるで無力な幼い子どもになったような感じがして、どうにもすっきりしないのだ。
  苛々と踵を返すと、エースはベッドに潜りこんだ。
  ぎゅっと目を閉じると、ごそごそと服を着替えたサンジが隣のベッドに潜り込む音が聞こえてきた。
  すぐに灯りが消え、薄壁を通して聞こえてくる隣の部屋の楽しそうな声に、エースは耳を塞がなければならなかった。



To be continued
(H20.4.20)



     2                                        10     11     12     13


AS ROOM